高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

カテゴリ: 物部の学校




現在は香美市となっている旧物部村には、かつて12校の小学校と3校の分校、5校の中学校と2校の分校、そして高等学校が一校あった。

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●物部村の学校跡地まとめ


そして現在は大栃小学校、大栃中学校のみ

昭和37年5月1日の時点で1,180名いた児童も、現在は大栃小学校1校のみの49名と、当時の1/24以下になっている
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(物部村史より)



また当時は戦後の開拓地として、光石、上岡があり上岡には河口小学校の分校まであり、一時は「高知県に上岡開拓地あり」と県が自慢する時期があった程だ。

しかしそれも長くは続かず昭和36年の末には全員が下山する事となり分校も閉校、

その後開拓地跡は放牧場となるが、現在は既に植林の中に埋もれている。

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物部村史に「上岡」の簡単な歴史が書かれている


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そして河口小学校上岡分校は昭和23年5月1日、男子3名女子4名でスタートし昭和37年1月10日に閉校となる。

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また当時の高知新聞から今はもう植林の中に埋もれ車道の接続はおろか徒歩で到達するのも困難なあの場所にあった当時の人々の生活を少しだけ垣間見る事が出来る。

・高知新聞 昭和32年3月11日
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分校(児童数8名)に匿名で十数冊の本や雑誌が送られてきたそうだ



・高知新聞 昭和32年9月17日
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今度は明治小学校(土佐山田)の児童から本や雑誌が送られてきたそうだ
(香我美町の舞川小中学校、撫川分校、夜須の仲木屋分校、物部の笹小学校、計5校へ)


・高知新聞 昭和34年7月12日
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昭和21年に22戸の入植者が入る。一時は高知県一と呼ばれた上岡開拓地であった。


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あの場所にこの様な光景があったとは・・・・(訪問者語る)



・高知新聞 昭和34年7月13日
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この二日間で上岡特集が組まれている。

上岡には小学校の分校はあったが、卒業すると中学校は片道16㌔、軽く3時間はかかる大栃まで歩いて行く必要があり義務教育である中学校を卒業したのはその時点で一人だけだったそうだ。



・高知新聞 昭和36年3月26日
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安芸の老人にシャクナゲの杖と上岡リンゴをプレゼント
あの場所でリンゴが栽培されていたのだ!!

しかし上岡はこの年の末に全員が下山する事となる




・高知新聞 昭和38年3月2日
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その後、山火事があったそうだ


・昭和40年8月31日  上岡放牧場
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・高知新聞 昭和45年4月6日
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しかし経営状態はあまり芳しくなかった

また放牧場に牛を上げるのに地元の高校生が手伝ったり、夏休みは畜産の体験学習合宿もあったりしたそうだ

そして時期ははっきと分からないが桑ノ川方面からの林道が接続され上岡地区の軽トラが乗り入れるようにもなったが、その後の事はよく分からない。

ただ一つはっきりと言えそうな事は、現在、上岡分校跡地に設置されている跡地の石碑は教育委員会が桑ノ川からの林道で車に乗って運んできて設置したもの・・・だろう、という事である。




こう見ると上岡開拓地の歴史は(その他の開拓地の歴史も含め)戦後の食糧難の時代に新天地を求めて入植した者達が結局目的を果たせず夢を断念し山を降りたというネガティブな歴史と受け止めがちであるが、私はそうは思わない!!!

確かに戦争が終わり、入植者たちは新天地で自分達の食料を生産しその余剰分を確保し、それを生活の余裕にあてる、言わば今まで通りの生活が再び始まる・・・



筈だった!!!


しかし時代は、日本の状況は、非常に良い意味で急変、激変していく事となる。

世界征服を企んだ悪い侵略戦争を始め、そして負けた悪い国『日本』は(笑)昭和39年に「平和の祭典・オリンピック」をアジアで最初に、しかも戦勝国の大将であるアメリカより先に開催する事となる。

4年に一度のオリンピックであるから開催国はその前の前のオリンピック、つまり昭和30年代前半には決定され、それに伴い日本の復興は加速度を増し成長していく事となる。

オリンピック会場の建設、新幹線や高速道路の建設、原子力発電所の建設、黒部ダムを始めとする各地でのダム、水力発電所の建設等々、日本のあるゆる場所で戦前の日本の以上の目覚ましい復旧、復興、回復が始まり多くの日本人が耕作地を離れ建築、建設現場で働くようになった。

