高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

カテゴリ: 梼原の学校

大正林用軌道インクライン跡の後に訪問したのが、そこから北上した梼原の「家篭戸」

理由はその地名の特異性。

2-2-5  地図


松原小学校跡を過ぎ左折し初瀬西小学校跡方面に向かう。

二度目の左折が「家篭戸」への道だ。

道も良好、周辺の集落も明るく、学校は廃校になったとはいえ人々の姿がある。

そして家篭戸への道に進み、地元のばあちゃん二人が話をする横を通り過ぎ家篭戸に向かい右折する。


が、、、いきなりそこからダートの道に。

周辺の集落は令和の時代にも続いているようだが、どうやら、、やはり、、家篭戸は昭和の時代の集落のようだ。


それでも令和の時代になっても現存する、受け継ぐべきもの、引き継ぐべきなにかを予感しながらすすむ。
その大きな理由の一つに、まだ電線が通っているから。

ダートではあるが状態は良い。

その先に「家篭戸橋」 設置されたのは昭和51年
2-3-2 すぐにダート その先に家籠戸橋

2-3-3  家篭戸


それまでは「つり橋」だったのだろうか。

それとも川を渡るための簡易な設備があったのだろうか。
2-3-4  51年3月


いずれにせよ、ここが当時からの「道」であった。


この先も電線が続くが、すぐに家篭戸一丁目に到着3-3-3  ここが家籠戸の一丁目

家篭戸川にそって東西に延びた耕作地跡が出現。

電柱もここで終了
3-3-11  電柱はここで終了

かといって、ここに民家が現存し電力を供給している訳ではない・・・・・

この先も家篭戸川を右に左に渡りながら進んだが、どうやらその後にできた作業道らしい

集落跡を下流にむかって
3-3-6  集落跡を下流に向かって

現在の基準では民家跡に見えないが、民家跡だと思う
3-3-6-2  民家跡に見える


あの分岐手前で地元のばあちゃん二人組に話を聞いておけばよかった
3-3-7  民家跡と耕作地跡だろうか


お墓はあるが、神社が見当たらない・・・・だけで、あるはず!!

3-3-7-2  もう民家跡は



そして集落の中央には耕作地を潤す水源がある。3-3-3-2  耕作地を潤す水路を中央に

かつて遠い昔、この地にたどり着き、水源を確保し、原野を開拓し、この地に生活の基盤を築いた先人達の勇気と知恵と、なによりもそのバイタリティが今の日本の礎になっている。

3-3-8  全ての杭に


そしてここには、屋台があった・・・・・

3-3-10  そしてここには、屋台があった  
んな訳ね~よ


・・・・・んな訳ねぇーーーーよ(笑)


それにしても、この家篭戸に児童生徒たちは一体どの道を使って小学校中学校に通っていたのか。
そして尋常小学校、尋常高等小学校に通っていたのか・・・・・・

この状況からすると昭和51年に家篭戸橋が設置されたとき、既に家篭戸の集落は無人ではなかったと思われる。

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(令和2年4月22日追記)
【昭和50年の航空写真・家篭戸周辺】
キャプチャ 50-2

キャプチャ 50-3

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現在ネット上には家篭戸に関する具体的な情報はない。
(とはいえ、現地付近に行けばまだまだ話は聞けそうです)

が「カロウト」という地名に対する興味深い記事があった。
https://www.shimanto-chimei.com/%E3%82%AB%E8%A1%8C-%E3%81%8B%E3%81%8D%E3%81%8F%E3%81%91%E3%81%93/%E3%81%8B/%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%88/

かろうと(カラヲト・唐櫃・唐音・鹿路都・家籠戸)


■編集子の語り

 遠い昔、カロウトの話を聞いたことがある。多分、梼原の家籠戸のことであったが内容はよく覚えていない。寒い風が通り抜けるような「カロート」の音が今も耳に残っている。

 このカロウト、先日NHK新日本風土記で放映していた。尾瀬の福島側の入山口となる雪深い奥山・福島県桧枝岐村では江戸時代から昭和30年代までの風習として、桧でしつらえたカロウト(唐櫃。実物は脚がない)を嫁入りに持たせ、男は成人になり渡されたという。このカロウトは、普段は衣装箱であるが、持ち主が亡くなったときには棺になるとのこと。冬場雪深いこの地ではすぐには棺をしつらえることができないことから、事前に備えた知恵である。それととともに、人生の終焉の備えは、臨終只今の覚悟でもあり、生きることへの潔さを感じるカロウトである。また、墓地も雪かきや墓堀りができるよう道沿いにつくられているという。貧村ゆえ僧侶も居つかないこの村では、村人が寄り添い葬送の儀をおこなったであろうし、日常的にも道端で祈りの手向けが行われていることだろう。

