高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

カテゴリ: 芸西の学校


「地理院地図・手結・昭和33年」
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かつて、自動車道が完備するまで、各山々の集落はそれぞれの山道で密接に繋がっていた。

更に白髪ー宇留志ー久重の間には、赤野川沿いの道が昭和初期に開発されるまで、2m幅の道が主要道として存在していた。

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板渕に到着

前回の訪問から6カ月、更に道の状態は悪化しているが、久重からの接続部分の工事は完了している。



●「芸西・板渕ー平成30年3月末訪問」

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この下に「板渕地区生活橋」があり、対岸に渡り上尾川西の尾根の上に出られる

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橋の認可の日付は平成13年10月

廃村になったのは昭和40年代だが、もしかして15年早く来ていれば、ここでお茶を一杯頂きながら「板渕」の話と、尾根に登る道の話を聞けたかもしれない。
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なんて考えたりもしたが、しかし芸西村役場に問い合わせてみると、橋があるのは人が住んでいたからではなく、地籍調査やそれまで行われていた山仕事等の関係者には、今まで橋があった場所に橋が無くなると不便だから、というのが一番の大きな理由だそうだ。


集落を登ると!!

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なんと、この板渕にも「宇留志」と同じ「石灯篭」がある!!

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当時の美しい光景が浮かんでくる!!!


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●芸西・宇留志②「石灯篭とモダンな民家跡ー平成30年4月訪問」

●芸西・集落跡「まとめ」


道は陽当たりの良い南側を耕作地に譲るかのように、尾根の北を走る
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(下り方面の写真です)

そして一度、尾根に出会うが横切る事無く、尾根の北を進む

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耕作地区域を抜け、二度目の尾根は横切り、進んでいく
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が、途中の沢で道を喪失

道が消滅したのか、見失ったのか、上尾川で尾根に向かった時と同じ様に、上に登り、尾根に近づかば近づく程、道の消滅度は高い


また地形的な事を考えると板渕ー上尾川の道は尾根の北ではなく、南を抜けたほうが便利で早いとも思える。


結局、真面目に直進してしまい、かなり高度を上げて尾根に到達。

しかも道は尾根の東に存在していたので、「道」に合流するまで時間が掛かってしまった。

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前回、上尾川から尾根に登りマーキングをした区間を抜け、三辻森を目指す

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安芸の平野が見渡せる場所に到着
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送電線の鉄塔のある場所だ

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が、先を急ごう。

日没までにあの板渕に帰らなければいけない。

また、ここからは2時間程もあれば引き返せるが、この先、道に迷た場合の作戦撤退ラインも結構差し迫っている。

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そしてこの鉄塔のすぐ先の分岐を右に行ったしまった・・・
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三辻森中継所



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そしてこの先、進めば進む程道が不明瞭になり、引き返し、先程の分岐を左に行く事にした

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道はこっちだった。


尾根の道は、実は天然のものではなく、石垣で築かれた「人工的」な道だったりする

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地籍調査のピンクのリボン、そして、白、私のではないブルーのリボンが復活し、充分な確信が発生し、作戦撤退ラインを却下して進む

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道は尾根を掘り、切り通しになっている

白髪の集落が近い証拠でもあるだろう

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まだ時間的には焦っているが、結構、贅沢な時間を満喫している!!

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そして、かつては、ここまで「バイク」で来れた!!

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また、白髪経由ではなく、宇留志に直接繋がりそうな分岐の存在も確認

また白髪から宇留志の道の間に、その接続らしき分岐も確認

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まあ、肝心の板渕から尾根への道の接続が確認出来ていないのであるが・・・


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尾根の切り通しの区間は距離の長く、白髪に近づかば近づく程多くなり、かつてはこの道が勾配を最小限に抑えた非常に歩きやすい道であった事が容易に想像できる。

そしてその工事、造成は、赤野川沿いの道の開発が昭和初期に始まる以前に既に完了していた事にもなる。

もしかして、いや、きっと多分、思い付きや、想像や、期待ではなく、大正、明治以前は、この道を馬や牛や荷台が通り、安芸から上尾川を抜け、羽尾、仲木屋までの流通経路ともなっていた筈だ。

また工事は、「田役」と呼ばれていた住人総出の地域のインフラ整備事業で行われ、地域の子供達とっても、「小学生」と呼ばれる以前の時代から「おにぎりが沢山食べれる」という、大変だけと楽しみのある内容で行われていた。

切り通しの工事で発生した大量の土は当然、耕作地の土となり、更に奥の、尾根の道を造成するための材料として使用された。


左右に耕作地跡が出現し、白髪はすぐそこだ。




ウエルカム to 白髪 という所だろうか!!!


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道は、白髪小学校の道を奥に進んだ赤い車を置いている手前に繋がる

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目印が沢山つけらている!!
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右手が三辻森からの接続で、左が私がこれから進む宇留志への道の目印なのだけど・・・・

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ただ、白髪ー宇留志への運搬経路としての正確な道は

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そこから耕作地の道を抜け接続するこの掘割の先に進む道だと思う

(でないと牛や馬、荷台は通れない)

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小さな耕作地の石垣を抜け


一つ目の耕作地跡を横切る

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二つ目の耕作後を抜けるが、この耕作地は広いため、道が不明瞭となり、後で思いのほか高度を下げている事に気付く


耕作地跡を抜けて、前回同様、尾根を直下し、「道」に合流。

前回撤退したポイントを通過

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その先の沢周辺が大きく崩落しているが、その沢の部分にまだ当時の石積みが残っている。

そしてまた、白髪からここまで歩いてきた区間には石積みで2m以上の幅を確保していた区間が多数存在する。

各集落が無人となって半世紀が経ち、利用する人がいなくなってもこの状態という事は、当時は一体どれだけ立派な道であった事か!!