また戦前の連合国の経済封鎖は解かれ、大東亜戦争の結果として白人の植民地であったアジア一帯には多くの独立国が誕生し、植民地支配により白人に搾取されていた物資、生産物、食料は日本に輸入されるようになり、その後日本は世界第二位の経済大国にまで上り詰める事となった。


それを考えると、戦後の食糧難の時代に新天地を開拓し新しい場所で新しい生活を築き上げようとした上岡を含む各地での開拓団の歴史は、大東亜戦争の結果として訪れる新しい時代が日本各地に浸透するまでの十数年の間、とりあえず開拓地での苦労は感じながらも、結局は日本人として日本の復興、復旧を目の当たりにしながら、そして確かに日本人である自分自身にも確実に近づいている新しい時代、生活が到来するまでの駆け足で走りぬけた未来を見据えた希望に満ちた時代でさえあったのではないかと思う。

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そしてまた、人々は日本の事を「敗戦国」と呼び、アメリカを筆頭とする連合国、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、その他を「戦勝国」と呼ぶが、その戦勝国の国々は一体その後どうなったのだろうか。

アメリカは植民地であったフィリピンを失い戦前は日本の10倍程あった経済規模が一気にその差を詰められる事となり、現在は日本が債権国でアメリカは債務国となっている。

イギリス、オランダ、フランスはそれぞれ、インド、インドネシア、ベトナムの植民地を失い戦前の世界の大国からヨーロッパの一国にまで転落してしまっている。

第二次世界大戦の日本の戦争を大東亜戦争と呼ぶが、昭和20年8月14日、日本は確かに「ポツダム宣言」を受け入れ同年9月2日降伏文書に調印し戦闘における負けを認めた。


では勝った「戦勝国」側である連合国は一体何をしたかったのだ???



大東亜戦争の日本の開戦目的は
「日本の自存自衛とアジアの安定」である

一方の宣戦布告を受けたアメリカの開戦目的は
「極東における脅威の排除」ぐらいのものである












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地図には記載されていないが

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鴨ヶ峯の時に見つけた
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沢沿いの道から入る

沖の谷橋
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昭和46年3月

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ただこれ以前には林用軌道の橋が架かっていたはずだ

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でも、この道は直接「沖の谷」に繋がる道ではなかった
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電力会社の施設管理用の道だった


川沿いを歩く快適な道

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川を渡る

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川沿い東に記載されている民家を目指すが、実は地図を確認せずに来たため少し見当違いの方向に進んでしまう


鹿の骨がある
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もしかしてネットに角が絡んでしまった事が原因だったのか・・・
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このまま通り過ぎる訳にもいかず、外してきた
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少し見当違いの場所を歩いた訳だが、それはここに来て、この鹿の角をネットから外す為だったのかもしれない


少し引き返し電力会社の水力発電施設付近
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地図を確認せずに来てしまったが、この付近に「沖ノ谷」がある事は分かっている

上部の集落跡から落ちてきたであろう「陶器の破片」「ガラス」の破片がほんの少しだが確認出来る、この付近から直上する事にしよう!!
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全く道がない

それもそのはず、

もともと道の無かった斜面を登っていた

が、索道のワイヤーを発見

この尾根を登れば索道の終点に着けるはずだ
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索道の終点に到着
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民家、、
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ではなく、索道の動力施設
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索道の鉄塔
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アンカーがそのまま引っこ抜かれてている
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この規模のアンカーの土台は最低でもこれくらいの大きさという事が勉強になった

民家跡が見える
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民家跡、、、、とはいえ、そこに人の姿があっても不思議ではない雰囲気は残っている
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植林の奥には段々畑の石垣が見える
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小屋
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索道で上げれてきた「飲料水」
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民家跡
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ベッドの骨組み

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勉強机の椅子
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つまり別役小学校に通う児童の勉強机の椅子という事になる


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杉熊、成山の民家跡が約10年程昔の姿

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鴨ヶ峯よりも少し古い感じだ

ぶら下がっているのは「チリ紙」

「チリシ」と呼ぶ

平成生れの日本人には馴染みの無い言葉だと思うが・・

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冷蔵庫

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軒先

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この家にも別役小学校の担任の先生が「家庭訪問」に来たはずだ

