高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

カテゴリ: 宿毛の学校

●宿毛・学校跡地まとめ

昭和34年に山奈小学校に統合となった大物川分校

この学校に関しての記載は郷土市史の中にも廃校の年度の記載のみで、更に地元の方でも「大物川」について知っている方は殆どいない状況である、、が過去の高知新聞にはいくつかの記載がある。

・高知新聞 昭和25年 6月8日

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水力発電所跡には行っていないが、まだ現存しているそうだ。

そして当時は26の民家があり、各家庭に約100ワットの電力供給があったそうで、民家の数カ所の電灯とラジオの電力を賄い、水力発電所の発電量は3kW、つまり現在の二階建て35坪ほどの民家に設置される一般的な太陽光発電システム程度の発電量であった。


・昭和31年 11月25日

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当時の大物川部落の住人40人は全員林業関係者で、学校の児童は17人だった


・昭和32年5月12日

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また中学校はなく、中学生は朝4時に出発し16㌔の道のりを歩いて山奈中学校まで通学していたそうだ。
(林用軌道では1時間程の距離ではあるが、学生の通学に合わせて森林鉄道を稼働させるという事は不可能なのである。何故なら軌道は単線で木材を運搬して往復するだけのものだったから)

その中学生の為に合宿所を作る計画が上がっていたそうだが、分校は2年後に廃校になる・・・どころか大物川部落そのものが無くなってしまうのである。


・昭和34年5月9日

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昭和34年5月4日 山奈小学校大物川分校の廃校が決定。

営林署事業所の移動が原因。
児童17名の内14人は楠山小学校へ、3人は本校である山奈小学校へ転校。

そしてそれも年度末である3月31日を前後しての話ではなく、完全に営林署事業所の移転という仕事上の都合によるもの。

また学校の開校は昭和18年で、大物川部落の歴史も大物川分校の歴史も、ほぼシンクロする16年の歴史だったと思われる。



昭和18年に始まった「大物川」の歴史は、昭和32年には山奈中学校の近くに中学生の為の宿舎を作る話にまで進展していくが、その2年後には営林署の事業所そのものが移転となり、わずか16年で幕を閉じる事になる。

そしてそれは明治末期からの林用軌道を主体とした日本の林業の発展から、昭和30年代後半に掛けての林業の衰退と林用軌道の消滅の間の激動の時代を象徴するかのような話でもある。


何故なら【これは多くの日本人が気付いてないだけで、非常に良い意味で】、日本の戦後の復興は世界はおろか、その主役であった日本人自身さえ予測不可能な程に凄まじいもので、確かに明治末期から昭和20年代までの日本の林業は、日本に本当に必要なもので、時代に要求された産業であったが、その日本の戦後の復興があまりにも凄まじいものであったがために、その「林業」が要求される時代は予想を遥かに超えた速いスピードで過ぎ去っていってしまい、誰も、日本人自身が数年先はおろか来年の見通しさえも【これも非常に良い意味で】正確に見据える事が出来なかった。



早い話が、昭和20年8月14日、原子爆弾を2発投下されポツダム宣言を受け入れアメリカGHQの占領政策を受け入れる事を決めた日本は、世界中の国々から「もう日本は二度と戦前の世界の一等国に返り咲く事は不可能だろう」と思われていた。


そんな日本がそこから20年も経たないうちにアジア初の「東京オリンピック」を開催する事になるのである。(しかも新幹線が走っていたし)


そしてそのオリンピックの開催国は、その前のオリンピックのその前のオリンピックの翌年に決定される訳で、つまり7年前、つまり昭和32年には、日本は世界の国々から次のその次のオリンピックの開催国として相応しい国だと認められていた訳である。


あの焼け野原の国が10年少々で、さらに昭和27年にサンフランシスコ講和条約批准により主権を回復し再び独立を果たし国際社会に復帰した5年後には、国際的にもそこまでの地位に上り詰めていた、という凄まじい話なのである。


そんな日本の戦後に凄まじい発展の中においては、明治末期に林用軌道の稼働と共に発展し、その後もしばらくは日本の主要産業の地位であると思われた「林業」の時代等、発展や衰退の余韻に浸る暇もなくあっという間に終わる事になってしまった、というのが実際の話なのではないのだろうか。


そしてそれが大物川部落、大物川分校の16年の歴史の「本質」なのである!!







