高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

カテゴリ: 愛媛 伊予三島

 
昭和45年に廃校となった中之川分校跡

そして中ノ川の集落ももはや無人となっている

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訪問したのは平成30年9月中旬のある日の夕方5時前


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訪問の内容をアップしたつもりだったが、非常に大切な事を一つ書き忘れていた。

それは学校が廃校になって半世紀、そして集落が無人になった現在でも、

夕方5時になると「夕焼け小焼け」の地区放送が流れる事!!






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学校の歴史

明治10年 川口学校の分校としての位置づけ

明治14年 校舎を新築し中之川尋常小学校(初中高の8カ年)

明治19年 川口尋常小学校の第三分校


【伊予三島市史】より

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明治25年 簡易小学校から中之川尋常小学校となる

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明治30年以降の記録が無いらしい

昭和45年 廃校、久保ヶ内小学校に統合

その久保ヶ内小学校も翌年46年に金砂小学校に統合となり、金砂小学校も平成10年に中曽根小学校に統合となる

またこの明治14年に中之川尋常小学校となり初等中等高等の8カ年の小学校となっていた事は時代的にも内容的にも後の本校となる久保ヶ内小学校より進んでいて、明治以降から戦前戦後にかけて、この中之川の教育レベルが比較的高かった事が推測できる。



在りし日の中之川分校・中ノ川尋常小学校
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中之川の集落に到着
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もう無人のようだ
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亀之橋
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橋か新しくなったのは平成12年 

ほんの最近まで昭和の時代の姿があった
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隣に昔の橋がそのまま残っている
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それまで軽トラがギリギリ通れる程の幅だった
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学校のあったのは、この橋を渡った左手
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学校のあった場所
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廃校から半世紀、もう学校の面影はない
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また、学校ではなく、この集会場の石碑がある

地域の人々にとって、ここは想い出の学校跡地ではないのだろうか??

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敷地は広い

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また、この学校の場所は後に移転してきた場所

もう少し南の神社の川を挟んだ少し南にあったようだ

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学校があったと思われる付近

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もう誰もいない無人の集落で話を聞ける筈もなく

川の西の神社
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かつて中之川尋常小学校の児童をはじめとする地元の人達で、初詣、夏祭り、秋祭り、と賑わった場所
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新田宮橋
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昭和34年12月

この頃は佐々連鉱山も全盛期の時代

この中之川の戦後の活気の溢れていた時代だった事だろう
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もう訪れる人は限定的なようだ

【新田神社】

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無人になったとは聞いていたが、それでも南の地区からの作業帰りの車が通る事はある
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石川さんの住む集落
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無人な事は不思議なくらい整然とした綺麗な集落だ
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住友森林肥料一号
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平家の7人塚

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まだ誰か定期的に通う場所ではあると思う
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洗濯物も干してるし
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無人になったといはいえ、今日たまたまここに作業に来られていた方がいた
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この道も今日、掃除したとの事
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40代前後の方で、中之川の学校の事を聞いてみたが、もうその世代の方にとっては学校とは久保ヶ内の事で、どうやらこの集落に学校があったという意識は無いらしい。

学校跡地に学校ではなく、集会所の石碑があった事にある意味納得してしまった。

そして、この中之川にかつて学校があった時代とは、そんな昔の時代の事なのだ。


昭和50年の航空写真
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拡大
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学校の校舎は長屋だったみたい!!





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小学校の歴史は明治7年から始まる

明治10年 川口学校の分校としての位置づけ

明治35年 簡易学校から久保ヶ内尋常小学校

【伊予三島市史】より

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昭和45年 中之川分校を統合
昭和46年 廃校、金砂小学校に統合となる

その金砂小学校も平成10年に中曽根小学校に統合

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在りし日の久保ヶ内小学校
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中学校の歴史

昭和23年9月 金砂中学校の分校として創立
昭和29年   久保ヶ内中学校として独立

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昭和43年 廃校、東中学校に統合

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在りし日の久保ヶ内中学校
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学校の廃校から半世紀

それでも中学校の校舎は現存している
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立ち入り禁止も、もはや時効状態
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小学校校舎は解体されている

また明治39年からの学校の改革史は不明だそうだ
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昭和24年3月に落成した中学校校舎
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築70年
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黒板に落書き
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これは文化的、歴史的な価値を持つ落書き
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懐かしい格子窓
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この時代の木造校舎は中に入ると土間があり、そこから靴を脱いで廊下に上がり教室に入っていた
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ここの校舎の土間は少し狭い
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廃校後は当然地域の施設として利用されていた
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佐々連鉱山の歴史、佐々連小学校の児童数から見ると、この周辺は昭和30年代はかなり賑やかな場所だったと推測できる。

そしてその後の鉱山の経営規模縮小、周辺のダム建設による集落の消滅等で過疎化が一気に加速していったようだ。
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昭和50年の航空写真
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学校周辺の拡大
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現在1億2千7百万人になる日本の人口が、ちょうど1億人を突破した頃の話だ!!