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そして赤野川に接続!!!

その地点からは対岸に接続するのは地形的に難しそうなので、少し進むと!!!

対岸に坂道の石垣発見!!!

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ここに橋を架け、牛や馬、荷台を通していた事だろう!!

裸足で渡る!!
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対岸には道が左右に繋がり、その先には石積みもあり、もうここは完全に宇留志の市街化区域だ。


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上部に登る道を進むと

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林道に繋がる

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接続地点はここ

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地理院地図に記載されている通りの
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ウルシ谷川橋の場所

またこれは地図の正確性というより、集落と集落を繋ぐ道は必然的にこうなってしまうという事でもあると言える。

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その先のカーブミラーの袂に宇留志から白髪に進む道がある

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重機で昔の道を拡幅して造成された林道の側面には、宇留志の耕作地跡が見事に剥き出しになっているが、これは耕作地跡を出来るだけ壊さないように上手く工事したのだと思う!!

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急いで歩けば、宇留志ー板渕の林道区間は30分程。

上に送電線が見えてくるから、その下が板渕と思って進む。

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私はこの反対側から来た男です!!

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尾根の鉄塔を過ぎて進路の信頼性を確保できるまで「不安」が一杯で、引き返す決断も必要だと思っていたが、なんとか迷子にならずに帰ってこれた。

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所要時間は5時間半。

当時であれば4時間も掛からない道のりだったと思う。

そしてまた、現在の様に各集落が車道で繋がる以前の各山々の集落は、現在の我々が想像する以上に密接に繋がり、人々の交流が活発に行われていた事が、リアルに伝わってくるのである!!!



●高知の学校跡地「まとめ」・後編



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白髪小学校を再訪したのは、当時の道で宇留志まで行ってみたかったから

「地理院地図・手結・昭和33年」
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当時のこの周辺の集落はこの様な山道で繋がっていた。


また昭和初期に赤野川沿いの道が開発されるまでは、白髪ー宇留志ー大屋敷ー久重、は2m幅以上の道で繋がっていた。

昔は安芸から久重へ、久重から安芸へ向かう、馬や牛、荷台の姿がこの白髪にあったはずだ。



早速行ってみたいが、まずはその道から探さないといけない

しかも再訪では前回見えていなかったものが見えてくるもので・・・


お風呂跡

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五右衛門風呂

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平家の落人とは言うが

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源平合戦とは「桓武平氏」と「清和源氏」の末裔の戦いだった

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また、この民家跡は我々の次の世代、未来の日本人にも、ここにかつて人々の生活があった事を伝える事だろう

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それは、単に「昔はこんな場所にも住んでる人がいた」という単純な話ではなく、800年以上昔の「桓武平氏」と「清和源氏」の戦いに根拠がある事を理解すると、またこの国の歴史の捉え方も変わってくると思う。

また、現在の日本の国旗「日の丸」は白地に赤だが、それは白地に赤の旗を持つ源氏と、赤地に白の旗を持つ平家の戦いでもあって、もし平家が勝っていれば、現在の日本の国旗は「赤字に白」の国旗になっていたかもしれないのだ。

そして、支那との貿易を優先するグローバリストの「平家」と、外国からの悪しき風習を排除しようとするナショナリストの「源氏」の戦いでもあったのだから、勝敗の行方次第で日本のその後の姿を大きく変える戦いでもあった。



廃村から半世紀、まだ現存する民家跡があるとは思っていなかった
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お風呂跡
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漆喰壁

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そしてまた特記すべきは、宇留志、板渕、白髪がほぼ同時期に廃村になった集落でありながら、白髪の集落の建築物のレベルが宇留志、板渕より一歩近代的な事

特にお風呂は、宇留志、板渕が昔ながらの五右衛門風呂でありながら、白髪は五右衛門風呂でありながら、現在のユニットバスの前身となる近代的なタイル張りのお風呂のスタイルにほぼ近いという事


でありながら囲炉裏があったりして

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移転先での石油ストーブでの生活は予想外に寒いものだったのかもしれない


ガスコンロ

ちょっと新し過ぎる気もするが
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これも
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でも、今となっては当時を反映する貴重なもの

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この更に奥にも赤い車が放置されているが
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今となっては、それは場所を特定するための重要な目印の役割を担っていたりもする
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ダイハツ・ハイゼット


水路跡
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道に埋められた上水管らしきものあり

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蛇口をひねれば飲み水の出てくる時代も到来していた

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決して水に恵まれていた訳ではなかったようだが

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この設備が完成して、環境はかなり改善されたはずだ

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でもそこから20年も経たない内に集団移転となる


更に集落の道を北上すると

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白髪神社跡

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もう石垣があるのみ

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神様も一緒に移転したらしい。


ここから先は細い道が続いていて石垣等で整備された部分もあるが、どうやら三辻森にも宇留志にも行く道ではないらしい。


かつては2m幅で白髪ー久重を繋いでいた道が、まだ姿を留めている事を期待して南西に下る



やはり道はまだ存在していた


道は水路のある道を横切り、耕作地を抜け

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大きな切り通しを進む

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集落を結ぶ幹線道として整備された道だ

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幅のあった道だけあって崩落部分は殆ど無い

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耕作地を横切り

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西向きの陽当たりの良い場所には耕作地跡が広がっている

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途中にある耕作地の中で、道は若干不鮮明になってくるが、幹線道として出来る限り広く真っ直ぐに設計されているようだ

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赤野川の水の音が大きくなり、宇留志はもうすぐそこだと思うが、進路の確認、修正で時間が掛かり過ぎて作戦撤退ラインとなってしまった。