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かつて沖の島には弘瀬小学校・弘瀬中学校・母島小学校・母島中学校・長浜小学校と5つの学校が存在していた。
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●弘瀬小学校・中学校

●鵜来島小学校

●長浜小学校

●沖の島①
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沖の島は昔は、土佐と伊予の国に分かれていた
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●沖の島②

●『大日本帝国陸海軍墓地』
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(沖の島・鵜来島の再訪予定有り)


この沖の島の学校にはプールはない。ましてや鵜来島小学校なんかには。
何故なら、学校の水泳の授業にプールなんか作られても、そこは退屈で窮屈な場所で、迷惑以外のなにものでもないから。
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そして、この海は、子供達も含めた地元の人にとっては危険も安全も知り尽くした楽しい場所。

でもそんな場所に都会育ちのプールで泳いだ事しかない人が来れば話が変わってくるのは当然の事。
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でも一昔前までは、全国津々浦々、各地に小学校があり、海や川で皆が泳いでいたので、全く問題はなかったのであるが、急激に過疎化、学校の廃校進み、都市部に人口が集中し、プールでしか泳いだ事のない人が急激に増え、更にまともな根拠も無く、「危ないから」という理由で飛び込みを禁止した劣化した水泳の授業で日本全国の子供達の泳力が著しく低下したのが、最近の夏場の悲惨な水難事故の原因である。

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そもそも、何故学校で水泳の授業が始まり、プールまで作られるようになったかというと、子供達に「自分で自分の命を守る術」を教えるためである。

そのきっかけとなったのが昭和30年前後の瀬戸内海での「紫雲丸事故」。

多くの修学旅行生を載せた「紫雲丸」が沈没し、泳げない多くの児童生徒が命を落とす事になった。

その事がきっかけとなり、全国的に小学校にもプールを造り、水泳の授業を、という動きが活発になり、昭和30年代から学校にプールが作られ、水泳の授業が行われるようになっていったのである。

そしてそれが現在、全く何時、何処で、何を勘違いしたのか分からないが、子供達が自分で自分の命を守る術を身に付けるための水泳の授業が、飛び込みを禁止し、ゆっくりと安全に水の中に入り、静止した水の中をゴーグルを付けて、無理せずに25m泳ぐだけのお遊戯に成り下がってしまった。

ましてや過疎化で都市部に集中し海や川で泳ぐ機会の殆ど無い現在の日本人。

そんな状態で突然、海や川に泳ぎに行っても、本来であれば安全で楽しい場所も、そうではなくなってしまう事もあるのである。

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でも、その様な事は日本の長い歴史の中のごく僅かな時間の異変。

そうなってしまった事を単純に悲観するのではなく、本来のあるべき姿に戻せるように努力していこう。



うどの浜を後にし、弘瀬地区に戻ってきた。
船の時間まで散策しよう。
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弘瀬地区のお店
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久しぶりの昼間からのビール

最高に美味い!!
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ポストと公衆電話
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バスも走っているようだ
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この弘瀬地区は青い屋根が多い
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正確には塗り替えた訳で、特に具体的な理由はなく、流行りだそうだ!!
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カラフルな街並み
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船の手入れをやっているぐらいだから、家の塗り替えぐらいは楽勝だろう
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弘瀬地区のメイン階段
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ブルー
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ブルー
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家を解体した後も、瓦は他の家のスペア瓦として保管されているようだ
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だからこのような屋根も点在する
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石垣を動かして水道管を埋設する訳にもいかないから、水道管は剥き出しのまま
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石垣と階段  明日のお祭りの準備も進んでいるみたい
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メイン階段
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孤島の太陽
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青の瓦のスペア
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エメラルドグリーンの家
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配管はすべてこんな感じ
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ここから妹背山へは集落内を通過して登る
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妹背山へ
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ここにもエメラルドグリーンの家
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グリーンの屋根
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逆におしゃれだ
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島民の結束は硬い
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もしかして赤い屋根が流行っていた時期があったのかもしれない
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その後にブルーの時代がやってきたのか
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お祭り準備のお疲れ会の準備がされている
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沖の島、近いうちに、また行ってみる事にしよう。