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昭和50年の佐々連鉱山周辺の航空写真
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小学校跡はここ
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昭和30年代の地図
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閉山になったのは昭和53年
その時に木造の建物は学校校舎(新校舎は31年築)も含め解体されたんだろうか。

しかし鉄筋コンクリートの社宅跡は現在も存在している。
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当時にしてはなかなか高級な造りだったと思う。
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当時の最新の新築マンションてとこだろうか!!
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台所
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ご飯は釜戸で炊いていた
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当時はこれが当たり前で、現在の炊飯ジャーもこの釜戸で炊くご飯を追及している訳だから、現代人にとってはある意味、非常に贅沢な造りだ
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台所、現在でいう勝手口からの風景 ここは二階
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トイレは和式水洗便器
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手洗い場 

洗濯機はベランダかな 

でも洗濯機が登場したのは昭和30年代中盤

この社宅が建設されたのが、佐々連小学校の児童が486名とピークを迎えた昭和38年前後と推測すると、まだ洗濯機を使うか使わないかの微妙な時代だったと思う。

でも、ここでの生活ぶりを想像すると、その様な電化製品は真っ先に取り入れられる環境だったと思う。

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6畳二間と四畳半一間、お風呂は無い、というか、仕事が終われば、そのまま職場にあるお風呂で綺麗さっぱりして帰宅するという生活だったのだろう。
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そして家族も同様に共同浴場を利用し、みんなが仲良く共同生活をする和気あいあいとした職場環境だったのだろう。

二階からの風景はこんなにも変わってしまった
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降りる

上の段にも形の違う社宅跡がある
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ここは一階建てで、皆が集まる集会場のような場所だろう

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麻雀室だったのもしれない(笑)
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上の段への渡り階段があり
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木部は朽ちているが、鉄筋コンクリートなので上に上れる
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更に二階、三階へと階段が続いている
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もしかしてここに大浴場があったかもしれない
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上には蝙蝠がいる
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手洗い場が沢山あるし、この建物は独身寮だったのだろう
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3階へも行ける
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独身寮確定
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当時にしてはなかなかの豪華な生活空間っだったようだ!!




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佐々連鉱山の歴史は元禄年間(1688年~1704年)に始まる

ヨーロッパでは名誉革命を成功させたイギリスに産業革命の足音が聞こえ始め、アメリカ大陸ではアメリカ合衆国の前身となる形が形成され始め、支那では満州人によって清朝の全盛期が形成されようとしていた時代になる。

【伊予三島市史】より
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明治時代までは数人の手で経営されていたようで、本格的になるのは大正時代に入ってから
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佐々連小学校もその流れの中で大正14年から代用小学校という形で発足し、正規の学校になったのは昭和3年となる
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昭和4年に川口小学校佐々連分教場となる
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昭和7年に71名いた児童は、昭和9年には41名、10年には49名
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昭和23年に佐々連小学校となり、昭和26年には児童数197名、また校舎の改築をしている
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佐々連尾山にも分教場があったようで27年に統合している。
30年に校舎の改築をし、31年には217坪の木造二階建校舎の完成
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昭和34年には469名の児童、38年には486名となるが直後に310名となる
39年には229名、43年にはプールが完成
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プールが完成した昭和43年には再び児童数は282名と増加するが、47年には196名、51年には34名、52年には14名、53年には金砂小学校に統合となる。
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学校跡地はここ
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昭和40年代の地図
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鉱山が全盛期の昭和30年代の地図には何故だか学校の記載がない
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当然、現在鉱山は立ち入り禁止
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昭和43年に完成したプールはこの中にある
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が、学校跡はこの道を少し南に歩いた場所にひっそりと残っている
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鉱山で稼働していた軌道のレールだ
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この様な山奥の狭い道に横断歩道があり、かつてここに小学校があった事を現代に伝えている
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横断歩道を渡ると緩やかな登り口があり
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校門を取り壊した跡がある
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校舎は木造でもあったため、鉱山を廃止する企業の安全保障上の理由として解体されたようだ
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また、校門も残したかったであろうが、同じ理由で解体する事にしたのだろう
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でも自分達の子供達の通った学校の名前の刻まれた門柱だけは、破壊出来なかった。

