高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

カテゴリ: 吾川村の学校

イメージ 1


平成23年 仁淀高等学校廃校
平成25年 名野川小学校・寺村小学校・吾川中学校廃校

そして平成26年 大崎小学校も池川小学校に統合し廃校となり旧吾川村の学校は無くなってしまった。



大崎小学校の児童数の推移
イメージ 2

昭和10年には500名を超す児童がいた
イメージ 3

昭和46~49年と昭和56~59年を比較しても殆ど変わらない
またこの期間に他校の統合はない。
イメージ 4

昭和60年代に入っても150名を超す児童が通学していた

それから30年後、その全ての小学校が廃校になるとは誰も予想、いや想像すら出来なかった事だろう・・・・


イメージ 5


寺村小学校

加枝小学校

大崎小学校
宗津分校・遅越小学校(大崎小学校の前身となる学校)

吾川中学校

久喜小学校

名野川小学校

イメージ 6


下名野川小学校

上名野川小学校

イメージ 7


長渕小学校

仁淀高等学校・中学校


高知県ランキング

イメージ 1


学校の歴史

明治18年 下名野川小学校の名野川分校として開設
      同時期に下北川小学校、峠ノ越小学校が開設

明治20年 独立し名野川簡易小学校
明治24年 名野川尋常小学校

平成14年 下名野川小学校を統合
平成24年 閉校、生徒は旧仁淀村の別府小学校に転校


この名野川小学校は中津渓谷の集落の風景に溶け込んでいる。
イメージ 2

私が国道から見えるこの建物が小学校という事を意識し始めたのは最近の話!!

イメージ 3

道路は高度を上げ、すぐに学校の裏手のこの高さまでになる。
イメージ 4

学校の石碑
イメージ 5

卒業生2,553名
イメージ 6


この100年を超す歴史を持つ学校の敷地を支え続けてきた岩盤が、遂に閉校後に、一部崩壊し始めたのか??と思ったが・・
イメージ 7

どうやら道路を拡張しているらしい!
この奥でも拡張工事が始められていた。
イメージ 8

児童数の推移
イメージ 9

イメージ 10


名野川小学校が平成24年に閉校になり、一時は500名を超す児童の在籍していた大崎小学校も平成26年に閉校になり、遂にこの旧吾川村地域には小学校がなくなってしまった。

昭和22年 国民学校から小学校に名前が変わったとき、この旧吾川村地域には8つの小学校があり、1,391名の児童がいた。

昭和40年、今から約半世紀前、小学校の数はそのままで、752人の児童がいた。

現在この地域(旧吾川村)の小学生は(名野川は別役小学校)池川小学校に通っているが、はたしてこの人数の中に、旧吾川村の児童は一体何人なのだろうか??
イメージ 11

高知県ランキング

イメージ 1


学校の歴史

明治初期 下名野川タシロ141番地に第三大学区第45中学区31番下名野川小学校

明治20年6月30日 下名野川簡易小学校
明治24年8月30日 下名野川尋常小学校

平成 5年 上名野川小学校を統合
平成14年 名野川小学校に統合

全景
イメージ 2

バス停はまだ「学校前」のまま。
イメージ 3


現在は「山村自然楽校しもなの郷」として稼働中!!
イメージ 4

児童数
イメージ 5

イメージ 5

昭和10年から終戦頃まで、児童数が激変している。

上名野川の郷学校との関連があるのだろうか??

もうちょっと深い事情があったのだろう。


高知県ランキング


イメージ 8

学校の歴史

明治18年以降の開設
明治20年6月30日 下名野川簡易小学校
明治24年8月30日 下名野川尋常小学校

明治42年 奥名野川、下名野川、両尋常小学校を統合し名野川第一尋常小学校

昭和13年 第一尋常小学校の移転の位置に伴う反対があり、奥名野川字スヤザキ617番地に郷立小学校を開設

平成 5年 下名野川小学校に統合


現在h明神ランドとなっているが・・・・
イメージ 1

学校前の橋
イメージ 2

中津嶺望橋
イメージ 3

昭和38年。それ以前は「吊り橋」だったかも!!
イメージ 4


校舎完成の石碑
イメージ 5


卒業生の作品
イメージ 6

児童数
イメージ 7


児童数が昭和26年からの記載になっているのは、明治42年に奥名野川、下名野川、が統合され名野川第一尋常小学校となり、昭和13年に学校の移転の場所に反対があり、郷小学校が設立された関係からだと思う。
そして、その郷小学校が上名野川小学校になったのではと思う・・!!