(後日、再訪予定)

10月目前のこの時期のこの様な場所にでの夕暮れは、ほんの少し前に「花火大会」があったとは思えない程に早い。

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引き返すと、斜面を掘削して作ったと思っていた道は、石垣を気付いて造り上げられた道だと判明
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若干、勾配もあり、この様に大きく方向を変える場所もあるが、当時の人々にとってはなかなか広く、快適で、そして特に現代人にとっては素晴らしい景色の幹線道だった事だと思う。

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芸西に帰る道(崩落個所)からの芸西(9月下旬6時半頃)

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白髪の集落は、海沿いに住む人々が、山奥にまでその生活範囲を広げていったという場所ではない。

源平合戦の結果として瀬戸内海から四国山地を越えて、この場所に桓武平家の人々が住み始める事となった。


そしてその800年後、山を降りて海岸線沿いの人々と一緒に暮らすようになった。








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平成28年1月から二年半ぶりの再訪



八流の開発は
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昭和38年から
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この看板を右に行けば白髪
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赤野小学校の子供達が課外学習に来る場所もあるようだ
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そして、そのすぐ先が少し崩落している
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バイクは通れる
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この先、この場所が修復される日は来るのだろうか??


白髪に到着
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もしかしてこれが写真に収める事の出来る最後の姿なのかもしれない
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●二年半前の「平成28年一月」
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屋外に雨ざらしになっていたこの看板を校舎の中に入れきたが
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もう屋内もこんな状態
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●釜戸周辺(平成28年1月)
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現在
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後ろの土壁が落ちて骨組みの竹が剥き出しになった



格子窓の風景
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今日は平成30年9月30日
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強烈な台風が日本に上陸している日



もしかして今日、この白髪小学校跡はまた大きくその姿を変えてしまったいるかもしれない


●平成28年1月(教員住宅跡)
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2年半前、ここにあった教員住宅跡が
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現在はこの様な姿になってしまったと同じように
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廃校を迎え集落も下山する学校の校庭で自転車の練習をするこの写真

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【田辺寿男の民族写真・『ぼくの村は山をおりた』】


芸西村白髪での当時の風景であるが、実はこの写真、ただ単に学校の校庭で自転車の練習をしているだけという、ただそれだけの単純な話ではない。


ぼくの村はこれから山を下りて芸西村の町に行く。
そこには自動車が通れる広い道があり、子供達もそこを「自転車」というものに乗って移動している。
だから僕も町に行く前に「自転車」に乗れるようになって、町についたらみんなと一緒に「自転車」に乗って遊びに行こう。

でもこの白髪には段々畑と山道と急な坂道しかなく「自転車」の練習が出来る場所は「学校の校庭」しかない。

という事なのである。

●白髪小学校
(集落跡再訪予定)

●大屋敷
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(大屋敷集落の神社)



●板渕
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(板渕生活橋を渡った対岸の集落跡)



【宇留志】
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●①「稜線上の電柱跡」

●②「石灯篭とモダンな民家跡」
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●③「民家跡、瓦の刻印、電柱の日付」
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●④「赤野川からの宇留志」

●⑤「穴内村 福原酒造」

●⑥「赤野川東の宇留志」

●⑦「再びこの地に生活の灯が付く可能性は無限大」
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この先の遥か未来に再びこの場所に生活する事になる未来の日本人に、現在皇紀2678年と言われる時代のほんの僅か前まで、ここは「宇留志」と呼ばれていて、この様な生活が営まれていた事を伝えたいものである。





集落が形成される場所は、当然そこにそれ相応の理由、根拠の有る場所だからである。

人の流れ、物流経路、地政学的な条件、時代背景等様々。

このウルシの場合は久重を中心とした地域の関連性の中で、久重ー大屋敷ー宇留志ー白髪が昔は広い道で繋がっていたという条件の中で発展してきたと言えるだろう。

(明治43年の地図・この時は久重ー大屋敷ー宇留志ー白髪が幅2m以上の道で繋がっている)
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その後、昭和初期には安芸野川沿いの道が開発され、人の流れ、物流経路が変わり、
久重ー大屋敷ー宇留志ー白髪の道は幅1m以下の道に格下げになる。
この事で、ある程度の地域の情勢に変化が発生したはずだ。
(地理院地図・昭和11年発行)
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また範囲を広げて見てみると、それ以前から畑山ー椎山・藤ノ谷ー上尾川ー板渕ー大屋敷ー久重が一直線で繋がっていた。

これは最初に久重、畑山の繁栄があり、その後、その道中である椎山・藤ノ谷、上尾川、板渕、大屋敷の集落が派生してきたと考えるべきだろう。
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上尾川ー板渕を繋ぐ道が一気に400m登り、400m降りる最短距離で繋がっている事からも、この地域においては畑山と久重が重要な役割を持ち周辺に影響力を持つ中核的な集落だったと言えるだろう。

また仮にその推測に若干の的外れ的な部分があったとしても、少なくともこの集落が一直線で繋がっている事は偶然ではない。

各集落が独自に成立し、その後道で繋がったという事ではなく、人の流れがあり、物流経路があり、やがて公共性のある「道」となり、その界隈に集落が作られていったという事になる。

では何故その後、久重ー畑山の道の界隈に更に集落が増えていったかというと、当然、畑山と久重が発展し、その事が周囲に影響を及ぼした結果という事になる。

耕作地が広がり、収穫量が増えると人口が増える。

集落は発展し更に耕作地面積を増やす事になるが、やがて物理的な限界が来る。

となると、耕作地面積に対する収穫量に対する人口、から溢れてくる人々には新たなる生活の場所が必要となってくる。

ではいきなり知らない未開の場所に行って孤立無援の生活をしなくてはいけなくなるかというと、そうではなく、周辺の安定した生活が築けそうな場所を選んで、そこを開拓、開発する事になる。