この小学校の解体作業は企業の職務として必要な事であった事は理解出来るし、鉱山を閉山する自分達自身が、再びここに通学する元気な子供達の姿が現れる事が無い事を一番理解していて、校舎をそのまま放置する事は以降に二次災害を招く可能性があり、それを防ぐ為に企業としてやらなければいけない事であった訳ではあるが、いくら仕事とはいえ、それは「苦痛」でしかなかった事だろう。

藪化が酷くてあまり奥には入れない

学校前の道を少し歩くと
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学校の基礎跡が見える
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もう一つ横断歩道がある
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階段跡もあり
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校舎と校舎を繋ぐ階段が残っている
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藪化が酷くて部分的な写真しか撮れない
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黄色い線が何故だか懐かしく感じる
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在りし日の佐々連小学校
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そして、この写真にある手前の階段と桜の木は現在も確認出来る
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階段
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横断歩道を渡った先に
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当時のまま残っている
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上から
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そして桜の木も
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昭和50年の佐々連の航空写真
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学校跡はもう完全に藪の中
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また昭和43年に完成したプールは鉱山の敷地内にある

何故かというと、昭和31年に217坪の新校舎が完成する頃まで、学校にプールという概念があまり存在しなかった。

みんなそれぞれの川や海で生活の一部として泳ぎを習得していたし、川や海で泳げるのにわざわざプールを造って、そこで泳ぐ必要もなかった。

しかし、全員が泳げた訳ではなく、やはり泳げない子も当然いた。

そんな中で、昭和30年代、宇高連絡船(高松ー宇野)で修学旅行生を載せた紫雲丸が沈没し多くの子供達が犠牲となった。(紫雲丸事故)それでも泳げる子供は自分の力で自分の命を守る事が出来、泳げない子供にはそれが出来なかった。

《現在は昭和末期に完成した瀬戸大橋がありますが、それまではフェリーでした》

そのような事故が多発し、学校にプールを造り子供達全員が泳げるようにと「水泳」の授業が始まったのである。

だからそれ以前からのある学校には敷地内にプールを造る場所がなく、少し離れた場所に建設された。


そしてそもそも、その様な理由で開始される事となった学校の水泳の授業が、現在では「危ないから飛び込み禁止」とか、ゴーグル着けてただ単に静止した水の中を安全に泳ぐためだけの内容になってしまったのは、その最初の基本コンセプトを完全に忘れてしまった訳だから、教育の惨めな衰退である。


日本人はほんの少し前まで、普通にそれぞれの川や海で元気に泳ぎ、そしてそこにはそこの自然の危険も安全も知り尽くした地元の人々がいた。

それが現在は過疎化で、その山々、津々浦々の学校、集落が消滅してしまい、そこに現代のプールで泳いだ事しかない街の人間が行けば水難事故が起きてしまうのは当然の話である。

しかも学校での水泳の授業ですら、飛び込みさえ危険視する軟弱な授業に成り下がってしまい、本来の目的である「子供達が自分の命を自分で守る事が出来る力を身に付ける為の水泳の授業」ではなくなってしまっているから、尚更たちが悪い。

我々の少し後の世代まで、プールは普通に飛び込んで泳ぐ場所でした。


それが「ある日突然、飛び込み禁止」となったのです。

日本の教育衰退を目指す「日教組」は悪の組織なのである。






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現在はダムの底にある城師

「城師」の名前があるのは
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トンネルと
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もう地図には「城師」の文字はない


学校の歴史

開設は明治10年
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当初は富郷尋常小学校の第二分校であった(第一は猿田)
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運動場として校下民から二畝(200㎡)の提供を受ける

戦前の学校事情はこの様なものであった!!
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昭和初期には200名近い児童がいた
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戦後も100名を超える児童が在籍し、新校舎は昭和26年に建てられた。

昭和29年の児童数は77名。

また周辺には別子銅山、佐々連鉱山があるが、実は高知の白滝鉱山もこの地域の社会事情に影響を与えていた。

何故なら白滝鉱山の物資は全て索道で三島に運搬されていたから。

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昭和46年の児童数は32名、52年には国旗掲揚台が新設、児童数は20名
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昭和61年、ダム建設により廃校、富郷小学校に統合


在りし日の城師小学校
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学校のあったのはこの場所
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昭和50年の航空写真
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拡大
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校舎は東向きに建てられていたようだ

