高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

カテゴリ: 香北の学校

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無人になって半世紀の日本の山間部の集落跡
確かに「過疎化」が原因ではあるのですが、ではその「過疎化」の原因は何かと言うと「食料自給率の低下」でしょう。
そしてその「食料自給率の低下」の原因は「先の戦争の結果」でしょう。

数百年以上続く日本の山間部の集落の歴史を失う事は取り返す事の出来ない大きな損失ですし、食器に頑固な油汚れの付く食事をするようになった日本人は「本来の日本人の性能」そのものを低下させているとも思います。
いろんな意味で「日本を取り戻しましょう!!」
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岩改小学校跡にある皇紀2600年の石碑
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岩改小学校

西川小学校

西川中学校

暁霞小学校

府内小学校

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河野小学校

再訪


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谷相小学校

永野小学校

清爪小学校

猪野々小学校

大屋敷

御在所山

大久保

在所橋・大荒の滝

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在所橋
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昭和29年架設
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下流側に一代前の橋台が残っている
当時この町内でいろいろと揉め事があり大変だった時に、先代の橋が焼け落ちてしまい、それどころではない、橋の復旧が最優先だ!!という事で全員が一致団結して掛けられた橋。

下は
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美良布周辺はほぼ同じ標高に多くの集落があるかのように感じるが、実はかなり高低差のある川で分断されていて結構巨大な橋を渡って隣の集落に移動する事になる。


そして在所橋を渡り、梅久保に渡る橋の先代の橋があった場所
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ここに五在所山神社への道しるべがある
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左へ 一里三丁

一里は36丁(町) 一丁は60間 

1.818m×60=109.08m=一丁

109.08m×39=4.254㎞

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そういえば北川村で地元のおばあちゃんに学校跡地の事を尋ねると「ここから一里先」と教えてもらった事がある。




大屋敷の奥にある大荒の滝

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林業が盛んで大屋敷の木馬茶屋に休み場があった頃、この周辺も林業に携わる人達の姿が多くあった事だろう
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でも写真で滝の事をどんなに頑張って表現しても全く何も伝える事が出来ないからやめとこう・・・・

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地図ではまるでそこに集落が存在しているかのように記載されているが、実際は半世紀程前に無人になった集落である。

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梅久保から林道で在所山の鳥居に向かう

大久保の集落跡はその鳥居の少し手前にある
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最初は気付かずに通り過ぎてしまっていたが、道路脇には
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また少し西には鳥居が見える
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右の灯篭は帰りに直しておいた
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灯篭の日付は明治42年と43年
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この道を進んでいっても御在所山山頂にある韮生山祇神社に着く
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また林道の脇に石垣跡が見える
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集落跡
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そして民家跡が一軒
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ここの方が大久保最後の住人に方で昭和40年代中盤まで住まれていて、清爪にも住居があり、そこに移っていったそうだ。
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電気も来ていた
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洗濯機
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ナショナル
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洗濯機がありお風呂があり、当時の配置のまま建物が崩壊している
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この民家跡の近くにこの大束では御馴染みのこの石灯篭がある
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日付は昭和6年
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その横にお墓がある
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お墓の灯篭の日付は明治23年
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お墓の日付は明治15年
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更にその奥には嘉永の日付のお墓がある
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お墓のある場所の石垣は周りの石垣より頑丈に造られている
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下の段の民家跡
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コーラ
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当然今の林道すら無い時代にここまで民家一軒分の瓦を運んでいた

美良布周辺にも当時は瓦製造会社が数多くあったそうだが、交通の便が発達すると次第に数を減らしていったそうだ


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テレビ
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バイク
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自転車
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林道を挟んだ南側にも集落跡が続く
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林道建設で大久保の集落跡が平坦な道路になってしまったのは残念だ

ここも大久保の住居区域
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ガスボンベ
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風呂釜
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手動の洗濯機 これは昭和38年前後のものだ
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こちらもナショナル
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そしてここにも石灯篭がある
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ここだけお賽銭がある
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山祇神社の鳥居の場所にも同じ文字がある
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ここにも民家跡がある

「在所村史」によると大束部落(大久保、大屋敷、権束)は30戸位の小さな部落で文化に恵まれない不便な生活をしていたと記されているが、大屋敷、そしてこの大久保をみた限りではそうは感じない。