では一体どのような場所を選定しそこで生活を始める事になるか。

ここで言える事は、別に平坦な場所の多い地域という事は絶対条件ではない、という事。

開拓し耕作地に転用するのが容易な平野部は、あるに越した事はないが、必ずしも絶対必要な条件ではない。


まず第一に必要なものは「水」と「陽当たり」の確保出来る場所という事である。

これが無ければ、どんなに平坦な場所でも、急斜面でも始まらない。

そして第二に石垣を築きインフラを整備するための「石」の確保が出来る場所という事である。

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それで言えばウルシ谷川沿いの集落は、山の中腹にあり急斜面の中にある比較的平坦で、水脈があり陽当たりもあり、そして石垣の石の採掘が出来る、欲を言えば陽当たりがもうちょっと欲しかったぐらいの条件の適した場所だったという事になる。

水脈にあるこのウルシ川の沢沿いだけ、その他のウルシより石垣の石が極端に大きい事からも、この周辺がウルシの石垣の石の産地である事が分かる。

運搬の困難な大きな石をわざわざ遠くに運ぶ必要はなく、産出した「ここ」で使ったという事になるし、人間が一人でも運べる大きさまで岩盤を砕き、一つ一つ手運びでそれを運搬し、長い時間を掛けて、何世代も掛けてこれらの集落、耕作地を築き上げてきたという歴史的な経緯が思い浮かぶ。

そしてなにより開拓、開発が軌道に乗り自立した生活が出来るようになるまでの間、近くの親族からの支援が容易な場所で、主要道路沿いで物流経路も確保出来ていた場所、という事であったのである。

そしてまた、新たに開拓、開発をするのだから、ネガティブな要因で村のはみ出し者が出ていった、という事ではなく、それを期待された、その期待に応えられると思われる選ばれし者が、新たな場所に足を踏み入れたという事になる。

とは言っても、場所は実家はすぐそこ。生活が安定するまで実家に世話になる事も多かった事だろう。

何故なら、その実家のある生活の安定の確保できた集落自体が、かつては同じような開拓、開発という歴史を経て存在しているからである。



と、まあ、そうシリアスに考えながら、実際は繁栄している集落から新たに耕作地を各地に開発し、水、石、陽当たりの確保出来るこの場所にも耕作地が広がり、人口が増え、新たに民家を建てるために耕作地を潰す訳にもいかないので、「じゃあ俺ここに住むわ!!」となったのだと思うが!!


そしてその後さらに時代は流れ、山道を人が歩いて移動する時代から、平坦な道路を自動車に乗って人が移動する時代へと変遷し、
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人の流れ、物流経路が完全に新しいものとなり、現在の状態に至っているのである。

この周辺にあった久重小学校、羽根小学校、羽根小学校仲木屋分校、白髪小学校、上尾川小中学校、畑山小中学校はそのような時代の流れ、変遷の中で歴史の幕を閉じる事となったのである。



(昭和50年のこの周辺の航空写真)
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そしてまた、この赤野川東の宇留志の集落跡、民家跡も、そのような歴史の流れを裏付ける要因を持つ場所である。
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等高線から分かるように、上に登れば平坦な場所が広がっている

さぞかし美しい集落だった事だろう
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民家跡、そしてこれはお風呂だ
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建物は完全に崩壊しているが、この部分だけはほぼ完全な形で残っている
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この事からの、この場所が、この宇留志で最後まで人の生活のあった場所であると言えるだろう。
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五右衛門風呂と言うが、これは平成生れの日本人に通じる言葉であろうか??


これは肥溜め跡
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生活排水は全てこの肥溜めに流し込み、それを肥料として利用する完全リサイクルシステム。

そのために昔は蟯虫、回虫がいて「虫下し」なんてものが必要だったが、では現在の当時にはあり得ない「お皿に付いたしつこい油汚れ」を洗剤で洗う生活をしている現代人と、一体どちらが健康的な生活をしているのだろうか。


そして輸入される大量の肉を食べるようになった現代人。

肉食を否定するつもりはないが、その量の「肉」を生産するために「その数倍の量の穀物」が必要で、「その数倍の量の穀物」を食べさせて「肉」という商品にするために無数の「命」が「生産」され「惨殺」されているという「事実」を現代の日本人は一体どれだけ認識しているのだろうか。

さらに言えば「動物の体温は人間の体温より高い!!!」のである。

動物の体温で流動している物質が、それより低い人間の体温でも全て流動出来るとは限らないのである。



ガスボンベ
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当然薪を使った生活も続いていた事だろう。

そしてこれは宇留志の人間にとってはただ単に「便利な物」であったに過ぎない。


しかし、現代のガスを利用している日本人にとっては、ガスは生活必需品なのである。


昔の人間はガスがあれば「より便利」であって、別にガスが無くても薪が有るので真剣に困る事はないが、現代の日本人は「ガス」が無いと真剣に困ってしまうのである。

風呂も沸かせないし飯も焚けないのである。

そういう意味では日本人はその部分において弱体化してると言えるだろう。

勿論それを凌ぐ文明の進化が存在しているのだが。



お風呂がもう一つ
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ウルシ谷川沿いの集落より長く続いた場所である根拠

また、もしかしてあの「集団移転」というものは「完全」なものではなかったのではないだろうか・・・・・


周辺地域共通の備品
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炊事場と水瓶
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おそらくこの赤野川東の宇留志には8軒程は民家があったと推測できる



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そう、自転車なのである
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この自転車に乗って白髪まで行っていたのか。?