教室の黒板が常に西側に設置されているのは鉛筆を持つ手でノートに影が出来ないようにしているためで、この学校が東向きに建てられていたのは立地条件の問題で、朝日の登る東向きが一番学校にとって陽当たりの良い環境だったからだろう。
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ダム湖になってしまった、あの辺りに学校があったようだ!!
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20世紀、人類は川を堰き止めダムを造り水力発電によって莫大な量の電力を確保する事に成功した。

それと引き換えに多くの自然、文化、歴史、伝統をダムの底に沈める事になったしまったが、それが我々の選んだ道。

いずれ訪れるこのコンクリート製のダムの寿命がくる前には、また新しい時代が来ている事だろう。





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700年以上前、尾張の国の地頭・高橋一族の末裔が住み着き始まった元之庄の歴史

当時は伊予ー土佐の街道の宿場町でもあった。
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航空写真に写る民家の屋根
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と、その民家跡
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在りし日の猿田小学校   写真の左は熊野神社

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在りし日の富郷中学校
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①「猿田小学校・熊野神社・元之庄」

②「熊野八幡神社・竹林寺と元之庄」

③「元之庄」

④「富郷小学校」

⑤「富郷中学校」

⑥「城師小学校」

●高知の学校跡地まとめ

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廃校になって半世紀の富郷中学校
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石碑は平成11年に卒業生により建立されたようだ
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卒業生931名
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昭和22年の開校から20年程の期間であったが、戦後の復興の中の駆け足で過ぎ去った20年間だったのもしれない。
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昭和24年完成の校舎は当然もう無いが、平成30年現在、まだ日本には昭和20年代に建設された木造校舎が各地に点在する。
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学校跡
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学校の石垣
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在りし日の富郷中学校
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昭和22年に開設された富郷中学校は、24年には校舎が完成し
29年には富郷村立から伊予三島市立となり、運動場の拡張、炊事場、調理室の歓声等、学校の近代化を進めるが、それ以上に道路の開発、拡張、延長、またダム工事等、社会のインフラ整備の速度が速く、戦後の焼け野原の状態からスタートした中学校学校区は、その20年後には時代に適応しなくなっていた、というのが山間部の昭和中期の中学校事情だったのかもしれない。
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その意味においては、ここに限らず戦後に開設された山間部の中学校の昭和40年代の統合ラッシュまでの20年程の期間は、目覚ましい経済発展の中の次の時代に向けた駆け足の20年間だったとも言える。
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あの戦後の焼け野原の日本を見て、世界中の誰もが、もう日本は二度と戦前の一等国に返り咲く事は出来ないだろう、とそう思っていた!!


そんな日本は、そこから20年も経たない内にアジア初の東京オリンピックを開催する事となる。


だから昭和22年に当時の社会情勢に合わせて始まった日本の中学校制度等というものは、その後想定外以上にインフラ整備が進んでしまい、20年後には校区が狭すぎて、統合が一気に進んだ、というのが昭和40年代以降の中学校事情だろう。

その意味においては小学校の廃校と中学校の廃校は本質的な意味が全く違う。


現在は更に広い道路が完成し当時と比べて交通事情は更に改良されている
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昭和50年の藤原と下猿田(富郷中学校と猿田小学校)
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富郷中学校
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しかし小学校の廃校は、その地域にとって致命的な事になる。






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猿田から銅山川に降りると目の前に富郷小学校がある。

この猿田からの道にアスファルトが敷かれたのは下猿田までが昭和52年、上猿田までが昭和53年、そして昭和54年に猿田小学校が富郷小学校に統合される。

明治の時代は富郷尋常小学校を本校として第一分校を猿田、第二分校を城師としていた時期もあった。
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木造校舎が多い中、当時は最新の鉄筋コンクリート造りの校舎であった
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昭和50年代の富郷小学校
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昭和54年に猿田小学校を統合、昭和61年に城師小学校を統合し、

平成14年に休校、平成25年に廃校となる。

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二ノ宮金次郎像も壊れてしまっている
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一方でこの二ノ宮金次郎像が完全無欠のまま現存する学校跡もあったりする。


この校舎が建てられたのは昭和41年
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統合となった猿田小学校も城師小学校も木造平屋建て校舎だったから、この校舎に通う事になった事は児童にとっては嬉しい事だったのかもしれない。
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廃校に関する石碑等は無いようだ。

いずれ卒業生の手で何か建立される時が来るかもしれない。
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開校は明治5年の私学校から
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そして校舎は上長瀬から、夏切(明治23年~)、豊坂(昭和11年~)、現在の場所・豊坂に昭和41年現校舎を建築
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プールが完成したのが昭和53年  