高知県ランキング


と言っても、明治24年9月21日に大崎尋常小学校が始まる以前に存在した学校。

大崎小学校の歴史は、明治9年の大藪小学校、遅越小学校、葛原小学校、本村小学校の開設にまで遡る。

当時の学校と校区。
イメージ 1

イメージ 2

大崎尋常小学校創立までの流れ。
イメージ 3

イメージ 4


そして吾川村史に記されている、それぞれの小学校の番地をもとに周辺付近を調査してみた。

まずは葛原小学校の葛原467番地。
この番地は既に住宅地図では確認できない。まあ、法務局に行って公図と謄本をとれば分かる事もあるだろうが、やはり現地に行ってみるのが一番だ。

・葛原付近
イメージ 6
もはや民家の跡さえ無いがお茶の畑と水田で昔ながらの田園風景は当時のままだろうか。
イメージ 5

大崎の集落を見下ろすその奥に遅越の集落が見える。

もう学校の場所は分からないが、一つだけはっきり言える事がある。

それは当時、葛原小学校から遅越小学校が、遅越小学校からも葛原小学校が見えていたという事だ。

そして大崎に方面に少し下ると、神社があり、ヘリポートがあった。
もしかして、民家の無くなったこの葛原の集会所がヘリポートになったのかも!と推測できる。そしてそれ以前の集落の人々のための場所で土地であったとしたら、明治初期に、ここに葛原小学校があったとしてもおかしくない話だ。
イメージ 7

あらららら、、、これでは遅越小学校が見えないではないか・・・・


・川井小学校
大崎簡易小学校が火災で焼失した後の移転先、川井59-2番地。
これも住宅地図では確認できない。
もしかして現在川井集会所があるこの場所が道路が拡張されアスファルトが敷かれる以前に大崎簡易小学校のあった場所かもしれない。
イメージ 8


・大藪小学校
大藪1005番地も住宅地図では確認できない。(1003番地はあったけど)

でもこの当時この風景の中に大藪小学校があったと推測できる。
イメージ 9

ポストはあるが、地元の方が見当たらない・・・
イメージ 10

そして今度こそ、確実に言える。
当時、大藪小学校から本村小学校、田村簡易小学校を見下ろせ、川を挟んだ山の上に宗津分校が見え、宗津分校からも、本村小学校からも、田村簡易小学校からも、大藪小学校が見えていたという事を!!!
イメージ 11


・長屋簡易小学校・(大崎尋常小学校 長屋分校)

長屋237-1番地、これも住宅地図では確認できない。
イメージ 12

今までの例でいけば、この長屋集会所が学校跡地の第一候補地に挙がってくる。
イメージ 13




・本村小学校(本村108番地)、田村簡易小学校(田村643番地)
イメージ 14

本村109番地は川沿いの施設の隣だが、
イメージ 15


本村の集会場はそこより標高の高い場所にある。
イメージ 17
↑↑川沿いの本村   ↑↑↑その上も本村  →→田村
当時は山間部にも多くの民家が存在していた訳で、現在の公の場所であるこの集会所が以前に地域の小学校があった場所と考える事も出来る。
イメージ 16

で、田村647番地の田村簡易小学校跡は全く分からず・・・

・宗津分校

が、しかし、吾川村史に記されている宗津分校の宗津396番地は確認できた。
イメージ 20

もう少し拡大
イメージ 21


ここだ
イメージ 22

この石柱のある民家が宗津396番地になる
イメージ 23

が、しかし
その隣に宗津集会場が・・・
イメージ 24

もしかして、こちらが宗津分校跡かもしれない。
イメージ 25

きっとそういに違いない。

地元の方に話を聞きたかったが、その地元の方がいない・・・

・引地小学校

吾川村史に記されている引地小学校の引地192番地も住宅地図では確認出来ない。
もしかしてあの国道沿いの休憩所が学校跡かも、なんて思っていたのだが・・・・
しかし190番地は住宅地図で確認出来る。
イメージ 18