だとすると、白髪までの道は自転車で行ける道だったのだろうか。
等高線からして厳しい気もするが?

それとも赤野川を渡り林道まで上げて赤野まで買い物に行っていたのだろうか??


TAKASAGO
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これで時代背景を特定できる!!

(情報求む!!!!)

そして三輪車まで
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この山間部にあって、自転車で移動し、小さな子供が三輪車に乗れるまでの場所であったのである。


このマシンのスペックは??
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そして今までの宇留志では想像もで出来なかった広大な耕作地跡が広がる
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収穫量が豊富で養える人口の数が周辺集落より遥かに多かったという事。

そしてこれは、ウルシ谷川沿いの集落が、久重と、この赤野川東の宇留志の繁栄の間に誕生したという事を意味するだろう。
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時代としては久重や畑山の発展、繁栄の周辺地域の影響の結果としての出来事であろうが、それは逆に、まだ単独では生活の安定しない開拓、開発の過程で遭遇する困難を乗り越えるための生活の担保になる存在でももあったはずだ。

そして8軒程の民家があったとしても、ここに住むであろう人口の数倍以上の食料の確保を可能にするこの広大な耕作地の収穫量が、周辺地域への更なる発展の礎になったはずだ。
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北斜面ではあるが穏やかな勾配の耕作地は高度もあり西日を受けて長い日照時間を確保していた。
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そしてその食料供給量の確保が、更なる耕作地拡大の原動力になる

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そして積極的な理由で計画的に開拓、開発される耕作地は機能的で芸術的でもある。
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だからこの様な耕作地跡が完成してしまう。
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また4月の初旬の夕方にあってこの陽当たり
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それは西陽を受けて温度を蓄積した石が陽が沈んだ後も発熱し、作物を冷害から守るという知恵でもある。


そして各地で見てきた部品を搭載した機体の本体がある
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これが原型だ
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TAKAKURA
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搭載された回転体が単独で残っている事と、搭載した本体が原型を留めて現存している事が、他の集落と、この集落とのタイムラグになる。
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地図には反映されないレベルの小高い場所が耕作地の中にあり
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お!!!!!
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小屋だ!!!
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生活拠点をこの場所から移した後も、ここの耕作地を運用してた証拠になるだろう
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小高い場所に上がる石段があり
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上に繋がっている
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耕作地の中の小高い場所は耕作地ではなかったかもしれない
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それよりかは何か別の意味を持つ場所だったの様に思える

そしてそれは、この耕作地跡、民家跡のある場所において、当時の生活に一定以上の「余裕」があった事を示すものになるだろう。
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この集落への往路は長靴を脱いで裸足で川を渡ったが、復路は二本の竹を対岸に渡し「沈下橋」にして渡る。
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そして集落から道なりに降りてきた道と、簡易沈下橋(竹製)と、この登り口が一直線になっている。
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間違いなく丸太を組んだ簡易な橋と、もう完全に崩壊してしまったが、その橋台があったはずだ。


平成30年度のこの周辺の状況は

・道家
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・国光
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・久重
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遥か昔にこの地に人が住むようになり、道ができ、耕作地、民家、集落が造られ、人々の繁栄があり、各地に建てられた小学校では子供達の歓声が響き渡っていた。

そして時代が変遷し、住む人が移動し、人口が減り、小学校が閉校となり、子育て世代が積極的に生活基盤を置く理由を失った場所は、更なる人口減少に拍車がかかり、遂には無人の場所となるのである。


そして現在残されているのは、道と、集落跡と、民家跡と、人々が生活をしていた時代の痕跡のみ。

でもそれは、地球の長い時間の流れの中で、今まで全く人間の住んでいなかった場所に、突然何かの理由で人が住み始め、人間本位で言えば人間の苦労と喜びの交差した大自然の中の小さな光の点のような時代の存在。

そしてまた我々の確認できる近未来に、この場所に再び人々の生活が始まる事は殆ど予想出来ないが、我々の知らないずっと遠い未来に、再びこの場所の人々の生活が始まる可能性は無限大に広がっているのである。




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赤野川沿いの宇留志への道は昭和11年の地図から記載されている。
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現在この道は羽根から赤野に向けて拡幅工事が進められているが、
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崩壊、崩落等があり、ウルシ谷川橋までで、手前の板渕で通行止めになっている。
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またこの道が出来るまでは、赤野ー宇留志の道はなく、安芸町、穴内村からの物流経路は白髪経由であったようだ。

その事は明治43年発行の地理院地図で白髪ー宇留志ー大屋敷ー久重が幅2m以上の道で繋がっていて、

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(地理院地図・手結・明治43年発行)

赤野川沿いの道が完成した時期には幅1m以下の道に格下げになっている事からも推測できる。



拡幅工事が済んだ区間にも当時の道が残されていたりもする。
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暗渠もまだ機能しており
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軽自動車がやっと通れる程の幅の道
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少しだけ広めの林用軌道跡のようだ


拡幅工事でその部分にあった当時の道は消滅する事になるが、ウルシ谷川の集落への入り口同様、その北東の集落入り口の道も工事関係者の手に寄って作り直されている。
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登ると杣道になり、すぐに分岐に合流
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集落はこの分岐を上に登るが、この矢印の下りの坂に進むと拡幅工事で絶壁になった道の端に着く。

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民家跡が見えてきた
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地図には一軒の民家の記載があるが実際は3軒以上の民家があったようだ
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板渕、宇留志の各家庭に必ずある臼
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肥溜め跡
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ニッカウイスキーの瓶
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久重で購入したのだろうか、
それとも赤野川沿いの道を通ってこの場所に来たのだろうか