 

 この全国に分布するカロウトの地名について、桂井和雄氏は高知県内各地のカロウトの地名を示し「現地踏査によれば、峠のように見えながら、勾配のきわめてゆるやかな切り通しの道であることが共通していた。土佐市北地のカロウトの遠望は、カメラを通してのぞいて見ると、西日の影が差すその深い切り通しの道は、大きな墓地穴の底を連想させた。」という。

 四万十町金上野にあるカロウト越は、桂井氏のいう切り通しの道である。望めば横倉山とおなじ土佐修験の山「御在所」が鎮座し、その麓には「市野瀬」(イチの語は神をあがめるの意の「斎(いつ)く」のイツと同じ語源)があり、峠としての結界の地でもある。

 峠のおおくは村界でありそこには悪霊や災いが入ってくるのを防ぎ村を出ていく旅人の安全を守る賽の神(道祖神・祠・石仏)が祀られた。

 この世とあの世、世俗と修験、日常と非日常。その空間を仕切る事物は鳥居・注連縄・暖簾・箕と塩・躙り口など多様であるが、その結界の地を聴覚化し呼び継がれたのが「カロウト」ではなかろうか。

 

 「カロウト」地名について、桂井氏は「大きな墓地穴の底」と表現し、郷土史家・岡村憲治氏は幡多地域の事例から「小さい内地(うとち)」と解釈している。編集子が思うには、中世の葬制の変化により使われなくなり、「カラ」となった遺体を納める空間(納骨棺・洞穴)の「ウト」が、カラウト→カロウト→に転訛したのではないかと思う。物としての棺も、墓石の下に設けた石室も、結界である峠としての空間も、同じくカロウトと呼ばれるようになったと考える。

 長宗我部地検帳には県内各地に多くのカロウト地名が記録されていることから中世以前の地名であることは確かである。

 

 民俗研究家の筒井功氏は『葬儀の民俗学』や『「青」の民俗学』で「日本古代の葬制は洞窟葬である。古墳時代の横穴葬、塚を築く古墳も要するに洞窟葬の延長である。その葬法は、日本人の宗教観・他界観の反映であった。」と述べている。柳田國男も「石器を使っていた時代の人骨は出て来るのに、いかなる古い村にも中世以前の墓場というものがない」と述べていることから「カロウト」は各地の葬制と洞窟や峠の地形との関連、青地名との関係などを現地踏査することにより地名由来を発見することができると考える。

 カロウト地名の分布が大川(四万十川、仁淀川、物部川など)沿いには出現しないことから葬制の相関性が一つの発見になるかもしれない。

 

 余談だが、櫃は、脚を4,6本付けた蓋のある収納箱で湿気から衣服・書物などを守る役割を担った。これと同じ機能を持つ「おひつ」は蓋はあるが脚がない。いまでは炊くから保温まで一体化した器具をジャーと呼んでいるが、昔は炊いたご飯を「おひつ」にうつし余分な水分を取る最後のひと手間の調理道具(けっして容器ではない)があった。

 また、櫃でも脚のないものは、倭櫃(やまとびつ)と呼ぶそうだ。脚がないのに唐の字をあてているが、本来は亡き骸のカラの櫃で「カラヒツ」である。

 またまた、余談だが「おひつ」も夏になるとご飯がすえるので「そうけ」にいれた。それも取っ手のついたもので風がとおるところにひっかけ吊るしたものだった。秋にはふかし芋をどっさりそうけにいれていた。白米の消費を減らすため夕飯前に芋をたらふく食わすことが貧しい家庭の食料戦略だったという。おやつのない戦後世代はまさに「一杯喰わされた」。

 箕もそうけもおひつも暮らしからなくなった民の芸。箕つくりの職としてのサンカ社会がなくなり、つくる技がなくなり、すえるという味蕾も衰え、箕をつかってふるい分ける仕方など、民芸を失うことが暮らしの知恵を退化させていくのだろう。