沖ノ島への航路は日に二回
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 料金
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4月17日に行ったので、船はこの「のしま」
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弘瀬小学校の訪問を済まし、母島へ
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母島の店
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「いもせや」とあるが「妹背山」のいもせである

時間外でも鍵は開いているので中を利用できる
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トイレも完備
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お昼過ぎ、釣り客が動き出し、静かだった母島の港が急にあわただしくなる
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一気に三隻ほどが出航
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その後、偶然にも磯釣りの場所に着岸するのを目撃
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また母島には「回天基地跡」がある
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海軍基地だったという事か
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沖の島小中学校と保育園
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校門
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音楽の授業の音が聞こえる
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この沖の島の歴史、伝統、文化は日本の貴重な宝物
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学校の横から妹背山に登る
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登り口
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学校を見下ろしながら登る
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1時間、早ければ45分、アクティブモードで30分で登れます


小学生が記念に植えた木
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林道も併設されている
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砲台跡もあるようだ
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道は結構荒れている

もう少しだ
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到着
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展望台に登るが、天気が良くない
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砲台跡
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南には弘瀬地区が見える
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山伏神社
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神社とすだじい
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推定樹齢500年だそうだ
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また沖の島には昔「国境」があった
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土予国境跡
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江戸時代の話だ
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こんな感じだったのか
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(宿毛市史より)



うどの浜の向かう
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うどの浜への入り口
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まずは神社に行こう
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潮風のせいだろうか、鳥居は若干風化している
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昭和44年の文字が擦れてきている
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日吉神社
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瓦が特徴的だ
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この地域独特のデザインだろうか
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うどの浜へ
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お!!
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大歓迎のようだ!!
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一度崩壊した道を作り直している
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浜に降りる
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この建物は遠くからも見える
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ちょっとエスニックな感じ
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泳ぎにきてみたい
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しかし、ここではっきりと申し上げていたほうが良い。

静止した水の中をゴーグルを付けて安全に泳ぐ事に特化してしまった現代の水泳の授業を受けた程度の日本人にとっては、海や川は危険な場所である。



地理院地図・沖ノ島 昭和50年発行(調査昭和47年)
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昭和47年度は沖ノ島の小学校、中学校の制度に大きな変化がもたらされた時期である。
三代目の敷地に移転した弘瀬小学校が現在の場所に移転し弘瀬中学校と統合したり、母島小学校と母島中学校が現在の母島小学校の場所に移転統合された時期でもある。

また昭和47年度(日付は昭和48年4月1日)は谷尻にあった長浜小学校も母島小学校に統合された。


昭和50年度発行の地理院地図「沖ノ島」(調査は昭和47年)にはそれぞれの学校の統合前、統合先の場所が記載されている。


弘瀬で地元の方に長浜小学校の場所を教えて頂く。

母島小学校の先を右に曲がり、しばらくいくと道の逆方向に下に降りる道があり、そこが学校のあった場所だとの事。

そしてそれだけで迷う事なく現地に到着!!
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廃校から45年、推定される建築年数では70年以上経過しているが状態は良好だ。
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木質の外壁にセメント瓦の造りで、特に耐久性の高い素材を使用してる訳ではないが、この校舎がこの状態で現存しているという事は、この土地の気候風土、環境を知り尽くした地元の人間が、ここで学ぶ子供達のために使用する釘の本数、角度まで厳選した極上の最高級仕上げにしたとう事だろう。
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これが廃校後に撮られた写真
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「追憶・わが母校・過疎 廃村写真集 井上正臣」より

特記する程の変化は見られないようだ

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とはいえ木製の外壁は数十年の雨風で自然な形で変化している



その後は老人憩いの家
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木製格子窓
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教室は二室
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これと同じ太鼓を弘瀬の明日の荒倉神社のお祭りの準備で見た
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そして老人憩いの家も運用されなくなって相当の時間が経っているようだ
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東の海側から上がってくる場所にある校門