また昭和23年、農地増加、農家の分戸対策で大束に5町歩の開拓部落が出来たそうで、それはこの場所からもう少し東の場所で現在は消滅してしまっているそうだ。

またこの大久保の西にも東にもマンガンの採掘場があり、地元の方は開拓団とはそのマンガンの採掘に来ていた人の事ではないかとも言われていた。

いずれにせよ大屋敷は「王屋敷」、大久保(大公方)で平家ゆかりの地名があり、先の時代から明治、大正、昭和と引き継がれていった石灯篭をみると質の高い伝統的な暮らしをしていたのではと想像してしまう。
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そして索道がある
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最初は林業関係の設備でそれに合わせて生活物資を運ぶ事にも利用されていたのでは、と思っていたが、林業は全く関係なく、この大久保の生活物資を運ぶ為の専用の索道との事だった。
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だとするとこの索道で、テレビ、冷蔵庫、洗濯機等が運ばれてきた、という事になるだろう


そして先程の民家の瓦はこの索道の一代前の索道で運ばれてきたという事になるのだろうか
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動力室
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という事はこのエンジンも先代の索道を使って運ばれてきたものになるのだろうか

この索道の先代の索道があったという確たる証拠はないが、大久保の集落では昔から索道を利用していたと考えるほうがいろいろと辻褄が合う
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子供用の靴が落ちている

ここの児童達は当然ここから清爪小学校に通っていた
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行きはいいとして、帰りは結構時間が掛かった事だろう

私が大屋敷から御在所山山頂まで1時間掛からずに登れたから清爪から大久保までは2時間程は掛かっていたかもしれない

でも今のゆとり世代と比べ昔の子供はタフだったから平成の時代の感覚で考える程大変だった訳でななかっただろう


だって当時は綺麗な山道で、四季折々の楽しみがあり、道には地元の人々の往来があり、通学路の先々で畑で仕事をしているお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんがいたから。



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集落跡にある大きな岩の上にある石灯篭

この集落の時代の長さ、歴史の深さを感じてしまう

もしかして1千年近く人々が住み続けてきた場所で、その歴史の長さから比べると人が住まなくなってからはまだちょっとしか経ってない状態かもしれない。

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そして登山モードで「木馬茶屋」に到着


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奥の建物の屋根には今日もエンジンが載っている
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登り口
往復3時間とはあるが1時間程で登る事が出来た
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登り口には給水ポイントがある
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平坦な道を少し進む

右手に石灯篭がある

この灯篭はこの先各地で目にする事になる
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日付は明治24年

また明治時代の旧11月とは一体どういう事なのだろうか
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大屋敷の文字がある
明治時代には既に「王屋敷」から「大屋敷」になっていたという事か
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平坦な山道はすぐに終わり勾配のきつい山道が始まる

大正時代の道案内
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16丁30間

一丁は60間で約109m  約1.8キロの山道


給水ポイント

茶屋からは3カ所目だ
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そして林道に交差する
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ここに韮生山祇神社の鳥居がある
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日付は大正13年
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ここにもこの石灯篭
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こちらの日付は昭和9年
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これも別の場所でも見る事になる
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少し登ると

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時代は慶應のものとなってくる
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山祇神社
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四カ所目の給水ポイントは
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植林になる前は水量も豊だったそうだ
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時代は文政のもの
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奥には石仏が置かれている
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尻見坂
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入山安全祈願
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もうすぐだ
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日付は文久3年
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梅久保村

当時から存在していた村だ

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着いたようだ
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ここで地元の方に合う事ができ、いろいろと話を聞かせていただいた
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在所村史によると韮生山祇神社の建立は宝暦2年10月とある

また歴史年表では寛延1年(1748年)となっている




帰り道

梅久保の集落

ここでにも同じ石灯篭がある
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登る前に御在所山に登った人のブログを見たが、登山の道中で一人歩きの綺麗な女性とすれ違ったそうな。

そういえば私も登り口付近で、行き、帰りの二回、凛として美しい女性とすれ違っていた。


偶然にしてはあまりにも出来過ぎた話である。

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美良布から物部川を渡り大屋敷に向かう

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梅久保の周辺案内図

もう「大屋敷」の地名はない

そのかわりに「木馬茶屋」の文字がある

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集落手前の橋
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橋の左の橋の名前が書かれていたであろう部分は欠落している