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そしてその先生は、現在のこの写真からイメージしてしまうような「こんな山奥の田舎に・・」と思っただろうか・・

いやいや、実はその真逆で、ここの庭先に建てば眼下に195号線の赤い橋が見える。

つまり、その奥の土居の地域も遥か遠くに見渡せる「絶景」の場所だったのだ。



前はお風呂と便所
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この民家の一段上にも民家跡がある

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ここの家の方も山を降り、遂には先程の民家が最後の一軒になってしまった
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洗濯機

この型は、昭和40年以前の型だ

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昔は脱水時間も自分でセットしていた

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ぼやけているが型番は「N-435]自動〇〇、(脱水、だったかな??)
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炊事場周り
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全景
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この家には耕作地の間のなだらかな坂を上がり、この石の階段を上がる。
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鴨ヶ峯に接続する道を探す
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その道上にある建築物は
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木材を切断する作業小屋だった
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その先の鴨ヶ峯に向かう道を進むが、植林地帯が切れ藪化した地域に突入、断念し引き返す



集落跡には「最近」の「焚火」の跡があった。
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「沖の谷」には「昭和」を越えて「平成」の時代まで人の生活があったのではと推測できる。


そしてそれでも今日もまだ、バスは「沖の谷」前を通る
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沖の谷から見えていた「195号線」の赤い橋の上から「沖ノ谷」
(右上の真ん中付近、山の中腹が「沖ノ谷」)
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ほんの半世紀程前まで、この付近には林用軌道が運用されていて、その後は道路の無かった地域に巨大な道と橋とトンネルが建設され、沖ノ谷の集落からは、眼下に走る195号線の自動車、そしてそのさらに奥の土居の集落まで、周囲が見渡せ、夜になると、道路を走る車のライト、周辺集落の民家の灯りに囲まれた、800年程前、平家の人々がこの地に訪れた時には想像もつかなかった近代的な風景が広がっていた。

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そしてその新しい景色は、新しい時代の幕開けを意味するものであったのは確かな事ではあるが、この周辺集落にとっては800年に渡る長い歴史の最後を飾る、今まで想像した事もなかった幻想的な風景だったかもしれない。


源平合戦から800年、そしてその影響を受けて誕生した物部の集落の800年後の姿。

でも単に源平合戦と言っても、当時の日本の二大勢力の源氏と平家が決着を着けたという、ただそれだけの単純な話ではなく、源氏(ナショナリスト)と平家(グローバリスト)が戦って源氏が勝利し、ナショナリストの国家体制になった訳で、もし、あの戦いで平家が勝利していれば、日本がグローバリストの国となり、現在の日本とは全く違った国になっていたかもしれないという、重大な転換期でもあった。


それを考えると、現在の日本があの源平合戦から800年後の、あるべき国の姿として相応しいものであるかどうか真剣に考えなくていはいけないのである。



195号線沿いにある「成山」停留所
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一日上下4本、合計8本のバスが通っている。

ネット上にある地図だけを見れば、ここから車で進める道が繋がり、その先には昔ながらの風景が広がっていて、誰かの帰省する「ふるさと」の姿があると想像してしまうだろう。
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地理院地図「大栃」+「北川」・昭和22年
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確かに、そう遠くない「現代」の時代に物部には森林軌道が走り林業の全盛期を迎え、この成山周辺には別府小中学校、別役小中学校、岡ノ内小中学校、岡ノ内小学校桑ノ川分校、があり、195号線が完成した現在よりも、多くの人々と活気で溢れていた。


そして現在も数軒の民家の表記があるその「成山」に向かうが、その破線の道は、生活道ではなく、林業時代の木材運搬用の道であった。
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「森の轍」にもこの道は「軌道跡」との記載がないし、実際、軌道跡にも見えなくもないこの道ではあるが、実際にレールや枕木等の当時の遺構の残る本当の軌道跡を歩いた事のある者にとっては、その「趣き」だけでこれが「軌道跡」ではない事が分かる。


林業関係者によって掛け直された橋も耐久性の限界に近づいている。
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橋はあくまでも平成30年6月の状態
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しばらく歩いたが道は川沿いをほぼ平坦に進むだけで、「成山」に向かう道がない。


もうさすがにこの辺りで高度を上げなくてはいけないと推測される場所でなんとか杣道を発見。

が、怪しい。

仮に道があるとすれば、仮に道があるとすれば、と判断できそうな線を進み、成山に向かう等高線を緩やかに登る横道に着き当たる事を期待しながら進むと。

        え・・・・・・????