下に続く道はもう鮮明には残っていない
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卒業記念の作品だろう
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校庭
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校庭には桜の木が
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散る桜

残る桜も

散る桜




遊具
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昔の子供達はこれにつかまってグルングルン回っていたのだ
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当時の子供達が歓声を挙げながら遊んでいた当時の遊具に対して
現代の日本人は「危ないから!」「怪我をしてはいけないから!!」とのたまう。


しかし当時を過ごした日本人にとっては、一体どこが危険で、怪我をする恐れが一体何処に存在するのか全く理解出来ないのである。



校庭のフェンス
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校庭に繋がっている道
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この学校にも新校舎建設に際して地元の方の土地の提供があった
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昭和29年9月 沖ノ島村が宿毛市に合併統合となり、その流れの中での新校舎建設に際しての土地の提供であったようだ。
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そしてその前身であった校舎の石碑が
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弘瀬尋常高等小学校郷分教場跡地
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長浜小学校の前身である弘瀬小学校郷分教場がここにあったのは昭和11年4月から昭和27年
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この建物になるのだろうか
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「追憶・わが母校・過疎 廃村写真集 井上正臣」より


長浜小学校の児童数
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母島小学校に統合になる昭和47年度には19名の児童が在籍しており

昭和30年代には50名を超す児童がいた。




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片島から沖ノ島に向かう
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「地理院地図・鵜来島」


その前に寄港する鵜来島だ!!
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港だ
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そしてこの大きな建物が鵜来島小学校
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平成元年に休校
平成20年に廃校となる

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この小さな地区に昭和30年代には80名を超す児童がいた

漁業の街の海に浮かぶ巨大な住宅街だったにちがいない!!


現在の状況は

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もしかして「姫島」にも人の住んでいた時代があったのだろうか。

統計をとっていたという事はそういう事なのではないだろうか。
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今回は下船しなかったが、次回は上陸してみたいと思う!!


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「OPERATION SWEET MEMORIES」もいよいよ最終局面を迎えつつある皇紀2678年、平成30年4月中旬。
早朝、三時半に高知市内を西に、宿毛、片島港に向かう。
対公道用対策として次元航行機能と対亜空間戦闘兵器を取り外したケルベロス弐号は、それでも高知ー宿毛片島間を2時間20分での移動を可能にする。

そして目指すは沖ノ島!!
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船内
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因みに帰りは完全に貸し切り状態であった
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船は「すくも」がドック入りしていて「のしま」
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鵜来島に寄港し弘瀬に到着
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これは回収したペットボトル
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また一日に二回の航路は生活物資の供給経路でもある。
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沖ノ島
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そして弘瀬小学校
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校門
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弘瀬小学校 弘瀬中学校
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記念碑
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学校の歴史
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学び舎の碑
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卒業生
小学校 2039名
中学校  627名
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校庭の遊具
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この敷地の学校は四代目になる

そして学校建設に際して土地の提供をされた方々
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この敷地に移転する前の三代目の校舎の時代、昭和33年には154名の児童がいた。
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そして四代目の校舎は減り続ける児童数の中で建てられた事になる
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しかし、この四代目校舎の建設は、その減少傾向にある児童数に歯止めを掛け、この弘瀬小学校のかつての活気を再び取り戻すための象徴だったはずだ。

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体育館というか、これは僻地集会所と呼ぶ
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どうらこの沖ノ島ではヘルメットをカブってバイクに乗る事は非常に目立つ行動のようだ。
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郷に入っては郷に従えという


学校と集会所は屋根付きの階段で繋がっている
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そして、これを持って弘瀬小学校への訪問は終了したかに思われた・・・


弘瀬は明日4月18日のお祭りの準備で若干慌ただしい時間が流れているようだ。
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そして島の人とそんな話をしている中で、なんとそこにある建物の場所が二代目の校舎があった場所で、5.6年が授業をしていたと。
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そして、ふれあいセンターが1~4年が授業をしてた場所だと教えてもらう。
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二つの建物の間は公園のようになっていて
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横長の敷地だったようだ
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ふれあいセンターの前には石碑があり
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ここに学校があった期間は明治42年から昭和25年8月
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そしてこの話を聞くと、当然初代の学校の場所は何処であったかという話になる訳で

