高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

カテゴリ: 物部の学校

歴史(物部村の資料より)
昭和34年8月 開設
従来明改小学校に通学していたが遠距離(7キロ)、難路のため不就学児が多く、その対策に困難していたところ、昭和33年地域に営林署の事業所が開設されることになり、急遽分校を設置。
昭和44年4月 大栃小学校に統合
ピーク時 児童数 昭和39年22名

またここは大栃中学校中津尾分校でもあった。
卒業生数小学校(21名)中学校(17名)との事だから、上記のピーク時生徒数はこの38名が在籍いしていた9年間のピークの事になるのだろう。

場所はここ!!!

まず、前回の明改小学校跡地をさらに進む(29号を)
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そして一旦 栃本橋を渡り香南市へ入る!!!
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舞川キャンプ場を過ぎると、なにやらこんな場所に立体交差のような(後日記載します)交差点があり、貴重な野生動物の住む方向へ!!
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弓木隧道を抜け!!!
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この昭和40年12月に架設された新道橋を左折!!安芸方面から来た場合はこれを渡らずに直進。未舗装の道を進む!
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そしてすぐに既に崩壊している家屋が見えてきて
中津尾橋を渡る!!
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するとすぐ右手にある建物が分校跡だ!!

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学校跡地の石碑
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跡地からさらに奥の写真!!!
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跡地から中津尾橋方面
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住宅地図では、一応ここは集落として掲載されているが、実際はもう誰も住んでいない無人の廃墟になっている。そしてこの先の道をさらに進み山を越えると、前記の上岡地区のあの、赤い橋のある場所に辿り着く!!!

学校があった期間わずか10年、そして開設され5年後に児童数ピークを迎え、その5年後に廃校とは、ここも大きな時代の流を感じる!!!
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記念碑が建てられた後の中津尾分校
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在りし日の中津尾分校!!!!!(物部の役所の資料より)
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ダム湖に進入する旧道
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越知町 桐見ダム

歴史
明治10年 大古畑に大古畑小学校を開設
明治22年 尋常小学校明改分教場
明治34年 明改尋常小学校
昭和3年  明改に移転
昭和19年 槇山第五国民学校
昭和22年 明改小学校
昭和49年 大栃小学校明改分校となる
昭和52年 本校に統合
ピーク時 児童数 昭和34年61名

場所はここ!!
廃校から40年以上たっても、この名前というのが素晴らしい!!!
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今は民家になっており、当時の面影はこの石垣ぐらい!!
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庭先に石碑が!家の方に挨拶をし、許可をもらい撮影。
この山の上に寺子屋があり、それが一段下におり、さらに一段下におり、小学校が出来たという話も聞いた。学校のが移転してここに来たという話とは異なるが、それはそれで、そういう事があったのだろう。
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この坂を登ったすこし先の林の中に寺子屋があったとか!!
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在りし日の明改小学校
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このバス停の名前はまだまだ続いて欲しいものだ。

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場所はここ!!

歴史
明治11年 庄谷相午王林に庄谷相小学校として開設
明治22年 拓仁井田に移転、拓尋常小学校と改称
明治34年 槇山第二尋常小学校
昭和16年 第二国民学校
昭和22年 拓小学校
昭和40年 大栃小学校に統合
ピーク時 児童数 昭和30年18名

香北の府内小学校跡地の横、白石橋の手前を入る!
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これを左に。どうやらここは「塩の道」が通ってるらしい!
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 登っていいくと、猪がいた。そんな場所。
そして植林の伐採が。このパターンは、新しい樹木を植えるのか!!!
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地元の方の話では、峠になっていて、案内板もあるとの事で到着!!
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イメージ 5当時の面影は石垣ぐらいしかない。
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学校の石碑
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昭和20年台の小学校の様子
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場所はここ!!大栃から徳島方面に走り須賀井トンネルを抜け、左手の集落にある。