もしかして「到着」!!!!!
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耕作地が広がり、民家跡がある
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ここが「成山」に違いない!!
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オーバーハングさせた基礎の場所は
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電柱がある
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成山である。
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よし、到着、確認!!
と納得すると同時に、成山に向かいながらも、実は「もう地図にも記載されていない存在である未知の集落跡に到着」というシュールな展開にならなかった事を少しだけ残念がったりもするのである。

オーバーハングさせた基礎の部分は台所のようだ。
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おそらく10軒ほどの民家があっと推測できる
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集落の祠
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杉熊と同じ香りのする集落だ
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塩ビの排水管が埋設されていて、どうやら集落末期は、生活排水を全て肥溜めに流し込み、「肥料」として使用するスタイルから離れていたようだ。

しかしそれはこの大自然の中の集落で設備の近代化を望んだ結果というよりかは、労働力の高齢化に対応した、させた結果、という事だろう。
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この民家が成山に最後まで住まれたいた方の家だろう。
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手洗いの水栓に対応できる程の水圧も確保出来ていたようだ。
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軒先
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トタン屋根には木材用のコールタールを塗り耐久性を高め、樋に使用している竹樋に、トタンに硬化、付着出来ずに流れ落ちたコールタールが固まっている。

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昭和69年
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5軒目の民家跡
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軒先
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洗濯機
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渦潮
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二層式洗濯機のコントロールパネル
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このコントロールパネルにも、その洗濯をする者独特の「こだわり」というものがあった。

現在の「全自動洗濯機」の時代の日本人には分からないだろうが!!



薪があり
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当然その隣は
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お風呂
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この中にある金属製の風呂釜が建物の風化により、この付近に剥き出しの散乱した状態になるまで、一体どれだけの年月がかかるのだろうか!
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人々の姿があった頃の風景を知りたい
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源平合戦の後、平家が物部に入り、杉熊にも人々が住むようになったのは江戸時代に入った頃らしい。
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それを考えると、ここは杉熊より少し歴史の長い場所かもしれない


この道が本来の道のようだ
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その先にも民家跡
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成山の住居区域を離脱する
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昔ながらの「道」
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植林の中にかつての「道」は健在
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電柱の数字は、先程の46番から1つづづ数を減らしながら設置されている
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成山のバス停の先の成山入り口から46本の電柱で繋がっているようだ
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道はこのままゆっくりと降下し、電柱の番号数を減らしながら成山の入り口に繋がっているようだが、その先は崩壊している個所も多く、使わられなくなった久しい道であるようだ。

自分は途中にある分岐を降下し、先程の道に合流した。
またこっちの道が成山の人々が最後まで使用していた道のようだ。

その成山への登り口は、この切り通しを抜けたすぐ先に進行方向に鋭角に接続されているので、見落としてしまった。
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距離的には、成山への登り口の急な坂道を登り、平坦な場所を12~15分程歩いた場所になる。

また倒木もあり、橋の架けられている沢が3カ所あるので、この先、道の状態を悪くなる一方かもしれない。

で、このような「成山」への経路の事を語ったところで、それを頼りに成山に向かう人等皆無に等しいだろう。

でもそれでもかまわない。

あの「成山」のバス停から少し入った場所に昭和40年代に作られた「成山橋」があり、そこにある急な登り口から平坦な場所になったその場所から、30分程歩いた所に「成山」という集落があり、ほんのこの前まで人々の生活があった事を、その事を知らなかった誰かに伝える事さえ出来れば!!