おばあちゃんの沖ノ島ネットワークですぐに調べて教えてくれた

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その場所は、あすお祭りのある荒倉神社の鳥居の先
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忠魂碑の前に学校の記念碑が建てられている
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ここに学校があった期間は明治31年5月から明治42年8月まで
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四代目弘瀬小学校の石碑には明治18年7月に母島小学校弘瀬分校として創立
明治19年、弘瀬簡易小学校に指定され独立の一校となる

そして明治31年5月に荒倉神社の境内に初代校舎落成とある。

これは現代の鉄筋コンクリートの体育館、プール付きの校舎で学校生活を送った日本人には少々理解し辛い流れであるが、当時はこうだったのである。

現代では学校というものは、そこの敷地に校舎があり教室があるという大前提の上で連想され成り立つ話になっているが、当時はそうではなかったのである。


国家が国民を教育するという事が学校であった訳で、その手段として、その後校舎が建てられる事になるのである。

だから学制の発布された明治5年以降しばらくは、学校というものは敷地に建てられた建築物というより、その地域の子供達が学ぶ事という概念に近いもので、授業がお寺や神社や民家や空き家で行われる事も多く、一人の先生が複数の学校と掛け持ちして教えて回る巡回授業場というものまであった。

また、現在の文部科学省の前身である文部省の前身は、明治初期の「大学」という機関でだったのである。




そして帰ってきて改めて地図を確認してみると
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「地理院地図・母島・昭和50年発行」


そこには3代目校舎の場所が記されている

またこの後訪問した母島小学校も現在の場所は移転後の場所のようで
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どうやら再訪問の必要性が有るようだ!!!!

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沖ノ島の小学校の児童数
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中学校
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現在の沖ノ島の人口

弘瀬
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母島
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そういえば、少し見せてもらった沖ノ島の郷土資料にも非常に興味がある。




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平田第二小学校跡の石碑
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大物川森林軌道跡
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京法小学校の学校建設記念の碑
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和田小学校の近くにある支那事変記念の碑
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山奈中学校

平田中学校

昭和39年
平田中学校と山奈中学校が名目統合し、東中学校となる

昭和41年4月
新校舎で授業開始
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平田中学校があった場所は、平田小学校の少し北西

(地理院地図「有岡」昭和43年)




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山奈小学校大物川分校
①一生原
②大物川集落へ
③分校跡と林用軌道跡
④山奈小学校大物川分校

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平田第二小学校


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和田小学校
支那事変記念の碑

二ノ宮小学校


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京法小学校


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坂本小学校

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楠山小学校・中学校

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出井分校


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田ノ浦小学校

都賀ノ川分校

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小筑紫小学校

栄喜小学校

石原小学校



沖ノ島 鵜来島の学校はまた後日(かなり先になるかも・・)


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そして大物川分校があった場所は、集落の中のこの場所ではないかと思われる。
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このような看板が立つのも、ここが集落の主要な場所だったという事を意味していると推測できる

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状況を反映し更新される事なく当時のままの状態で記載されているゼンリンの最新地図では集落の東の端の長屋になるだろう


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地理院地図1/25000「川登」昭和43年発行

また人々が去って行った後も上記の建築物の中の2軒のみが、その後も利用されたり、人の手が加えられたりしてその寿命を延ばしていったのだろう。
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平成29年3月の大物川付近の状況
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階段跡
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民家のものとは思えない
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「広報すくも」の大物川の当時の風景からしても、これは民家の階段ではなく、それより規模の大きい建物の階段だったに違いない
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そしてその大物川集落の民家より規模の大きな建物とは、
つまり「山奈小学校大物川分校」の事だ
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また石垣の東側には
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これは伊尾木の障子藪の水力発電所跡で見かけた石積みに似ている

伊尾木森林鉄道まとめ
10.障子藪の集落とメガネトンネルと製材所・発電所


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この大物川にも早くから水力発電所が造られていたそうだから、その技術をこの石垣にも利用し水の流れる便利な造りになっていたのかもしれない。