そしてここで地元の方に話を聞く事が出来た。

100年以上昔の小学校の話。日露戦争以前の話。お隣の中華人民共和国が満州人が漢民族、チベット、モンゴル、ウイグルを支配していた清朝だった時代、ちょうどハワイがアメリカに侵略されアメリカになってしまった頃の話。

自分の父親より年上の地元の方に「あんた今頃何言ってんの・・・???」

と言われると思っていたが、一気に5名程の地元の方が集まってくれた。
結局、お父様が明治32年生まれだと言われていた地元の方でさえ、その話は知らないとの事でしたが、おかげで遅越の話、そして遅越山の上に「関所跡」があるという貴重な話を頂いてきた。

そしてこの引地小学校も神社の隣の、この集会所が跡地かもしれない。
すぐ隣が190番地だし。
イメージ 19



・遅越小学校

そして、吾川村史に記されている遅越小学校の遅越130番地は住宅地図で確認出来た。
イメージ 26


この日は名野川方面からアプローチ!
イメージ 27

全くどこを走っているか目印もないまま峠の大平神社に到着し、場所の確認が出来た。

そしてこの神社のある峠が、昔の大崎村と名野川村の境界だとの事。

そして遅越130番地が見えてきた。
イメージ 28


この石垣の上の民家が遅越130番地。なるほど小学校があったのも頷ける!!!
イメージ 29

そして敷地には石碑があるではないか!!!!

もしかして明治時代の遅越小学校時代の石碑、、かと思えば

遅越の庄屋跡との事
イメージ 30

家の方がおられたので話を聞く事に。

で、ここは確かに遅越130番地で、遅越の庄屋跡であり小学校跡ではないとの事。

そして小学校跡は、すぐ下の防火水槽の奥の遅越の集会場だと教えて頂いた。

庄屋跡から下り
イメージ 31


集会場だ!
イメージ 32

この集会場は学校以前はお寺で、この集会場の中に当時のお寺だった頃の資料も残されているとの事。

つまり明治以前、江戸の時代の話だ!
イメージ 33


遅越の関所の事もあるし、再訪すべき地区である。
イメージ 34


そしてまた、ここから葛原がどのように見えるかも確認してみたい!!!

高知県ランキング

イメージ 1


大崎小学校も平成26年度に池川小学校に統合され、旧吾川村には小学校が存在しな状態になってしまった。

そして、大崎小学校の隣には新しい役場が建設中である。
イメージ 2

もしかしてこれが完成すると
イメージ 3

この国道沿いの繁華街に活気が戻り
イメージ 4

このふれあい広場にも活気が戻り、もしかして大崎小学校が復活するのでは、と期待したりもする!!!
イメージ 5


大崎小学校の児童数の推移
イメージ 6

昭和10年には500名を超す児童
イメージ 7

昭和60年にも150名を超す児童の在籍していた小学校だ。
イメージ 8


この小学校の歴史は明治9年の、大藪小学校、遅越小学校、葛原小学校、本村小学校の開設から始まる。
イメージ 9


大体の場所と校区はこんな感じ
イメージ 10

イメージ 11


そして明治33年の大崎尋常小学校開設までの流れはこんな感じ
イメージ 12

イメージ 13


こうなってくると気になってくるのが、明治9年に開設された4つの小学校の場所と、それに伴い設立された簡易小学校、分校の位置!!

もう100年以上も昔の事になるので、現在当時の事を知っている人さえいない訳で、
大藪小学校(現在の桜)は1005番地に対して1003番地
本村小学校は108番地に対して109番地
イメージ 14


葛原小学校と長屋簡易小学校は、それに近い番地が見当たらず
イメージ 15


引地簡易小学校は、「引地192番地」付近がこんか感じで
イメージ 16


川井は現在の大崎の事らしいから32番地は推測できる
イメージ 17




そして遅越小学校と宗津分校の地番は確認出来た!!!

では遅越小学校と宗津分校のあった場所に行ってみよう!!