 
鴨ヶ峯

線別府温泉手前の195号線沿いにある集落
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山道がありその先に民家のある記載があり、現地には鴨ヶ峯、沖ノ谷の集落の人々のためのバス停があり、1日に上下4本ずつ、計8本のバスが運行されている。

【地理院地図「大栃」昭和22年】
鴨ヶ峯の西には別役小中学校がある。
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当時は195号線の面影すら無く、人々は山々を歩いて集落が繋がっていた。

と言いつつ、実は物部川沿いにある「線」はその後の195号線の前身となる「大栃林用軌道」で、「大栃」を中心とするこの地域は林業の全盛期で、源平合戦以降、平家が築き上げてきた物部は、かつてない程の繁栄を見せていた。

そしてそこから70年、195号線が開発され、等高線に従順に走っていた道も「トンネル」の開発により更にに距離と時間を縮め、便利な場所になった筈であったが、そのかつてない繁栄ぶりは、実は時代のフィナーレを意味するものであった。


そして現在、ネット上に記載されている「鴨ヶ峯」の「道」も「民家」も、そして発行されている「地図」にある「道」も「地図」も、もはや普通のサラリーマンが制服を着て行けるような場所ではなく、もう確認しようがない場所なので、当時のまま放置され、その「表記」だけが継続されている「だけ」の状態なのである。

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木床第二トンネル西からの道も、橋と袂からの道も道路工事で完全に消滅し、鴨ヶ峯の西から登る道も完全に消滅。

しかし地図に記載のある「ソーコ」の横からなんとかアプローチが掛けれそうだ。

地形的に「道」が作られると「合理的」に考える事の出来る場所を登ると、やがて、道らしき線を進んでいる事が確認出来、勾配が緩やかになり、やっと「道」を歩く事になる。
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「索道」跡もある。どうやら「鴨ヶ峯」の集落に向かっているようだ。


そして「鴨ヶ峯」の到着
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お墓も一緒に移転したみたい。

その上の段も。
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民家跡
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電柱
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「マキヤマ」
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「NTT」もそのまま。
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この付近にも民家があったようだが、その跡は散乱している
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林業関係者の作業小屋だったのかもしてない


これが「鴨ヶ峯」の最後の民家のようだ
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これが昔のトイレ、というか便所というか、「かわや」
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「肥溜め」に落ちたという話は、昔は普通によくあった話だそうだ!!
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洗濯機は三菱の
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「千曲」
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こちらは
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やはり
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「千曲」
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民家
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それでも無人になったのは「平成」の時代に思える
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粘土瓦が落ちている。しかし量が僅かで、木造粘土瓦葺きの建物があったような形跡は、確認できなかった。
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成山への道を確認したかったが、、、、撤退!!!




物部・杉熊に向かう。

【地理院地図「北川」昭和22年】
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室戸の長者野の人々は、吉良川方面から山奥に移り住んだ人々ではなく、物部方面から室戸の沿岸部に向かって生活の拠点を広めていった人々という話を聞き、その理由、背景をこの物部に探しに来た。
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と言っても数百年の歴史の流れの中の話。
具体的な話が具体的に地元に存在しているはずもなかろう。

それどころかもう地元の人に話を伺う事すら困難な状況だ。

そして、土曜日で地元の温泉が若干の賑わいを見せる中、杉熊川沿いを走る(大栃林用軌道杉熊線を転用した)林道からの山道を登る事、しかし最後の住人はかなり前に山を下りてこの隣(別府)に住んでいて5年程前には高知の家族の所に行った、という話を伺った。

更に丁度鉢合わせた郵便屋さんに話を伺い、「小屋がありそこから登っていく、また勿論、郵便物はそこから歩いて届けていた、でも、もうかなり昔の話で、今では小屋があるかどうか、道があるかどうか・・・」との事だった。


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杉熊林道への入り口のある「土佐落合」
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バスは一日上下計8本


また吊り橋を渡った対岸の民家も無人になって久しい
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が、それだけ分かればもう充分である。

南東にある「サイニョウ」の集落との関係を考えれば、杉熊への道は、その川を渡る橋の場所から時間的にも距離的にも一番効率の良い曲線で結ばれる事になる。


実際には「小屋」は数軒あったが、丁度の場所に小屋と登り口があった。

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住人が山を下り10年近い歳月が過ぎ、杣道のようになっている場所もあるが道はしっかりと残っている。

水量の多い沢は、石を積み上げ排水効果を高めた自然と調和する道になっている。
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この道も昔は「冷蔵庫」を運んで通れる程の立派な「道」であった。