昭和54年に猿田小学校を統合した後の昭和56年の児童数は15名

その後、昭和61年に廃校となる城師小学校の児童10数名を受け入れる。
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昭和30年代の地図では学校の位置は夏切になっていて「伊予三島市史」と合致しないが、たまにある事で、現在ここはキャンプ場になっている。
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昭和40年代の地図から現在の場所に学校の記号があるが、
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多分、地図のほうが現状に追いついてなかっただけだと思う。




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元之庄へは下猿田の北の猿田川の橋を渡る。
元之庄の子供達が猿田小学校に通学した猿田川支流沿いの道は、現在は崩落個所も多いらしい。
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普通は気付かずに通り過ぎてしまうが注意深く見ていると川を渡る赤い橋が見える。

(ま、教えて貰ったんですけどね!!)

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全体を通して道の状態は良好
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もしかして反対側から元之庄の方が歩いてくる事を期待してしまう程だ
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途中に休憩用だろうか、石の椅子が二カ所ある
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もう一カ所はこれ

ここから佐々連鉱山に向かう道も確認出来た
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700年を超える集落の歴史の中で整備されていった道
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700年を超える、国家、ではなく、集落の歴史の集合体が日本の歴史なのである。

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この沢は昭和30年以前の地図では「川」となっている
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トップの地図の画像の川は私が書き込んだもの
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この沢の橋は電柱を利用したもので、元之庄に電気が来たのは昭和27年10月
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両岸に橋の架台が作られていて、昔は木製の橋が架けられていた事が確認出来る

またすぐ横に沢を横切る道も造られている。

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お墓がある。

元之庄に到着。

そしてここのお墓は乾元二年(1302年)尾張の国の地頭・高橋一族の末裔のお墓である。
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過ぎると分岐がある
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規格は小さいが索道があったようだ
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祠がある
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また今まで見てきた集落跡とは石の材質が違う
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東南を水脈に囲まれ、そしてこの石を利用してインフラの整備が出来る場所であった事が、ここに人が住み着き、元之庄と呼ばれる事となった理由。
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数少ない人工物の一つ
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民家が見える
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そしてこれは現在の航空写真でも確認出来る屋根だ
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平成30年9月現在の元之庄
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洗濯機を発見
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昭和の時代を過ぎ、平成の時代にも車道の接続のない場所にも多くの日本人が生活をしていた
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コンビニの近く、駅の近く、というライフスタイルが、あくまでも最近確立された限定的な価値観であり、逆に日本の歴史の中においては理解し難い偏った価値観ともいえる
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冷蔵庫の個体識別は不可能
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洗濯機に接近
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うず潮
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鳥小屋がある

ここでの卵焼き、卵ご飯は、もはや現代人の手に届かない「超高級料理」だった。

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また現代人はゴキブリを見て騒いでいるが、昔は鶏がいて鶏がゴキブリを食べていた
から、現代人がゴキブリを見て騒ぐ姿は昔の日本人には理解出来ないものかもしれない。

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色あせて文字が識別できない
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この石垣の精密さと美しさ
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さぞかし美しい光景が広がっていた事だろう
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そういえばこの元之庄は伊予ー土佐の街道の宿場町でもあった
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そしてそこが尾張の国から移り住んできた人の住む村だったといのも面白い話である
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また尾張の国 金剛山光明寺の僧のいる竹林寺もあった



分岐に戻り、下の道を進む

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またこの独特の石の事も話題になっていたはずだ
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集落中央に巨大な岩石がある

これがここに元之庄の集落を誕生させた
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一カ所だけ完全に平場がある
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川に降りる階段

この先に猿田小学校に向かう通学路があるかもしれない
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見上げると
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植林によって山の保水力が低下しているが、当時はもっと緩やかで豊かな水が流れていた事だろう
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700年以上の歴史を誇る集落跡
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美しい石垣の輪郭
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電柱と鍋

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電柱のスペック
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竹林寺に関する手掛かりは無いと思われたが
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お墓を過ぎた分岐の先にあったここが
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そうだったのかもしれない
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少なくとも八大龍王神社の跡である事は確かで、宝徳三年(1451年)火災で焼失した竹林寺跡なのかもしれない。



そして源平合戦の結果としてこの富郷にも平家落人、一門であった熊野神社衆の苅田一族、尾張の国の地頭・高橋一族の末裔が住む事になったが、源平合戦そのものが「桓武平氏」「清和源氏」というように皇族の末裔の戦いであって、今現在この富郷に住む人々も平家、そして桓武天皇の末裔なのである。





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