高知県ランキング

イメージ 1

学校の歴史

明治 9年 岩戸字ジンガクボ267番地に寺村小学校として創立

明治16年 岩戸字オカノマエ233番地に岩戸分校を設立

明治20年 寺村簡易小学校と改称
      岩戸分校は独立し岩戸簡易小学校となる

(簡易小学校とは一日の授業時間が3時間以下の小学校で、一日の授業時間が6時間以下の尋常小学校とは区別されていたようです。
明治5年の学制発布以来、数回、教育令、小学校令などが出て体制が少しづつ変わっていってるようです。)

明治23年 校舎を改築(工費51円)

明治24年 5月 岩戸簡易小学校を統合
      9月 寺村尋常小学校と改称

明治31年 3年間の継続工事をもって寺村字福婆ヶ谷3773番地に校舎建設
      買収及び造成工事、489円57銭5厘
      木造平屋建瓦葺校舎48坪の建設費1217円77銭3厘

明治32年 2学級編成となる
      第一学級、1・2年 第二学級3・4年
      (小学校が6年制になるのは明治41年から)
       (が、いわゆる小学校教育にあたる年齢は6歳から14歳まで)

明治42年 寺村字辻ノ畝981番地に校舎を建設
      3学級編成となる
      (どういやらこの場所が現在の位置らしい)
       この時に教員住宅(4坪)も建てられている

大正10年 4月1日4学級編成となる
      第一、1年・第二、2年・第三、3,4年・第四、5,6年

大正12年 経費削減のために学級を整理、3学級となる
      (当時の小学校の運営は授業料と寄付で行っていた)

昭和26年 校舎改築工事落成、木造2階建瓦葺744.1㎡ 建築費315万円
      (昭和26年は小学校の児童数が232名とピークの時期)

昭和27年  講堂新築落成 木造平屋瓦葺213㎡ 103万5千円

昭和50年 10月 創立100周年記念行事

昭和56年 校舎新築落成 853㎡ 工費1億1100万円

昭和59年 屋内体育館改築工事落成 鉄骨造平屋351㎡ 工費4758万9千円

平成15年 大崎小学校に統合



33号線で越知から吾川村に入る手前のあの山の上にに見えるのが寺村小学校
イメージ 2

昭和56年に建てられた校舎はもう無い・・
イメージ 3

卒業生の作品
イメージ 4


石碑
イメージ 5

吾川村史の寺村小学校
イメージ 6

集落と33号線が見渡せる
イメージ 7

なかなかいい場所だ
イメージ 8

少し下に降りると運動場がある

プールが取り壊されている
イメージ 9

鉄棒とローラー
イメージ 10

ここも集会所になっている
イメージ 11

奥は花里公園
イメージ 12

それにしても平成15年に休校になった小学校プールを壊すなんてもったいない!!

地元の子供達のために残しておいてあげてもいいんじゃないか!!!!

なんて思いながら、その子供達がいなくなったから小学校が閉校になった訳で、過疎化が進み、子供達もいなくなり、年寄ばかりの集落にある小学校跡地のプールを壊すのは極めて合理的な考え方である!!なんて考える自分がちょっと嫌になったりしたりもする・・!
イメージ 13

寺村小学校の児童数の推移
イメージ 14

イメージ 15

戦後には200名を超す児童のいた寺村小学校

という事は当時この校区には1000名程の人々が住んでいた事になる

それが小学生がいなくなり、小学校も廃校になり、20年先、30年先は一体どんな状態なのだろうか!!

でもこういう話はできるだけポジティブに考えたいものだ!!!!


(寺村簡易郵便局は現在も稼働中)

イメージ 16

高知県ランキング

イメージ 1


学校の歴史

明治 7年 第三大学区第45中学区第126小学区・山腰学舎として設立
      男子教員1名 男子18名 女子1名
      授業料は月、1円45銭8厘(文部省 第二年報 明治7年)

明治 8年 久喜小学校と改称、旧民家(庄屋宅)を借用
      男子38名、女子1名 授業料有り
      初代教員は、日浦盤夫さん、(加枝小学校は日浦正明さん)

明治20年 7月、久喜簡易小学校と改称

明治22年 4月25日 校舎改築6月12日に落成

明治25年 4月久喜尋常小学校となる

明治41年 別府第二尋常小学校と改称(加枝小は別府第一)

明治43年 二学級編成となる

大正10年 二月、校舎改築、落成


昭和41年 大崎小学校に統合


半世紀前に廃校になった久喜小学校の校庭で子供たちが遊んでいる。
イメージ 2

いいことだ!!
イメージ 3

これは昭和62年の吾川村の住宅地図
ご丁寧に20年前に廃校になったこの久喜小学校跡地の記入がある。
(加枝小学校跡地に記入もありました!!!)