 生活するチカラの弱くなった自律できない「ヒト」はいつしか絶滅危惧種になるのではと考えてしまう。

 暮らしの中で「チンする」は立派な動詞になっている。食文化の大革命である。食の素材は自ら菜園尻(しゃえんじり:自宅の周辺の畑)で育て、実を選別し、煮詰め、挽き、干すなどの加工を加え、醸し、蓄え、その一部を一夜の食とする。そのすべての過程をギュッと短縮した「食品」をチンすると、モノの時空が湯気の中から食卓に広がる。なんと便利な世界になったものだ。

 人生の最期もチーンとなって火葬されるが、煙突の先にはその人の歴史が煙となって空に消えていくのだろう。

 

(東京オリンピック以前の「昭和の伝承者」の使命をもつ60歳代)

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明治28年 初瀬西小学校から分かれて、初瀬東小学校開設
昭和62年 梼原小学校に統合

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美しい木造校舎
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学校の位置
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学校の歴史
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拡大しても読みづらいかもしれないが、その歴史は、この場所にあるこの石碑にしっかりと刻まれていて、この石碑がある限り、ここに学校があった事を、人の人生以上の長い期間、後世にそれを伝え続ける。
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今は「はつせ」になっている
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在りし日の初瀬東小学校

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全景。懐かしく、美し木造平屋の小学校跡地!!!

が、問題はここから!!!
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なんと、この歴史のある小学校跡地が、キムチ小屋にされているのだ・・
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きっかけは、1997年からの5年程の韓国人学生との交流らしいが
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こんな場所に何故「朝鮮」が必要なのだろうか??

初瀬東小学校の開校は明治28年。つまり1895年。
この年は日本が日清戦争に勝利した年だ。
そして、長い間 支那の属国だった朝鮮を「独立国」と清に認めさせた年だ。

そして1897年、朝鮮は「大韓帝国」と名乗り、日本にお願いして併合してもらうまでの13年間、彼らの歴史上 極めて珍しい「独立国」の期間を過ごす事になる。

そして、当時 日本は世界の一等国であり、朝鮮は世界の最貧国であった。

ここで勘違いしてはいけない事がある。

それは、当時 世界の最貧国であった朝鮮は、ただ貧しかっただけではなく、日本やその他の列強国にあったような、社会制度、歴史、伝統、文化、常識、モラル、そんなものの欠片さえ存在しない、日本人の想像可能範囲の遥か斜め下に存在する恐ろしい場所だったという事だ。

だから「小学校」という事に関して、当時の日本と朝鮮を比較しても、雲泥の差があるというか、全くお話しにならない程の違いがあるのだ。

早い話が、併合前の朝鮮には、「小学校」、というもの等、全くなかったのです。

いや「学校」が無かっただけではなく、「教育」そのものが無かったのです。

つまり、学校がない、という事は、教育というものがない。いや、その「教育」という「概念」が無かったのです。

だから教育が無いから、学校が無い。
学校が無いから、読み書きできる人も殆どいない。
読み書きも出来ないし、学校が無いから、学校に行って医学を学んで「医者」になろうとする人さえいない。

つまり、併合前の朝鮮には「医者」がいなかったどころか、「病院」そのものが無かったどころか「病気」「病名」という「概念」さえ存在していなかったのです。
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そして1905年、日露戦争に勝利し、朝鮮に駐留していた日本軍を完全包囲し、あのロシア軍を打ち破った「日本軍」を、恐怖のどん底、に陥れたのは、『性病まみれの朝鮮売春婦達』だったという話は、きっとこれから有名になってくる話だと思う。

そしてとにかく恐ろしのは、奴らが『性病まみれの朝鮮売春婦達』だったという事自体より、❝性病という自覚さえない、その病名すら持たない民族の不潔で不衛生で、どうしようもない糞尿民族の売春婦❞だったといいう事だ。

梼原さんよ!!!悪い事は言わない、やめとけよ!!!
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「ハングル」はいらない。

その理由

ハングルでは「放火」と「防火」が発音も表記も全く同じだから。
・・・・まだまだあるぜ!!!www
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入り口は「ハングル」表記のみ

どうなってのよ、梼原さん????
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そうそうこの看板の上の人形
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これこれ、このチマチョゴリなんだが
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チマチョゴリとは、もともとはこういうものだから、「歴史の捏造」はいかんよ

世界的にそれが、恥ずかしい事、だと悟った瞬間から全力で無かった事にしているそうだが。

この異様な雰囲気
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国道197号から始まるこの全力アピール
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日本人のそれとは、かなり「異質」なものを感じる
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これを見て「無気味」に感じるのは私だけではないはずだ。
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保守速報のこの件についての記事

さらに大腸菌入りキムチの件


どうやら梼原のスーパーでも売られているようだ。
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駅前の一等地にある。パチンコ店、焼肉店、サラ金、宗教団体。
あれは、戦後の混乱期に、「ウリ達は戦勝国民ニダ」と暴れだし、強盗、強奪、強姦、詐欺、殺人、、悪事の限りを尽くした朝鮮人が、日本人から日本人の土地、財産を奪い、居座り続けている場所なんですよ。

当時、日本の男達は戦場にいて、本土にいたのは、子供、老人、女性だけだったのですよ。


そしてこの映画は「真実」なのだ!!