ガスボンベ
当然、ガス屋さんは赤野川沿いの道を往復していたのだろう
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また集団移転後もここでガスでお湯を沸かす生活があったと思われる。


当然と言えば当然だが、鍋も各家庭ほぼ同じ
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ヤカン
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弁当箱
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この集落からはウルシ谷川集落経由で久重小学校に通学するより、山越えで大屋敷に向かい通学したほうが早そうだ。
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4月初旬の4時を過ぎてもこの陽当たり
それがここにこの集落跡のある理由
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赤野川対岸の東の集落跡に行く。

道はウルシ谷川への入り口の反対側にある。
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等高線が厳しく地形の険しい場所では逆に道のある場所が特定し易い。
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また道沿いにあるこの場所自体が宇留志の石垣の場所
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道を下ると
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〇〇・・効く温熱療法?
〇〇・・ームバス?

店や商売の看板があったというより、住人がその商品を購入したのだろうか?
だとするとここにも集団移転後の生活の痕跡が伺える事にもなるが、残念ながらこの先そのような物があった証拠は出てこない。

でも、たまたま落ちているだけにしても、ちょっと興味の沸くアイテムだ。



直ぐに赤野川に着く
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その川辺の畔にも耕作地跡、民家跡がある
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肥溜め跡
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耕作地、民家跡とは明らかに異なる石垣

神社があった場所なのだろうか
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もうここまでで30軒程の民家跡を確認した(肥溜めベース)

と言う事は、ウルシにはかつて100人以上の住人がいたという事で、同時にこの地で、100人分以上の食料が生産されていたという事。

そして当時は人影の絶える事のない、緑の耕作地の広がる美しい場所だったという事。



赤野川の川辺に降りる。

対岸に石垣が見える。

地形からして吊り橋の掛かるような場所ではない。

きっと簡易な木製の橋はあっただろうが、その痕跡もない

裸足で渡る
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今までの宇留志と違い、等高線も緩やかで、そして広い
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民家跡
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瓦の刻印は確認出来ない
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僅かに構造躯体が残っている
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そしてこれが、釜戸と炊事場
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左は水瓶なのだろうか
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近くに釜が落ちていたので乗せてみた
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当時はこの様にしてご飯を炊いていた
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そしてそれが非常に旨かったから、現在も「釜炊き」が追及されているのだろう。


ここにも臼がある
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共通する備品ばかり
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機械
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宇留志のお正月にはどんな料理があったのだろう
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台所と同じく、お風呂もある程度当時の形を留めたまま残っている
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環境の違いもあるが、もしかしてこの地区には他の宇留志の地区より、もっと長く人が住んでいたのかもしれない
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ここまでで3軒程の民家跡を確認
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もしかしてここが宇留志本町一丁目なのかもしれない。

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赤野川沿いの林道は羽根から赤野に向かって開発が進んでおり道路を拡幅する工事で道の上部に耕作地跡の石垣が剥き出しになっている場所も多い。
(大屋敷から板渕に接続する部分が崩落し工事中。また宇留志周辺の道も崩れる危険性大)
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この分だと最近の住宅地図に載せられている、この宇留志への道の入り口も消滅していそうだ。
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が、、丁度その場所にカーブミラーがあり
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階段が付きの道があった
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登るとお地蔵さんがいて
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集落への道が続く
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快適な路
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集落跡が見えてきた
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石垣を積み上げて作りあげた巨大な耕作地
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さぞかし美しい集落だった事だろう
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ウルシ谷川
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民家跡
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構造躯体
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トラクター
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この付近では共通の臼
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肥溜め跡が二連になっている場所は一体どういう意味なのだろう??
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これはより深く耕すやつだ
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ガイド付きドリル
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民家跡
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この機体のスペックは?
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そして酒樽が落ちている
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銘酒 玉緑
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第四百三十三号
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穴内村 福原酒造
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穴内村が安芸町に合併されたのは昭和18年10月1日。

80年以上昔の酒樽が現存している。


養命酒の瓶
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瓦の刻印は確認出来ない

そしてこの後、この部品が装着された本体を発見する事になる
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自転車のホイル
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明治時代に久重ー大屋敷ーウルシー白髪が幅2m以上の道で繋がっていた訳だから、ここで自転車が使われていたといっても何ら不思議はない。

茶碗
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穴内村で生産され赤野川沿いの道を使って宇留志まで運ばれた、半永久的に使用できる粘土瓦を使った建物の屋根には金属製の樋が掛かっていた。
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集落の道
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何故ここの集落跡があるかというと、このウルシ谷川の水脈があるから
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岩盤を削って階段にしている
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その時に発生した石も集落の石垣に組み込まれているだろう

前回訪問した石灯篭との位置関係を確認したい


すぐに前回の作戦範囲に突入
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ほんの僅か数メートルの違いで、この集落跡を見逃していた事になる。



送電部品
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宇留志の石灯篭はすぐそこだった
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宇留志 銀座一丁目
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お墓を移動した時のものだろうか。
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前回の民家跡には金庫も落ちていた
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そしてこの機械は
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スペック
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人工的に、そして意図的に造られた道だ
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そこは石灯篭の前の場所
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そしてこの場所自体が斜面になっている

安易な結論付けの出来ない不思議で魅力的な場所だ


先程の場所に戻る


ここのウルシ谷川の沢の石垣は他と比べて大きい
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その事が一体何を意味するのか
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それはまずこの場所に生活に必要な水脈があり、そしてインフラを整備するための石垣の石を採る場所があったという事だろう。