イメージ 4

これは吾川村史の久喜小学校の写真
現地を通った事のある人にしかわからないが、この道は当時のまま!!
イメージ 5


久喜小学校の児童数の推移
イメージ 6

昭和20年には96人の児童の通う小学校だった!!
イメージ 7

久喜には33号線の相能から、スターウォーズに出てきそうな風景の中にある沈下橋を渡って来るのが一番早い。

そして山道を駆け上がって到着した久喜の集落の風景に、初めて訪問する人は間違いなく「いいね!」をする事だろう。

・・・が、問題が一つある!!

なんなんだこの看板は
外国語を使用するのであれば英語だけでいい。
イメージ 8

「パクリ」という言葉があるが、
あれは「朴さん」と「李さん」が常習犯であるがために出来てしまった言葉。
そんな「朴さん」「李さん」の祖国の言葉など、この日本に不要だ。

いやいや、あれは言葉ではなくただの「発音記号」ですから!!

そしていつの間にか「漢字」を使わなくなった、使えなくなった彼らは漢字を読む事が出来なくなり、漢字で書かれている正確な歴史を知る事が出来なくなり、さらに韓国政府が最近作った嘘の歴史を教えられ、もう国家レベルでも、個人レベルでも、ど~しようもない状態になってしまっているのだ。



高知県ランキング

イメージ 1

国道33号線から橋を渡り加枝小学校に向かうと、対岸に川沿いに建つ観光ホテルのような建物がある。そこが吾川中学校跡。
開校時の昭和51年には7クラス、226名の生徒が在籍していた。
イメージ 2

この校門は当時のまま。
イメージ 3

今は森林組合になっている。
イメージ 4

石碑
イメージ 5

石碑
イメージ 6



学校の歴史

昭和51年4月1日、村立大崎中学校と組合立仁淀中学校の吾川村の生徒をもって、吾川中学校として発足。
4月1日から7月31日(校舎が完成するまで)は旧大崎中学校の校舎を仮校舎として授業を行う。

平成25年 池川中学校に統合、廃校となる。

吾川中学校の生徒数の推移
イメージ 7

開校時226名の生徒、昭和61年に174名の生徒が在籍していた中学校が30年後に廃校になるとは・・・
しかも、平成26年には大崎小学校も廃校になり、旧吾川村には学校が無い状態になってしまった。


そしてその前身の大崎中学校は、昭和22年、大崎青年学校、大崎小学校の一部を利用し発足。
昭和23年11月20日、大崎字椎木畝214番地で起工式。
現在新しい役所を建設しているこの場所だ。
イメージ 8
奥に見えるのが大崎小学校
イメージ 9

イメージ 10

そして昭和25年10月29日落成!!

昭和31年11月28日 学校図書館開館

昭和43年4月15日 完全給食を開始

大崎中学校の生徒数の推移
イメージ 11


一方、組合立仁淀中学校は、昭和22年名野川小学校の一部を利用して開校した名野川中学校と、仁淀村の(仁淀村は昭和29年、長者村と別府村が合併して発足)、森小学校の一部を利用して開校した森中学校が昭和24年12月26日に合併統合し、大渡452番地に開校。
仁淀中学校
森小学校

昭和25年4月 上名野川地区通学生のために名野川に民家を借り寄宿舎を設置。

昭和37年 寄宿舎男子寮設置 女子寮別棟に移転

昭和41年 寄宿舎を改築落成

昭和42年 1月10日完全給食を開始
     (寮があったためだろうか、周りの小学校より一足先に給食を開始している。因みに私の中学校時代は昭和50年代後半だが給食ではなく弁当だった・・)

昭和47年 吾川村村営バスを運行しバス通学が始まる。

仁淀中学校の生徒数の推移
イメージ 12

昭和51年3月21日 吾川、仁淀の両村は学校の通学、規模による整備された教育環境の必要性を痛感、それぞれの村内の中学校を一校に統合する目的をもって閉校することとなり閉校式を挙行。
(吾川村史より引用、抜粋)

でもまあ、大崎中学校は昭和30年に375人、閉校前の50年でも130人、組合立仁淀中学校も昭和25年で291人、閉校前の50年で98人在籍していた訳で、過疎化による生徒数減少が原因というより時代の流れというやつだろうか・・・