敷地内にある便器の残骸
これも学校跡地には必要な根拠の一つである
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そしてその後、営林署の施設として利用され
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その役割も果たし
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現在の姿に至っているのではないだろうか
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また周辺には石垣の跡に囲まれているが
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これは「広報すくも」の写真を見ても
当時の状況のままのゼンリンの大物川の地図を見ても
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耕作地ではなく、宅地だったようだ
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この風景の真ん中辺りに大物川分校の校舎が建っていた事だろう
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そして学校跡地の前には
林用軌道のレールが落ちている
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山奈小学校大物川分校

情報として分かっている事は
昭和34年に本校の山奈小学校に統合されたという事
児童数は昭和29年から昭和33年までそれぞれ
14名、16名、17名、16名、16名

開設を含めたそれ以前の事は不明

そしてここには大物川林用軌道が通っていて、その仕事に従事する人が住んでいて、その子供達が分校に通っていたという事

そして事業所の撤退とともに人々も去り分校も廃校になったという事



地理院地図1/50000「大用」昭和28年発行
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当時から隣の村に行くための道が通っていた事は確かだが・・・・


この「大物川」の地名が出てくるのは学校が廃校になり集落に人が住まなくなってからである。

それまであったのはただ「林用軌道」の文字のみ。

それまではここが大物川という場所で人が住み、小学校がある場所という事すら一般的にも知られていなかったのかもしれない。

この大物川には長瀬からの山越えで来たが、その経路の中にはあまり歴史の長さ、深さを感じ取る事はできなかった。

また集落周辺も林用軌道跡の調査で歩いてみたが、集落以外は人の住んでいた形跡はおろか耕作地の跡さえ確認出来なかった。

また集落内の石垣に至っても、それは耕作地の石垣ではなく民家、学校、林業関係の施設、建物の石垣になる訳だから、この大物川いう場所は食料の生産が殆ど行われていなかったと推測できる。

地政学的に見てもこの地域は人間が積極的に住み着く要因のある場所ではない。

この大物川は林用軌道の稼働開始に伴い、人々が住み始め、学校が開設され、林用軌道の廃止と共に人々が去り学校が廃止された場所という事になりそうだ。

だから学校の開設は国内で林用軌道の開始が始まった明治末期から大正初期

集落も学校も半世紀足らずの時代を過ごした事になるのだろう。


そういう意味ではこの「大物川」
本川村の「殿御舎」と同じような運命を辿った場所ともいえる。

●殿御舎小学校


違うのはただ、ダムが建設されるのがそれから約60年後という事ぐらいのものかもしれない。

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平成29年3月3日雛祭りの日

俺は、にも関わらずぼんぼりに明かりをつけたり、桃の花をあげたりせずに、高知市内の事務所で久しぶりにマクドナルドのハンバーガー(単品)、チーズバーガー(単品)、そしてビッグマック(単品)を楽しんでいた。
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そしてパソコンの地理院地図を開き先日迷子になってしまった、大物川への道、長瀬の奥の地形を再確認し、大物川への経路を確保しょうとしていた。

何故なら前回の撤退の最大の原因は、2月に息子がハマっているカードゲームの動画を私の携帯のユーチューブで見過ぎたため通信に制限が掛かってしまい、2月末の前回の作戦開始時に現地で携帯の地理院地図を開く事が出来ず、脳内地形図を不明瞭にさせたまま現地に突入したからである。

そして一品目のハンバーガーが食べ終わる頃には脳内地形図の初期設定が完了し、二品目のチーズバーガーを食べ終わる頃には地形と経路のダウンロードが完了に近づいた。

そして三品目のビッグマックをゆっくりと楽しむ暇もなく、包装を半分以上解除された喰いかけの状態で、その中心部に秘められた決してその全てが同じ形をしていないピクルスが露わになり、ハンバーグと蕩け始めたチーズが無防備に露出され、しかもその内部からはケチャップが溢れ始め、そしてそれを購入したご主人様にしか眺めることの出来ないその中心部を大胆に露出したままのある種の恥ずかし気な、恥じらいさえ感じられる、そんなポーズのままのそいつを、その恥じらいを更に、より大きな愛で包み込むような行為で応えるような形で、優しく強引にそして強く刺激し過ぎてはいけない部分は滑らかに歯と舌先で転がしながら口の中に投げ込み、ウーロン茶で流し込み、日本の公道走行用に対亜空間戦闘用の兵装と次元航行機能を取り外し4サイクル単気筒108ccエンジンに積み替えたケルベロス弐号に飛び乗り、模範的な安全運転で国道56号線を宿毛方面に向かうのであった。