歴史
岡ノ内小学校
明治11年 奈路に簡易小学校として開設
明治24年 岡ノ内尋常小学校・土居に移転
大正14年 高等小学校併設
昭和9年  実業公民学校併設
昭和16年 槇山第三国民学校
昭和22年 岡ノ内小学校
昭和43年 校舎全面改装
平成4年4月 大栃小学校に統合
ピーク時児童数 昭和32年197名

岡ノ内中学校
昭和22年 岡ノ内小学校の一部を借用し、槇山中学校岡ノ内分校として開設
昭和25年 校舎を新築し岡ノ内中学校となる
平成2年4月 大栃中学校に統合
ピーク時生徒数 昭和37年96名

現存する中学校校舎。昭和25年に建てられたそうだ。題名を忘れたが、映画にも出てるそうだ。そして俺は昭和24年生まれで、こいつの一つ先輩なんだぜ!と地元の方が言われてた!!!
イメージ 10平成26年、小学校、体育館、プールは取り壊され、現在ヘリポートになっている。
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校舎のさらに奥には藁ぶき屋根の大先輩が!!!
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壊される前の小学校(昭和43年築)
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1960年(昭和30年)頃の運動会
昭和25年に新築した中学校校舎と昭和43年に全面改築される前の小学校校舎
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校庭の石碑
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こちらの日付は平成8年3月吉日
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本当に格子窓は絵になる!!!!
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学校前の岡ノ内郵便局
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すぐ近くのタバコの自販機、年代物のタバコが売り切れ状態で電源は入りっぱなし!
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集落の上から学校跡地を
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美良布を過ぎてからここまで、一軒のコンビニも無い!!

林業が盛んな頃、ここは軽く200名を超える生徒で賑わっていた!!

・そして10月2日に再訪し到着出来ました。詳しくは10月3日の投稿で!!

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河口小学校上岡分校、そこは発電所の奥の集落の宇筒舞集落か川ノ瀬周辺の分校だと思っていた。しかし地元の方に話を聞くと、「この道の先の旧アマゴの養殖場から未舗装の道があり、そこから少し走った左手に人が渡れる程度の赤い鉄の橋がある、そこの山道を30分程登った所」との事。なるほど先日、拓小学校跡地を教えてもらった、あの元物部役所職員の方の話と同じだ。
そしてその場所は、昔、平地の少ない物部で、山の中腹にある比較的なだらかな土地が広がる上岡地区が注目され昭和22年頃から入植者が入り、昭和36年に解散していった場所だとの事。
また、その後昭和38年頃から昭和45年に掛けて牧場があり、大栃高校の生徒が夏休みに、草刈り等、その他、分校に宿泊し体験学習をした場所だとの事。
高校生が二人一組で牛を上まで上げる事等もしていたそうで。
また水事情が悪く、水汲み場も遠かったとの事。
また前記の岡ノ内小学校桑ノ川分校へ分校の生徒が遠足で行っていた話などを聞かせてもらった。
(とりあえず、忘れないうちに走り書きで!!!)
また、別の元職員でこれもまた何度もそこから牛を上岡の牧場へ上げた事のある人の話も聞かせてもらった。今回は到達出来なかったが、また態勢を立て直し行ってみる予定だ。
ただ、ここに関しては下手すれば遭難してしまう可能性がある場所で、もっと地元の方から情報をもらい、森林組合の方にも話を聞いて、万全の態勢で行くつもりだ。
今日、その地元の方に、「この人に聞いてみたら確実と」名前も教えてもらった。

そして場所はここ。この等高線が険しい山腹に、比較的なだらかな場所がある事を示している。この場所に、昔、山だらけの物部で一時平地として注目され入植者が入っていったのだ。



とりあえず今日はこの195号線から「河口橋」を渡り
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地元の方に話を聞き、その先のアマゴ養殖場の先の赤い鉄の橋を目指す

アマゴ養殖場 しかし綺麗な場所だ!!