そして昭和51年、仁淀村では別枝中学校、泉川中学校、長者中学校、組合立仁淀中学校の仁淀村の生徒で、仁淀村の川渡小学校の場所に仁淀中学校が開設され、吾川村では、大崎中学校と組合立仁淀中学校の吾川村の生徒で、吾川中学校が開設される。

そしてその40年後、国道33号線沿いの大崎小学校、吾川中学校は廃校になり、旧吾川村の小中学校は存在しない状態になり、一方国道、酷道439号線の走る旧仁淀村の別府小学校、長者小学校、仁淀中学校が現在も存続しているのは、やはり鳥形山のおかげなのだろうか。

そしてさらに肩書が佐川ー長者線であるが、実際は繋がっていない県道302号線。
あれは小日浦の人々が当時農業が盛んだったために村のど真ん中に県道を通す事に大反対し、反対運動に勝利してしまったために、かえってその後の人の流れが悪くなり、その事で逆に過疎化に拍車を掛けてしまったという話。
もしかして、小日浦の人々が県道建設を受け入れていれば、またその後の状況も大きく変わっていた事だろう。



それにしても組合立仁淀中学校は、あの中津川温泉の名野川に寄宿舎があり、そこから通学していたとは。
名野川小学校も廃校になっとはいえ、あの中津川温泉の名野川は今でもその季節になれば多くに人で賑わう観光地。
引地橋も高速道路が完成するまでは高知ー松山の中間地点として賑わっていた場所。
それが、それ以前の昭和40年代、30年代、20年代となると、今では想像もつかない程賑やかな場所だった訳で。

そんな場所に寄宿舎、寮があり、そこから中学校に通っていたとは・・
なんだかとっても羨ましい気もするんだが!!!

高知県ランキング

イメージ 1

学校の歴史

明治 7年 第三大学区第45中学区127小学区の新学舎として創設。
      加枝字カミクボに間口四間・奥行二間半の校舎を建設。
      男子教員一名、男子児童9名、授業料・月・1円58銭
      初代教員は、日浦正明さん。
      (お隣の久喜小学校も明治7年に開校。初代教員は日浦盤夫さん
      授業料は・月・1円45銭8厘
      珍しく、校舎を新築して創設された学校になる。)

明治 8年 加枝小学校と改称・児童数18名

明治20年 加枝簡易小学校と改称
     (簡易小学校とは1日の授業が2~3時間の学校で小学校とは
      少し違っていたらしい。)

明治25年 加枝字井ノ谷880番地に間口7間、奥行4間の校舎を新築移転

明治41年 別府第一尋常小学校と改称・(お隣の久喜小学校は別府第二)

明治44年 加枝字竹ノ内1235番地に校舎を新築
      校地175坪・校舎36坪・教室22坪・運動場85坪・実習地20坪

昭和41年 大崎小学校に統合、廃校


どうやらこの校舎は明治44年に建てられた36坪の校舎のようだ。
イメージ 2
      

加枝地区に到着。すぐに学校があったらしき場所が見える。
イメージ 3

多分ここだろう!!
イメージ 4

きっとここに違いない!!
イメージ 5

どう見ても学校があった場所に見える!!
イメージ 6

集落が見渡せるこの場所が加枝小学校の跡地だと思う。
が、地元の方がいない・・
イメージ 7

もしや、これは小学校のプールだろうか!!
加枝小学校が廃校になったのは昭和41年。だとすると、昭和30年代、もしくは20年代に作られた極めて珍しい小学校のプールという事になる。
イメージ 8

そして、地元の方に話を伺う事が出来た。
その場所はやはり加枝小学校の跡地だった。
そして、これはプールではなく防火水槽との事。
しかし実際はプールのように使っていたとの事。
イメージ 9

昭和41年に小学校が廃校になったこの加枝地区
パジェロが自然と一体化しようとしている。
イメージ 10

加枝小学校の児童数の推移

明治45年 児童数60名・学級数2・教員数2名
廃校前の昭和40年 児童数24人・学級数3・教員数5名
イメージ 11

イメージ 12

明治23年頃の日本全国の小学校の数は、2万6千校ぐらい
教員数は6万2千人ぐらい。

そして、現在、日本全国には2万校程の小学校があり
教員数は40万人程である。

高知県ランキング

↑このページのトップヘ