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梼原の街から初瀬に向かう。
とても学校などありそうにない山道を走ると、急に開けた土地があり、そこに初瀬西小学校がある。
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学校の階段
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今は民家になっているようだ
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東側は施設になっている
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明治 9年 開校

昭和49年 梼原小学校に統合

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バス停も「初瀬」

時々、それでもバス停が「学校前」の時があったりして、そんな時は卒業生ではないのにこっちが嬉しくなってしまう。
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国道439沿いに案内がある
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地元の方も、もう体育館しかないよ、と言われていた。
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当時は子供達だらけだったそうだ。
それが今は人影もまばらな状態
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下の段には教員宿舎
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明治 7年 松原本村の寺を借り、これを教場として松原小学校を創設し、同村 医師 山中立成が児童を教授した。(梼原町史より)

平成10年 梼原小学校に統合
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中学校は昭和56年に梼原中学校に統合。
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立派な体育館
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学校に隣接するように保育園跡がある
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一目見てそれが保育園だとわかるイラストが乱反射でぼやけている・・・・
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集落を通る国道439号は拡張され走り易くなっているが、それがどこまでも続いている訳ではなく、すぐに一般的な山道に戻る。


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在りし日の松原小学校

というより、戦前の松原小学校
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(土佐・須崎・高岡の100年より)



航空写真で見る当時の松原周辺と松原小学校
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小学校
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四万川東小学校跡から山越えで越知面へ

到着
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校庭

と言っても、平成23年に閉校になったこの場所を、学校跡地扱いするのも気が引ける・・・・・
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この学校の歴史も長い
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開校 明治 5年
閉校 平成23年

その歴史 139年

そして明治5年、学制の発布と同時に小学校を開校させた、この越知面地区の教育の基盤というものを含めると、この地域の「教育の歴史」というものは200年以上、もしかして江戸時代をまるまる含める、400年に匹敵するものかもしれない。
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半世紀後、1世紀後もこの石碑は風化することはない。
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校舎
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玄関
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校舎から校庭を
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越知面中学校は昭和46年 梼原中学校に統合
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プールは見当たらなかった

でも、地元の子供達は元気に川で泳いでいる。
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こんな自然豊かな場所で、地元の川で泳ぎ、潜り、飛び込んでいる児童、生徒に対し、現在の学校の「水泳」の授業は一体何を教えれるというのだろうか???

プールに飛び込み台があるのに、「危ないから飛び込んではいけません???」

「馬鹿だろ、お前!!」か「お前は何を言ってるんだ!!」の世界だぜ!!

学校にプールが作られ始めたのは昭和40年、50年代の話。
そして何故、当時からプールに飛び込み台があったか。
それは、当時の世代は普通に、全く問題もなく、飛び込みをしていたから。

勿論、誰しも最初から上手に飛び込みが出来ていた訳ではない。
でも、出来ない子も頑張って練習し、回りもそれを応援し、お互い助け合って協力し友情を築き上げていたはずだ。
そして、それが一番大切な事で、昔はそれを大切にしていたのだが、現在の学校の学習指導要領には、それが欠けている。

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こんな山奥に何故こんな立派な小学校跡地が・・と思うが、ここは明治5年、日本という国家が、組織的に「学校教育」というものを始めたと同時に、小学校が設立された、当時としては全国的にも「教育」というものに対する意識が高く、さらにそれに即座に対応できる程、人材、財力、環境の整っていた土地だ。
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四万川の絆
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学校の歴史
明治5年に設立された、四万川西小学校、四万東小学校、明治32年設立の上成小学校の歴史は昭和59年、四万川小学校に引き継がれ、平成23年その幕を閉じる事になる。