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そしてここから先は未舗装
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一度通り過ぎてしまったが、、、これだ
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この時点で、今回は今までの廃校巡りとは訳が違うと悟る
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橋を渡り切る、いずれ崩壊する運命が見えてる橋だ
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そしてここから30分、、、道があればの話だが
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しかし、やはり土砂崩れで道が崩壊していた
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このままではヤバい。しかしここですぐに引き返す訳にもいかない。(もし到達出来なくても、次に繋がらないから)時間は2時30分、30分限定で行動してみる事にする。下手すれば遭難する可能性さえある。
そこに目印を付ながら、斜面を出来るだけ直線に登る事にする。
そしてやっと、土砂崩れの場所を過ぎ、山道発見!!
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しかしこの山道、単なる横道で上に登る事が出来ない
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そしてここを起点に行動するが、一向に上に続く道が無い。
30分はとっくに過ぎている。
そして、断念!!
自分で付けた目印を頼りに下るが、結局、偶然見つけた自分の足跡に助けられ無事あの赤い鉄の橋に辿り着く事ができた。
基本、この跡地巡りは全て自力でいきたいとこだったのだが、これは下手すると遭難する可能性がある。その地名も忘れ去られようとしている場所の土砂崩れの斜面をこれだけ登って、無事元の場所に辿り着けた事は幸運だったと感じる。

あとで等高線で見たが、この道も無い斜面を、行った事の無い人間が一人で450m
も登って、そして元の場所に戻ってくるというのは、さすがに駄目だろ!!
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引き返す事に
そしてすこし戻って、そこの集落の人に(人に合える事自体が凄い場所です)、その集落の先の道の終点の先の橋から1時間程で行けるルートもある、との事。
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しかしそれは昔の話で、いまは道があるかどうかはわからないとの事。
でも、機会があれば行ってみる価値はありそうだ!!
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そして2014年12月に行かれた方の記事を発見!

以下、抜粋!!
あの山の上に本当にこんな集落跡地があるらしい!!


平坦地
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集落内を横断する道
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石垣
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学校の記念碑の日付は、例によって昭和57年8月吉日だろう。
明日は森林組合に問い合わせてみる予定。

・で、早速問い合わせてみた!!!
とにかく上にいけばいいとのこと。
道が無くなっていても、とにかく上にいけばいいとのこと。
その上にいけば、あるからとのこと。
昨日は初めてで、初めての場所で、やばいと思っていたのだが、何回も何回も登った事のある人がそう言ってるんだから、そうだろう。
また、近々行ってみる。
時期をずらして、葉が落ち、地形が分かりやすい時にいけばいい、と昨日の地元の方の話も思い出した。

場所はここ!!河口小学校を過ぎ、岡ノ内地区を抜け、右手に緑色の橋が見えてくる!

歴史
明治34年 家庭教育場として日浦に開設
      (石碑には明治35年12月1日旧第四尋常小学校とかいてある)
大正10年 河口小学校桑ノ川分校
昭和22年 岡ノ内小学校桑ノ川分校
昭和30年 中平に移転
(旧槇山村立から合併で物部村立となる)
昭和43年 岡ノ内小学校に統合
(そしてその岡ノ内小学校も平成4年に大栃小学校に統合)

標識もあるのでわかりやすい。
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橋を渡り右折しこの採石場跡地??を抜けていく。
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石垣があったり、巨大な岩を刳り貫いて道を作っていたり。
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到着、この公会堂の手前を右折し橋を渡る!
イメージ 4分からないの地の人に話を聞く事にするが、その地元の人がいない。
やっと、いた、その先の坂を上がった先のクヌギの林の中との事!
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この坂を上がり
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その先の
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この小道を抜け。(その屋根の下を通ります)
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ここが跡地
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石碑もある
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この石垣の上のクヌギの林の中が跡地
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対岸から!!
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1965年頃の桑ノ川分校
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こんな場所があり、人が住んでいて、そして私が生まれる前に小学校があり子供達の歓声で溢れていたとは。
時代の流れというのは凄いものだ!!!


そしてこの場所は、河口小学校上岡分校の児童達が、遠足で訪れていた場所でもある、という話を地元の方に教えていただいた!!

場所はここ!!