そしてその3時間後、俺は長瀬の北の白皇神社の北西300m付近にケルベロス弐号を第二次警戒態勢のまま展開させ、大物川方面への作戦を開始するのであった。

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そして前回の撤退を経て二度目の作戦で到着した大物川
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集落前を通過し、まずは大物川林用軌道の九十九周辺に向かう
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何故なら現時点まで安全確保の為の作戦撤退ラインをギリギリで通過してきている状態で、まずは林用軌道跡の調査を済まし、残った時間を大物川の集落、学校跡地の調査に充てようと考えていたからだ。

大物川への到着が、作戦撤退ラインぎりぎりの15:00時

そして大物川を離脱する最終ラインは16:30分だ

この時期、夜が始まるのは18:15分

ある程度余裕が必要だし1時間半もあれば十分だろう



また当時のまま全く更新されていないゼンリンの大物川周辺の最新地図も有力な資料になるはずだ
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「森の轍」の資料によると林用軌道の九十九周辺はもうすぐだ

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そしてその少し手前に神社がある
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水力発電所の跡もあるとの情報もあるが、今回の調査範囲の中には含まれていなかったようだ・・・
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鳥居は二つ
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階段を降りて

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渓谷を渡る橋の先に神社があるようだ
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そしてネットの地理院地図には反映されていないが、その後全く現状を更新されていないゼンリンの最新地図に反映されている、川の中州に神社があるようだ


またこの場所は山奈小学校大物川分校の児童達の絶好の遊び場だったに違いない

そして当時は現在のような水難事故は皆無だったに違いない
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それは自然を熟知した大人が危険も安全も把握し、その指導の基に成長していった上級生がその場所で遊びはじめ、そしてその上級生にその実力を認められた年下の者が上級生に連れられ、憧れの上級生達のテリトリーに案内されるからだ。

実際に訪問先の地元の方の話に、現在の水難事故が信じられない、余程無知のまま危険な事をしているのではないか、という話はよく聞く。



渓谷を渡った先の中州にある神社
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その小さな中州に神社がある
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この場合のコーラのペットボトルは決してゴミではない
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そしてそれは一定の常識、そして暗黙の了解のある範囲内での規定であって
その常識を規律正しく守る事が出来るのが日本人の習性なのだ

そしてそれは日本人の中ではごくごく当たり前の事ではあるのだが、
世界的に見れば信じられない程、素晴らしい事なのである

それを日本人はもっと自覚すべきであり、
同時に、自分達がこのような規律正しい行動が自然にとれるからといって、その他の外国人も同じような行動がとれる訳ではない、という事をもっと認識すべきである

そしてそれは事の善悪以前に、民族として生きてきた環境、状況、重ねてきた歴史の長さ、重みの違いにより当然ながら発生してしまう「差」であるという事をもっと積極的に知っておかなくてはいけない事なのだ。


林用軌道跡に向かおう
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ほぼ予想を裏切らない形で、しかも想像の斜め上の状態で軌道跡が出現
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素晴らしい
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特記すべきは、まず廃線から半世紀以上経つにもかかわらず暗渠のダメージがゼロという事だ
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伊尾木森林鉄道、いや正確には伊尾木林用軌道跡では崩壊した暗渠、石積み、橋台をいくつも見てきた。

そしてその原因は近年のいわゆる異常気象とも呼ばれている大雨が、設計当時の設定を大幅に超えるキャパオーバーに起因するものだと思っていたがどうやらそうではないらしい。