住宅地図では「大束橋」となっている

そういえば電柱の表記は「オーツカ」だった
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昭和38年に架設されたもの
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そしてすぐに「大屋敷」に到着
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「木馬茶屋」
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平家の郷 

またこの「大屋敷」も平家ゆかりの地名で「王屋敷」から変化したものらしい
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そしてまた戦前、戦後にかけて林業が盛んだった頃も歴史の1ページである
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在所山の水
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トイレも完備
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ここは在所山の登り口でもある
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集落を登ってみる

鳥居がある
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降りる
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神社の名前は分からないが「王屋敷」を訪ねて高知市から来た事を伝えてきた
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奥には民家跡
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倒壊したのは最近の事だろう
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セメント屋根
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更に上に登る

綺麗に手入れされた集落の小道
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集落としては既に無人で「大屋敷」という当時の呼称すら消えてはいるが、まだまだ地元の方々が頻繁に足を運ぶ場所ではある

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ブルーの屋根の民家
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更にその上にの登ると
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「平家観音像ノ碑」
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奥には民家跡があり
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茅葺き屋根にトタンを乗せて保護している貴重な建築物でもある
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そしてここから「在所山登山道」が始まる
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まあ、御在所山に登らずして、「大屋敷」「大久保」の事は語れまい!!!

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永野商店街

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かつて美良布に山田高校美良布分校があった頃
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だから当然、美良布商店街が賑わっていた頃
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永野にも小学校があった


永野商店街は学校跡地の前の道
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商店街時代の面影
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ここで「肉まん」を売っていた可能性大
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ガソリンスタンド跡地
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現在、学校跡は
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学校の卒業生も多い事だろう
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学校の歴史
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開校 明治 7年
閉校 昭和46年



学校跡地の北には
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吉野ダム完成に伴い子供の適当な水泳場を失ったので校下父兄有志が相謀り前田千雄を会長に村首脳部を顧問として永野プール建設期成同盟会をつくり、工費80万円出夫八百人を以て永野校の北30mの位置に短水路プールを昭和28年10月に建設して県下でも稀な夏季体育施設が出来上がった。
《在所村史》より

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現 香美市になる前の香北町、の前の
在所村時代の話である


学校がこの場所来たのは明治25年

永野部落氏神様の東方で医師谷内徳馬氏が寺子屋を開いていたが、明治5年学制の発布により小学校設置の議が高まり、氏神様の西方に学校を建て明治7年永野小学校と称して義務教育を始めた。

その後、梅之久保部落、次いで朴ノ木部落がこれに加わった。

昭和29年2月3日、不慮の火災で校舎校具全てを失ったそうだ。



因みに昭和3年当時、学校は赤いセメント屋根の山間部には珍しい近代的な建築だったそうな!!

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元禄13年の古地図によると、猪野々、清爪、日浦込(古味)・・・と現在地名のある集落そのものが、それぞれの独立した村であったようだ。
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永野は以前は「長野」だったようだ
一体いつ、どのような理由で変わったのか知りたいところである
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周辺に「橋」が掛かるまでは高知市内からのかなり時間的に遠い場所

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非常に綺麗に手入れが行き届いている学校跡地
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現在は
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在所村立清爪小学校
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明治11年から昭和44年までの歴史
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香北町史には

明治11年 清爪字東ノ岡に二間半に4間の茅葺き校舎を設け浜田庄吉・岩谷徳隣・中沢正顕・立仙繁之助らが相次いで生徒を教えた

明治18年 清爪簡易小学校と称す
明治26年 校舎を新築し清爪尋常小学校と称す
明治36年 在所村第4尋常小学校と称す
明治41年 校舎を改築 児童数45人

昭和30年 8月 新校舎落成 9月から新校舎で授業開始 児童数33名
昭和41年 児童数 男子14名 女子9名
昭和42年 新入生一人が入学
昭和43年 児童数 男子10名 女子8名
昭和44年 大宮小学校に統合