歴史
明治11年 仙頭簡易小学校
明治31年 仙頭尋常小学校
大正10年 河口尋常小学校
昭和16年 第四国民学校
昭和22年 河口小学校
昭和38年 台風9号のため校舎使用不能
昭和39年 大栃小学校内に校舎新築
昭和40年 3月31日大栃小学校に統合
(ピーク時児童数、昭和33年131名)

大栃から195号を徳島方面へすぐ、佐岡トンネルを抜け、すぐに右下に下っていく。
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橋を渡ってすぐ、といか、その樹木の生い茂った小高い丘の上が跡地。
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到着
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石碑も発見!!
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もうここが小学校跡地を思わせる面影はない!!
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しかし、この瓦は!校舎の瓦だろうか!!!
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在りし日の河口小学校!!!
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場所はここ!!

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歴史
(上韮生村立から1956年(昭和31年)の合併で物部村立となる。

明治17年 笹簡易小学校として開設
明治22年 五王堂簡易小学校笹分教場
明治27年 笹尋常小学校
昭和16年 笹国民学校
昭和22年 笹小学校
昭和45年四月 大栃小学校に統合
(ピーク時児童数、昭和34年 50名)

大栃から49号を直進、安丸も越え五王堂を左に行く。
実は前回行ってみたが辿り着けず、またこの看板の意味も分からなかったが、知る人ぞ知る笹温泉が2009年2月で休業になったとの事。
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休業になった笹温泉
イメージ 2前回はこの直売所周辺かと思っていたが、それらしきものもなく、地元の人に話を聞く事も出来ず日も暮れ、その日は帰る事に。
そして今回は地元の人に話を聞く事が出来た。さらにこの上を3キロ程登り「あの建物みたいな公会堂のすぐ右上を登る。白いガードレールも見える」と教えてもらった。
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前回引き返した場所。昭和40年12月架設の、いちのせはし。
この時は、もうさすがにこの上には無いだろうと、思っていた。
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そして下には、先代の橋の橋桁が。その当時の道路事情が伺える。
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言われてたとおりの公会堂が。
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しかも左側には綺麗な公園が。そして登り口はその右側だろう!
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登っていく。
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到着!!!!!
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石碑もある。
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こちらも昭和57年8月吉日
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この石垣の上に学校があったのだ!
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そう遠くない少し昔の姿!!
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在りし日の笹小学校(物部村史より)・平成31年1月7日追記
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基礎の鉄筋
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ここで運動会もやったと、あの地元の方も話ていた。
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イメージ 22正面玄関石段の上より
本当に綺麗な、美し場所だった!!!
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帰りに教えてくれた地元の方に挨拶をして帰った。
来年の夏は、別の意味で再訪したいものだ!!

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航空写真で見る在りし日の笹小学校
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昭和50年前後(笹小学校の廃校は昭和45年)の航空写真
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そして現在の航空写真でも跡地ははっきりと確認でき、周辺にもいくつかの民家の影も確認出来、廃校から半世紀経とうとする現在でも、当時の学校がった頃の情景を偲ばせる。
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ここには明治、大正の面影を残したままの「昭和」がそっくりそのまま平成の影響を受ける事なく、存在しているかもしれない。


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平成30年6月2日追記

笹の神社

「普賢堂」
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明賀の地区はもう民家も無人になっているが、周辺は人の姿もちらほら。

笹小学校の奥の道路の復旧工事等もされている。


場所はここ!!

歴史
明治10年 安丸簡易小学校開設(石碑には私立小学校と書いてある)
明治27年 安丸尋常小学校
明治36年 五王堂尋常小学校安丸分教場
明治44年 安丸尋常小学校
昭和16年 安丸国民学校
昭和22年 安丸小学校
昭和39年4月 大栃小学校に統合(石碑には3月31日とある)