植林によって著しく保水力の低下した山の水の流れが、設計当時の山の状態では絶対にあり得ない程の量になってしまっているという事なのだ。

そしてこの軌道跡がこの状態で現在もそのままの姿を留めている最大の理由は、この場所が植林の中ではなく、原生林の中にあり、設計当時の想定範囲内の状況が続いているという事だろう。

だいたい異常気象とは何に対しての異常気象なのか。
それは通常気象に対しての異常気象なのか。
そもそも通常気象が存在するとしても、いつまでもその通常気象が続く訳でもあるまいし。

なにせ、地球は生きているのだ

いやいや、宇宙は生きているのだ

宇宙戦艦ヤマト2202「愛の戦士たち」を早く観たい
劇場が遠過ぎるぜ!!!

て、、、一体俺は何を言っているのだろうか
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その反対側
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その逆方向から
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軌道跡の上からの起点方面
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終点方面
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廃線後は林道に転用されているが、この九十九の区間だけは当時のままの姿で残っているようだ
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もう少し起点側に移動

高度を下げる林道からは少し高度を上げた場所、しかし先ほどの軌道跡からは緩やかな勾配を下ってきた場所に軌道跡が見える
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そして林道から九十九への接続部分が出現

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水力発電所跡も探したいがさすがに時間が足りない

次は軌道の終点場所へ向かおう

で、最初は気付かなかったが、大物川集落、軌道終点に向かい、神社を過ぎた先の沢にも、沢を渡る石積みの道がある
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そしてそこの暗渠も

ダメージゼロである
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林道を拡幅するために奥に土管を入れているが全くダメージゼロである
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廃線から半世紀以上、歴史を重ねてきただけで、その姿、形、性能は全く当時のままである
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先日、学生時代にとても俺には高嶺の花と思っていた美佳ちゃんにバッタリと遭遇してしまい、年齢を重ねた事は当然の事ながらにして、その容姿のダメージゼロさに驚いてしまい、思わず学生時代の当時のあの香りのする風が吹いてきて、斎藤和義の「ずっと好きだったんだぜ♫」まで脳内コンポで再生されてしまったが、それと全く同じ状況である

て、、、俺は本当に一体何を言っているのだ・・・・・

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再び大物川集落を見渡しながら通過し「森の轍」に記載されている大物川林用軌道の終点に向かう

ここは長瀬から林道に入り大物川に入る橋を渡った地点
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橋の袂に炭焼きの窯跡がある
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軌道跡は完全により広い林道に作り替えられている
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カーブミラーの背も低い

軌道跡を林道に転用した後、さらに盛土され、より広い道になっている

これでは林道上に軌道跡を期待するのは難しそうだ
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西側の山の伐採が完了しているため、道が明るい
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航空写真のとおりではあるが
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大物川林用軌道の終点付近に到着

ここを右折した先に終点がある

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が、期待とは裏腹に
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完全な更地、当時も面影は全く無い

いやいやそれを期待する事自体が無謀だったのかもしれない
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その先にはネットが張られていて、杣道が続いている
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そして大物川集落に

時間は十分にある

これは林道の南側にある建物の跡
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とすれば現在のネット上の地理院地図の大物川周辺に反映されている二つの構造物の一つがこれになるだろう
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そして無人になった集落の中の一番条件の良い場所に存在していた建物が何であるのか。

そして一般の民家と比較し、その一番条件の良い場所に建てられる建物の耐久性は、その他の建物より高い事は容易に想像がつく。

そしてこの集落に小学校があったとすれば、その集落の中の一番条件の良い場所に建てられた建築物が、その小学校そのものであるという事も容易に想像がつく。

勿論その推測が真実と異なっている場合は、当時の事を実際に知っている方の言葉によっていとも簡単に覆される推測ではあるが、実際に現地に赴き、状況を把握し、今まで幾つかの学校跡地を訪問した私の経験に基づいたある程度実績のある確信の持てる推測でもあり、またこの状況では不動の証拠を確認出来ないからと言って学校跡地を不確定にしておくのではなく、現在判明している事実の中で学校跡地を推測に基づき確定させ、それが真実であれ、間違いであれ、新たな情報を待つ状態にしておく事が最も建設的な行動だと考えられる。



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