    とある


手入れをされてるのは、やはり卒業生の方だろうか
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校庭のタイヤ
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廃校から半世紀になるが
遊具も定期的に塗装をかけ当時のままの姿でいる
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校庭からの風景
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近くの小高い場所にある神社からの清爪の集落と小学校
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かつては多くの人々が住んでいた山々の集落の学校が廃校になり、住む人の数もここまで減ってしまった。

「過疎化」だからねぇ~~、とそこで思考停止してしまってはいけない。

確かに多岐にわたる原因があり問題は複雑ではあるが、

これらの現象は、早い話が戦後からの「国内食料自給率」の低下が原因なのである。


そしてその「国内食料自給率」の低下の原因は何かというと

「敗戦」である


しかしその「敗戦」という言葉も、「第二次世界大戦」「太平洋戦争」等の戦後に作られた言葉の中では確かに適当な言葉かもしれないが「大東亜戦争」という本来の、あの戦争の呼称、そしてその本来の「目的」からすれば全く持って相応しくない言葉になってしまうのである。

戦後の現代を生きる日本人は、本来の、本当の日本の歴史の中に生きていない。


戦争とは「宣戦布告」で始まり「講和」を持って終結するもので、その講和があんな内容だったから仕方のない部分はあるが、いい加減気付こうぜ。

未だに真珠湾攻撃が卑怯なだまし討ちと思っているのは、当の日本人ぐらいのもんだぜ!

「日本国憲法」なんて、あれは戦後GHQが作った憲法なんだぜ。

憲法9条なんて、アメリカ人にとっては「え????日本人て未だにあれを真面目に受け止めて真剣に実行してるの???マジかよ・・・・・・」と、思っていると思うぜ!!!


早く日本人の日本の本来の本当の歴史を取り戻そう!!!



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在所村史によると昭和27年、村内には永野小学校、府内小学校、清爪小学校、猪野々学校の五校と、在所中学校、猪野々中学校の二校があり、児童は456人、生徒は160人、小学校教員25名、中学校教員13名がいたそうだ。

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勿論、すぐお隣の物部村にも沢山の児童、生徒がいた訳だから当時の賑わいは、その後、香北町になり、さらに香美市になった現在の姿からは想像も付かないものだろう。
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しかし現在の時代を過ごす私にとっては、
もしかして学校跡地訪問をやってなければ訪れる事のない場所だったかもしれない。
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開校100年の記念碑
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学校の歴史

明治 5年 開校
平成14年 大宮小学校に統合
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校庭
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校門
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猪野々小学校
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前は記念館になっている
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プールは道路を挟んで
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8コースある
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低学年用のプールもある
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美しい石垣のある綺麗な田園風景の中のプール
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日が暮れてきた
学校の後ろにある居酒屋
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ちょっと名の知れた店らしい

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学校跡地のあるこの界隈は今でもこの集落の繁華街なのである!!


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学校の歴史

明治 6年 須賀神社拝殿を借用して学校を開く 岩改小学校と称す
      野島信義、助手岡林鹿次が無報酬で教育に当たる 
      児童数18名、他に等外生(青壮年)12名

明治10年~13年 岡林鹿次校長

明治20年 岩改尋常小学校と改称

大正13年 教員住宅を新築する

昭和 2年 美良布第二尋常小学校と改称する

昭和36年 大宮小学校に統合



昭和54年の住宅地図の岩改小学校跡周辺
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これが昭和52年度版になると
学校跡地の記載が出てくる
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現地に到着

同時にバスが来て元気な児童が下りてきた

岩改小学校の卒業生数は毎年一桁だったそうだが、今でもこの場所から元気に小学生が登校している

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あの付近だ
もう何もないが、雰囲気だけは残っている
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ここが住宅地図にある岩改小学校跡地
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全景
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災害時避難場所

学校跡地でよくあるケースだ
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バス停もある
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懐かしい校庭の木
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校庭には石碑がある

しかしそれは学校跡地の石碑ではない

日付は昭和15年
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昭和15年

それは皇紀2600年
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さあ皇紀2700年の準備を始めよう!!

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戦後に開設され、10数年後の昭和36年に大宮中学校に統合


地理院地図には記載が無いが

住宅地図 昭和52年度版には「中学校跡」の記載がある
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ここか
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小さな敷地
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隣は消防
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戦後に中学校が開設された場所だ
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部活がどうしていたのだろう・・・
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と余計な心配をしてみる・・・・

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