大栃から49号を進むと安丸簡易郵便局がある。その先を左下に降りていく。
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そして安丸橋を渡る
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渡ると右側に明治15年の石碑が。こちらに来た事の挨拶をしていった。
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樹木が生い茂り、集落が見えないが、大きく右回りの道をいくと、集落らしきものがある。そこで場所を聞く。下調べで、ここだと推測して行っていた場所で正解だった。また、その方はここに来てそろそろ5年目の方だそうで、その事には少し驚いた。
この道を左に入っていく。
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そしてすぐ、左下に下る。
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跡地は民間の方に払い下げされており、地主に挨拶をして撮影の許可をもらう。
学校の面影は石垣と、この水槽だけだとのこと!
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跡地はゆず畑になっており、その中に学校跡地の石碑があるとの事で探してみる。
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発見!!
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ここは、いくら時代が時代でも、大栃中心部から比較的近い距離にあり、教員社宅は必要なかったのでは(別に調べてませんが)、と推測します。

ここの学校の児童数ピークは昭和30年の98名だったそうです。
開設が明治10年、そしてピークが昭和30年、そしてその9年後に閉校とは、時代の大きな流れを感じます。

そして現在は樹木が生い茂り、この場所の全景を写すのは出来ませんが、当時はこんな風景だったそうです。
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場所はここ!!
前回の五王堂小学校のさらに奥にもっと大きい小学校があったと言ってましたが、それがここです。まあ、ピーク時五王堂126名、久保131名とわずかですが、大きいです。
歴史


明治6年  簡易小学校開設
      八名小学校と呼称
明治27年 久保尋常小学校
昭和16年 久保国民学校
昭和22年 久保小学校
上韮生村立久保小学校→合併で物部村立となる

(2015,9.26日の補足)

・1956年(昭和31年)槇山村と上韮生村が合併して、物部村が誕生した。
また、2015年9月26日、拓小学校跡地を検索中に、道を教えていただいた、物部 庄谷相の方に、久保地区では小規模ながらマンガンの採掘もあったとの話を聞いた。また、実はいままでいろいろと地元の方に話を聞くうちに、河口小学校上岡分校跡地は、さすがに地元の森林組合の人に案内してもらわないと無理じゃないか!!という話もあり諦めかけていたが、その方の話しでなんだか行けそうな気がしてきた。
その分校では、夏休みに大栃高校の学生達が泊りがけで草刈りの体験学習をしていた事もあったそうだ。また、その上岡地区では昭和38,9年から昭和45年にかけて牧場があった話も聞いてしまった。もうこれは絶対に行くしかない。
そして、見つけれなかったときは、またあの方に話を再度聞く事にしよう。

昭和55年(1980年)大栃小学校に統合

そしてその五王堂小学校跡地をさらに奥に進む。左手みヘリポートがあり、これまで跡地がヘリポートになったという前例が多くあったので、え?もしかして?と思うが、さらにさらに進む!!

そして久保の集落を少し抜け、到着!!!
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 校門左側が物部村立久保小学校の表札
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そして右側が、それ以前のの上韮生村立の表札
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全景
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こちらが閉校直後の全景、ほとんど変わっていない。
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当時はこの畑の角まで校舎があったと地元の方が言われてた。なるほど、閉校直後の写真を見ても奥まで校舎がある。また、その横に渡り廊下もあったそうだ!
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最初見たときは風化で傷み補修したのだと思っていたが、そういう事だったのか。
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北側から、屋根も傷んでいるが、補修もされている。
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校庭にはトイレがあり
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ベンチがあり、地元のかたが利用されてるそうだ。そして校舎の中は、まだそのまま保存されてるとの事!!
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試合なんかも!!
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中には入れないが、窓から見ると、当時のままだ!!
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こっちはさすがにかなり傷んでいる。昭和8年です!
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これは給食室
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こちらは教員宿舎、やはり当時はなかなか通勤というのも厳しい教員もいたのだろう。二室ある。
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南側から!
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閉校後の写真からも分かるようにこの学校にはプールがあった。
前の上韮生川でも十分泳げた事だろうが!!
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校庭の石碑、オブジェ
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やはり、昔の学校跡地には教員宿舎がある。
特にそれは小学校では顕著な事だと思う。
まあ、考えてみれば当然の事。
そういう時代だったんだ!!

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