だから運搬の難しい巨大な石は生産地周辺で使用され、運搬の安易な小型の石は遠方で利用されたという事だろう。

そして平坦な場所だけでなく、このような斜面に急な山の中腹の場所でも積極的に集落が形成されたのは、水脈があり、そしてインフラを整備するための石垣の石が採れる場所があったからだろう。

たまたまとか、偶然とか、成り行きでとか、仕方なく、とかではなく周辺地域との関係性もあるが、その場所に水脈があり、石垣の石の採れる場所があり、耕作に必要な陽当たりの確保できる選ばれた場所に耕作地が作られ人が住むようになったという事だろう。

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大きな石垣で作り上げられた耕作地には暗渠が設置されている。


それでもこの様な状態になっているのだから、もし暗渠が設置されていなければ既に大崩壊で影も形も残っていなかっただろう。

現在のハイテクという言葉の完全な守備範囲外にある技術と知識の高さを伺える。

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宇留志の道の状態は良好

明治時代にあった幅2m以上の道の痕跡が確認できなかったが、多分この道には自転車が走っていて、郵便屋さんもバイクで通っていたのではと思う。


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●地理院地図 明治43年
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まだ赤野川沿いの宇留志への道は無い
しかし、なんとこの時には久重ー大屋敷ーウルシー白髪が幅2m以上の道で繋がっている。
大屋敷ー板渕は破線の1m以下の道での接続で、板渕ーウルシの接続の道はない
(しかし地図にはないだけで当然普通に往来はあったはずだ)


●地理院地図 昭和5年
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特に大きな変化はないが板渕に大きな長屋が出現している
また大屋敷にある神社の記号はどうやら仁井田神社のものではないようだ。

●地理院地図 昭和11年
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ここにきて大きな変化が出現
大屋敷ー板渕間の道が破線の幅1m以下の道から幅1m以上の道に格上げ
そして久重ー大屋敷の道が幅2m以上の道から幅1m以上の道に格下げ
更に、大屋敷ーウルシー白髪の道が幅2m以上の道から幅1m道の大幅格下げ

そしてそれは当時まで久重ー大屋敷ー宇留志ー白髪の繋がりがそれだけ強かったという事を示すものになるだろう。

まだ同時に赤野川沿いの道が繋がったようだ。

そしてその頃、安芸町、穴内村(昭和18年に安芸町に合併)方面からの物流経路が白髪経由から赤野川沿いの道経由に変わったという事だろう。


●地理院地図「手結」昭和33年
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赤野川の宇留志下流には神社があるようだ
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また板渕と上尾川は直接繋がっている。いわば隣村だ。
そして上尾川から仲木屋はすぐそこ。
当時の村々の繋がりは、現在の自動車道で接続で考えるものとは全く異なっている。


赤野川沿いの神社
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地図では林道の上になっているが現在は林道の下にある。
神社を下ろしてきたのか、道が上になったのか・・


鳥居も壊れている
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もう訪れる人はいないのだろうか
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後ろは赤野川の導水管
ここから林道と合流し、その後林道の東上を走り下流の耕作地を潤す

その先の橋のたもとには
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地図に載っていないだけで、各地に耕作地跡、民家跡が点在する
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苦楽乃家
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管理者は
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宇留志の手前の橋
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スズキ
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そして対岸に中州のような耕作地跡がある
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岩盤を砕き、その石を石垣として広大な耕作地を築き上げたようだ。

耕作地を作るには、まず場所以前にその耕作地を作るための石が必要であるという当たり前の事をここではっきりと認識した。
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そして石垣の石の大きさにもそれぞれ理由があるという事も


またその反対側には沢を走る道があり
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民家跡はないが、人々のかつての生活の跡がある
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炭焼きの窯跡
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耕作地跡
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林道の下には現在の地図にも民家が記載されているが

現状は
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37というのは370Ⅼの事かな
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肥溜め跡があり
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これは車のコンポのスピーカーか
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ここからさらに宇留志に進む、とうかすでにここは宇留志だろう

林道沿いの耕作地跡
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地図にもあるように林道下の川沿いには民家跡がある
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ガスボンベ
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肥溜め跡と板渕、大屋敷、でも見る備品
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これは当時の炊事場、今でいうシンクだ。
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集落横、林道の上には祠がある
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山の中腹にある宇留志の集落跡入り口はもうすぐ
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ウルシ谷川橋
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この橋の下の川の上流が宇留志の集落跡という事にもなる

ウルシの名前が現在でも使用されているのが嬉しい

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平成26年3月竣工

林道は羽根側から赤野に向かって拡幅工事が進んでいて、当時とは随分と地形が変わってしまっているようだ。

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大屋敷からの稜線越えで訪問した宇留志は大体この二カ所の周辺になる。
昭和40年代の地理院地図の民家跡としては1軒と3軒の4軒の場所を訪れた事になるが、実際には肥溜めベースで10軒以上の民家跡を確認している。
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この石灯篭のある周辺だけで10軒程の民家跡があった。


幾何学的な美しさのある石垣
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夜須・仲木屋の石垣を彷彿させる。
(仲木屋の石垣)↓↓↓
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・仲木屋分校1
・仲木屋分校2
・航空写真で見る仲木屋分校跡



そして厳密に言えば、仲木屋の石垣のほうがレベルが高い。
というか、仲木屋の石垣のレベルは今まで見てきた集落跡の中で異様に突出してレベルが高いのだ。


風呂釜
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陶器の破片
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100均で売ってそうなものがあり
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なんとまだ現存しているとは
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反対側
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木製格子のガラス戸
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宇留志ではこのお皿の上にどんな料理をのせられていたのだろうか。
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移転先に運ばれる事のなかった機械