断崖の場所には手摺りが取り付けられている
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木製の電柱を切った跡
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金属製の電柱は5本程に分断されていた。
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杉熊の住居地域に到達したようだ。
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沢の水は竹の樋を流れ、そしてその水を柄杓で掬い利用していた。
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杉熊
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民家が見える
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等高線の険しい斜面に一間にも満たない奥行きの耕作地が横長に広がっている
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ここも誰かの「ふるさと」
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もう「帰省」する人はいないのだろうか
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本心を言えば、実はここで杉熊の話を沢山聞きたかった。
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洗濯機
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そしてカレンダーがある
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皇紀2669年
西暦2009年

平成21年11月
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9年前の皇紀2669年、西暦2009年、平成21年の11月

この杉熊に雪の降り始める季節が到来する前に、山を降りたようだ。



お風呂
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その奥にも道は続いている
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冷蔵庫、テレビ等の電化製品が上から落ちてきたようだ


道なりに上に上がる
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民家跡
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更にその上にも
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この急な斜面に存在していた当時の杉熊の美しい集落の姿を彷彿させる
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倒壊したのは最近の事だろう
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と言っても1週間、2週間前という話ではなく
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1ヶ月、2ヶ月前という話でもなく
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トタン屋根は塗り替えで耐久性の確保をしていた
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6軒ほどの民家があったようだ

もしかしてそれよりもう数軒、民家があったという事はあるかもしれないが、だからと言って20軒も30軒もあったという事はない。

何故なら、当時は食料は自分達で生産する事が当たり前で、限られた耕作地面積に対する収穫量に対する養える人口数は決まっていたから。


そして、だからこそ生産拡大の成功が人口増に繋がり、その環境の基で周辺各地に新たな耕作地と生活基盤が開発、構築されて行く事になる。
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釜戸
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民家跡
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手前の「くぼみ」が「肥溜め跡」であり、奥にある石積みが「お風呂」や「釜戸」等の跡である。


これは「お風呂の跡」
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そこから見上げると
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杉熊の先人達のお墓がある
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林業関係者の配慮によるものだろう
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祠があり
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植林で斜面が自然の形に戻ろうとしている中、ここの場所だけ人工的な形を留めている
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「杉熊」は「半田」さん一族の住む集落だった。
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結局、この杉熊について地元の方に直接具体的な話を伺う事は出来なかった。

もう最後の住人の方も既に山を降りたと聞いていたから当然と言えば当然の話である。

それでもここに来て具体的に分かった事は沢山ある。

この「杉熊」は「半田さん」の一族が住んでいた場所であった事。
最後の方が山を降りたのは平成21年11月の雪の降る季節到来前の事。

そしてなにより「杉熊」の方にとってこの場所は、出来れば最後まで住み続けたかった場所であり、現在でも忘れがたき美しき「ふるさと」であるという事。

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現在、山間部の過疎化の進む地域は「交通の不便な場所」と言われているが、それは現代の半世紀程の感覚でそう認識されているだけで、別に昔から「交通の不便な場所」であった訳ではない。

それどころか現代においての都市部との関係は、山道一本と交通機関を乗り継ぎ街と接続されていた時代から、山奥まで車道の開発が進み、車道の拡張、バイパス、トンネルの建設により距離的にも時間的にも大幅に短縮され、昔は日帰りどころか泊りで出掛けていた街への遠出が、自動車を利用すれば数時間で往復が可能となり、更に当時とは比較にならない程の量の生活物資を運ぶ事の可能な時代にまでなっている。

だから過疎化の進む山間部は、確かに都市部周辺と比較すれば交通の不便な場所と言えるが、実は都市部との関係は時間的にも距離的にも大幅に飛躍的に改善された場所になったという表現がより正確な表現になる。

それでも山間部の過疎化の進行は止まる事なく現在においても集落の消滅は日本全国で進行中であるが、それは交通の不便で生活の困難な場所が嫌で人々が出ていく訳ではなく、社会環境の変化に伴い住み慣れた大好きな「ふるさと」を離れざるを得ない状況で仕方なく発生してしまっている現象なのである。

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しかし、では、この「杉熊」に一体いつから人々が住み着くようになったのか?

何故この様な急斜面に民家が点在し、一間にも満たない奥行きの耕作地が等高線のように横長に広がっているか?