その歴史 139年
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石碑
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三養は 知 体 徳
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今にも児童が飛び出してきそうな雰囲気
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ブランコが錆びている
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プール
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そしてこの場所には昭和47年まで四万川中学校があったそうだ。
(在りし日の四万川中学校)
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その四万川中学校も、四万川小学校がそうであったように、四万川西、四万川東、上成の学校が統合され、開設されたものであるが、3つの小学校が四万川小学校に統合されたのは昭和59年だが、中学校が一つに統合されたのは、その32年も前の昭和27年の話だ。

日本の中学校の開設は、戦後の昭和22年。当時の中学校は小学校に併設されて開設するケースは多い。
四万川の小学校の統合は、児童の減少によるものだったが、中学校の統合は生徒の増加によるものだったに違いない。

昭和27年、生徒の増加に伴い、四万川西中学校、四万川東中学校、上成中学校が、一つに統合され、この場所に四万川中学校が開校した。
その32年後
今度は、児童の減少に伴い、四万川西小学校、四万川東小学校、上成小学校が、一つに統合され、昭和47年に閉校になった四万川中学校の敷地に、四万川小学校の校舎の建設が始まり、昭和61年に完成した。

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四万川小学校を少し奥に入っていくと四万東小学校がある。
でも、同時に存在していた小学校ではなく、上成小学校と四万川西小学校と四万川東小学校が統合して、昭和59年に四万川小学校が誕生することになる。

そしてこの場所を四万川小学校の仮校舎として使用し、昭和61年、現在の場所に四万川小学校の新校舎が完成する。


御大典紀念・これは昭和天皇即位記念の事
同じ物が大豊の岩原小学校跡にもあった。日付はどちらも昭和3年11月。
また高知市内では御畳瀬にもあり、地元の方が大切に保存している。
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歴代校長の名前。
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学校の歴史
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明治5年 学制の発布と同時に開設されている。

過疎化が進み、周辺にあった3つの小学校が統合され、さらにその小学校さえ廃校になったこの場所だが、当時は今とは想像もつかない程、活気に溢れていた。
そして、教育の基盤もしっかりと出来ていて、人材も財力もそれに即座に対応出来るものだったという事が分かる。

当時は現在の高知市内、周辺より、この山間部が遥かに街だったという事だ。
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おの大きな木の下で、地元の方だろうか、テーブルを囲んでいた。
ここの土地の方であり、きっとこの四万川東小学校の卒業生でもあるのだろう。
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おの大きな木と、体育館はまだ当時のままのようだ。
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「在りし日の四万川東小学校」

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どちらに行っても峠を越えて愛媛県に着く、そんな場所。
右に曲がれば四万川西小学校跡地に着く。
その先に大野ヶ原がある。197号線からここまで来た事を考えれば大した距離ではないようだ。

そして、近くで地元の方に学校の場所を聞くと、そこから約1500mとの事。
理由は、当時はよく学校まで競争をしていたらしく、約5分だったという事が、その根拠らしい。
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そしてもう一度地元の方に場所を詳しく尋ねると、今度はここから約600m先の左手の対岸にある広い場所との事。

どうやらここの地元の方は、現在地から目的地までの距離を正確にメートルで把握しているようだ。

そして、その約600m先に到着。
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校舎はもうない、敷地の土も一度掘り返したとの事。
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正門
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四万川西小学校
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石碑
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明治19年 開校
昭和59年 四万川西小学校、四万川東小学校、上成小学校が統合し、四万川小学校開校
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校庭
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学校前の坪野田橋
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学校があった頃の風景
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昭和45年3月
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石垣は当時のまま。
明治19年の開設以前には一体何があったのだろうか・・・
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この坪野田橋の土台も昭和45年以前の石垣が転用されている。
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西川小学校から2号線を北上し、上成小学校に向かう。

沖のバス停。
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バス停が新しくなってもそのまま受け継がれていく看板!!
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到着。すぐにそこが小学校跡だと分かる木造平屋の校舎だ。
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当時の写真
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石碑
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開校 明治32年 

閉校 昭和59年

上成小学校、四万川東小学校、四万西小学校が統合し、四万小学校となる。
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校舎の西側は、上成文化交流館になっている。
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閉校後は、民間の企業が利用していたようだ。
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教室は当時のまま
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懐かしい木造校舎
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国旗掲揚台かな
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校庭で遊ぶ児童達を見守る二宮さんの視線!!
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そしてここにもプール跡はなかった。
まあ、プールがあったか無かったかは分からないが、この小学校の前にも素晴らし天然のプールがある。

あの川で普通に泳いでいたら、「プール」てのは必要無かったのかもしれない。

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