ここでこの機械を使ってやっていた作業が、移転先では必要なかったという事だろう。
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昭和30~40年代がぐらいのものか
上の写真のものと同一のものかは不明
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板渕、宇留志には共通する製品が多い
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高度を下げずに東に移動する
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水脈のある場所に
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耕作地跡がある
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さらに高度を下げずに東に移動するが、小規模な耕作地跡を少し確認しただけで石灯篭のある場所に帰ってくる


この石灯篭の場所や高さにもいろいろと理由があるのかもしれない。

例えば季節や時間の目印になるようなものがあるとか
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考えすぎ・・・とは思わない。

未開の地で始まった宇留志での生活には全てのものにそれ相応の理由があるのだろう。

そもそも、いつ頃かどの様な理由で「宇留志」と呼ばれるようになったのだろう。

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電柱を切った跡がある
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プレートが付いている
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加圧式クレオソート 山陽木材株式会社
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この宇留志に電気が来たのは昭和33年12月10日

伊尾木林用軌道が稼働していた伊尾木川沿線の集落より少し早いタイミングだ


「宇留志」の文字を期待したが
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「久重」だった。


そして瓦の刻印の一部を発見
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相方も近くにいたが
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もう一つがどうしても見つからない
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今回はここで終了して次期作戦を展開しよう
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稜線に向かう道は結構広かったようだ
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帰りはこの谷側の道を帰ろう

大屋敷か仁井田神社に着くはずだ
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ゆったりと等高線に沿って降下する

この分だと大屋敷に着くか、分岐があってそこを曲がれば仁井田神社だ。
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陽当たりの良い場所には耕作地跡がある
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そして小さな沢を渡る下の暗渠は
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今でもしっかりと機能している
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耕作地の主が去り、植林の森となり環境が変わった今でもだ
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大屋敷についた

仁井田神社への道は見落としてしまったようだ。

そもそも宇留志から仁井田神社に行く道がないはずがない。

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橋は電柱で出来ている
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大屋敷の祠がある

上が林道
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大屋敷を抜け、作戦開始地点に戻る
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何故その後「宇留志」と呼ばれる事となったこの険しい山の中腹の集落が誕生する事となったかというと、それは久重の耕作地の開拓、開発、発展、繁栄の結果として、新たなる生活の場を求めた人々の歩んだ道という事になるだろうか。

そしてその発展、繁栄の象徴が仁井田神社と言えるだろう。


「夕焼け小焼け」の放送が流れてきた。五時だ。

久重小学校から児童の姿が消えても、この「夕焼け小焼け」は当時のまま。



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某社住宅地図「安芸・芸西」の宇留志周辺
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なんと林道からの道の記載、しかも民家2軒記載があるではないか!!

正確に最新情報を更新しつつも、無人となり、さらに行くのが困難な場所はそのまま数十年と当時のままで放置しておく某社の経営方針には非常に好感が持てるのである(笑)




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宇留志から久重に行く場合に必ず通るであろう稜線上の地点に向かう
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歩くには最適の季節
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目的地点に到着
 
当然そこには道がある。
左側が久重、大屋敷、仁井田神社方面に繋がる道になるだろう。
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稜線上から宇留志に降りる道筋がある。
またここは地域住人総出で地域のインフラを整備する「田役」で開発された場所でもあるだろう。
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こんな感じになっている。
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集落を見下ろす形で降下するが道はけっこう傷んでいる
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すぐに民家跡がある
これは肥溜めの跡
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民家跡
瓦の刻印は確認出来なかった
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板渕にあったものと同じ燃料タンク
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肥溜めと風呂釜
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民家跡の石垣と道
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そして南に向かって開けた明るい場所がある。
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これは耕作地ではない
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舞台というかステージというか、公園というか、地域住民の憩いの場のような場所になるだろう。

この時期に我々の花見で見る桜の花こそ見当たらないが、あれは現代の人間が人工的に造った場所で、わざわざそんな事をしなくても、宇留志の人々にとってはこの場所から四季を通して素晴らしい展望が楽しめたのであろう。
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限られた耕作地面積に対しての限られた収穫量しか望めないはずの、この「宇留志」にこの様な場所があるという事は、集団移転とい事から想像してしまうようなこの地での生活が貧しく貧祖であったというイメージを完全に否定する事になる。


さらにここには。
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平家の末裔が800年暮らした「宇留志」は赤野川沿いの山々を展望する天空の里だったのだ。
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石垣で整備された切り通しを下る
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ここも耕作地跡ではないようだ
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南に向かって開けたこの場所にこの様な場所があったいう事は、それだけの生活の「余裕」があったという事になる。
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すぐ先に民家跡がある
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この宇留志には水田があった
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ステンレス製
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板渕にあったものと同じ臼
同じ場所で同じ人が作ったのだろうか
臼造り職人は誰だったのだろう。


瓦の刻印は確認出来ない
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大き目の鍋
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メニューが気になる
きっと現代人が食べると、うなってしまう程の旨さだったに違いない

瓦の刻印を探すが、見当たらない・・・
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構造躯体
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板渕と共通するものが多く存在する
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肥溜め跡があり
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鋤がある
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だからこれを引く馬か牛がいて、道は当然、馬や牛が通れる規格の道であった。

この付近の道は崩壊が進んでいるが、ここから久重、集落を下り赤野川沿いまで繋がる道は当然その規格で造られているはずである。


更にこの民間の玄関先は
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なんともモダンな造り!!!
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この宇留志での生活は石灯篭のある展望台があり、民家の玄関先には洋風のモダンなスタイルの石垣があり、夜は電気の灯りのつくもので、「集団移転」という言葉からイメージするネガティブな内容より遥かに「余裕」のある生活だったようだ。


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