元々は誰も住んでいなかった未開の場所に当時の人々が足を踏み入れ、開拓し耕作地を作り、生活の安定に伴い家を建て定住するようになり、やがてここを拠点に更なる周辺への開発が進められた。
またこの場所は、その後いつの間にか具体的な理由を伴って「杉熊」と呼ばれるようにもなる。

そしてその一連の出来事の根本的なきっかけはやはり「源平合戦」で平家の人々が「物部」に生活の拠点を築き始めた事になるだろう。

そしてその成功と繁栄は各地の集落を作り上げるきっかけとなり、やがて室戸の長者野周辺にまで広がっていったという事になる。


そして現在の物部のの過疎化、集落の消滅も、長い歴史の中で言えば、この地域で平家の人々が生活を始め幾多の苦難を乗り越え繁栄を始める以前の800年前の姿に戻るというだけの話。

しかしそれでも現在皇紀2678年6月4日、この日から遡る事僅か8年半、皇紀2669年、平成21年11月まで、この「杉熊」に人々の生活の灯があった事は我々日本人の貴重で大切な歴史なのである。


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現在の別府地区
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平成30年度は29世帯 46人


また、杉熊についてのブログがあったので!!

2軒の家が住み着き、江戸時代には11軒になったそうだ。


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杉熊周辺の住宅地図 

「サイニョウ」と呼ばれている地域も杉熊になるようだ
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また道は集落跡の下から直接登る道もある

郵便屋さんが郵便物を届けに行っていた道はこちらだろう。

自分が歩いて来た道は南下の道の線が切れている道。


戦後、開拓が始まり、昭和37年1月10日小学校廃校、集落も無人になる。
その後昭和40年代後半まで上岡放牧場が存在したが、車道の接続はおろか、現在まともな山道すら存在しない、そんな忘れ去られる寸前の昔の集落。

現状はだいたいこんな感じだ。
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アマゴの養殖場跡
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舗装も切れ、少し走るとカーブミラーがある
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その奥に赤い橋があり、そこから1時間半から2時間半の距離に上岡地区がある。
直上ー横道ー直上なので、かなりキツイ山道だから、かなり到達時間に個人差があると思う。
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途中にある石垣の階段
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この付近から、下の林道と川を確認出来る
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この「山火事防止」の看板を右に、しばらく横道が続く
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そして上に登る道があり、そこから直上のキツイ山道になる
そして、索道跡が見えてくる
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そこに軽トラがある
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ミニキャブワイド55
昭和52年(1977年)以降の車、つまり放牧場が終わった後の作業に使われたものだろう。
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確かに集落跡にはトラックが走れそうな道はあるのだが、では一体どのルートでここまで来たのだろうか?????
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桑ノ川方面から少し大回りをして上岡に繋がる道があったと聞くが、またその他にも上岡に繋がる林道の接続はあったのだろうか??

気になる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
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佐賀野から川の支流の奥からも上岡に繋がる山道はあったと地元の方が言っていた。
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まあ、これは完全な山道だ。
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桑ノ川から進み、橋を渡った所から繋がる山道の先に、トラックが通れそうな道が確認出来れば、それだと思うが・・・・・

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上岡の歴史

物部村史より
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かつてあの場所に人々の生活の灯があったとは
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そして小学校があり、児童達がそこに通学していた時代が存在していたとは。
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今はもう特別な理由がない限り誰も足を踏み入れる事のない、あの山の頂上付近に・・・・・

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そして、四半世紀にも満たない上岡の集落の歴史が閉じた後、昭和40年8月31日に上岡放牧場となる。

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大栃高校

http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34243733.html
神池小学校・神池分校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34243832.html
五王堂小学校・上韮生中学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34243870.html
久保小学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34245914.html
安丸小学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34245957.html
笹小学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34248003.html
河口小学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34248015.html
桑ノ川分校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34248041.html
岡ノ内小中学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34252036.html
拓小学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34252123.html
明改小学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34252167.html
明改小学校中津尾分校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34254645.html
上岡分校①
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34250057.html
上岡分校②
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34260925.html

上岡地区

別役小中学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34254661.html
別府小中学校
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34256682.html



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現状はこんなかんじ。当時の写真があったので出来るだけ近いと思う角度で撮ってみた!
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場所は、やっぱりここ!前回より少し東に修正!!ただ、行くまでが大変!!
もはや小学校跡地への道のりではない!!
本当は、樹木の葉が落ち、地形が分かりすい冬場に行く予定だったが、いろいろと話を聞き、情報収集しているうちに、到着できそうな可能性が一気に高まってきたので、一気に行く事にした。!
その一番の大きな理由がこれ!!

国土地理院 1/50000 「大栃」 明治40年測量同42年度製版
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この時はまだ、宇筒舞の記載しかなく、上岡はおろか、川之瀬の表記すらない。
つまりこの後、川之瀬、上岡という地名が登場してくる訳だ。

そして、同 昭和8年度修正測量版
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ここで初めて「川之瀬」の表記が出てくる。それまでは宇筒舞の奥はだだの場所としての認識しかなかった事と推測する。
そして、ここまでのこの川の下流に対して、この地域が「川之谷」でも「川之淵」でなく「川之瀬」である事から、この周辺に「索道」の始発点がありそうな比較的広い場所があり、また「水が足りない時は、下から徒歩で水を汲み上げていた」という話を聞いた事から、この辺りに上に繋がる道があり、前回断念した場所の付近から、あーやって、こーやって、いけば上に登れるんではないかという大きな確信が出てきたからだ。

イメージ 5その確信をもとににこの橋を渡る。
踏み板がかなり傷んでいる。落ちれば、命の危険が危ない!

という程の高さではない!
とにかく前回と違いアプローチが確保出来ているという事と、時間的な余裕があり、具体的な確信があるので、前回よりかなりテンションが高い!!
前回はまさかこんな場所かと!!何の準備も無く入っていった訳だし。

そして今回はブルーのテープで目印を付ていく事に!
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この他にも、赤、ピンク、黄色のテープがあった!

土砂崩れで崩壊している箇所はそのまま直線に上に登ると山道に出会う!
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この石の階段を登っていく!

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ここに来るまで2回ほど下の登り口の川と道路を確認できる!!
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そして前回はここまで来て、ここを起点に登り口を探したが分からず、時間もやばくなり断念した訳だが、今回は違う!!
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ここから、あーやって、こーいけば登れるんじゃないかと思うままに進む!!
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ここはまだ中間地点でもなかった。ここから40分は登っただろうか??
遂に見えてきた!!!!
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索道の小屋が見える!!予想通りだ!!
いや、しかしそれは予想通りというより、先人達が後に続く者達に対して、いろいろな場面で、そう思い、そう行動出来るようにいろいろと工夫をしているからだと思う!「川之瀬」の瀬の字がヒントになった!!
索道の終点に到着!!
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これに物資を載せていたのか!
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巻き上げ機の小屋
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エンジンはヤンマー
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5ミリオンスペシャル
引き揚げに1時間掛かっていたのは出力が小さかったからだろうか!
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その横に3輪の自動車と
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スーパーカブ70
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ここから左回りにいくと小屋があり
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有刺鉄線の支柱がある。支柱は少し下まで延びていた!!
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そして引き返し、少し登ると三角点が。ここが883.8だ!
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そして下り、トラックが走れる程度の道を進むと
河口小学校上岡分校跡地がある!!!
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到着!!!!!!!!!!!!
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学校の石碑
開校 昭和23年5月1日
閉校 昭和37年1月10日
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これは当時の建物に適度な改修を施したものに見える!
格子窓は小学校時代と同じものに見える!!!
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跡地の上にある水にタンク!
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となりの小屋!!
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まあ早い話が、半世紀以上前にここで明治のアイスクリームが食えたという事だ!!
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小屋にはトイレがあり
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中には

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洗濯機があり
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その奥はお風呂!!
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ちゃんと閉める!!!
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ここで薪で沸かすお風呂は別格だろう!!!
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水槽があり
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石垣があり、昔ここ人が住み、仕事に励み、子供達が学校に通っていた!!
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集落の真ん中を走る道を巻き上げ機の方向に向かう!!
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車がある
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ミニキャブ ワイド55
リアタイヤにはチェーンを巻いていた!!
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そして索道の場所から戻ることに。今回は目印があるから分かりやすい!

そして、この上岡地区、水がネックだったそうだ!!
昨日雨が降ったばかりなのに、沢に水が全く流れていない!!
当時の苦労が分かる気がする!!

戦後の上岡地区開拓の14年間!
その後の上岡放牧場の7年間!!
忘れ去られるには、まだまだ早すぎる!!!

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上岡放牧場が開かれたのは昭和40年8月31日
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開拓地跡に展開した新しく期待された事業だった事だろう!!



同、国土地理院「大栃」 昭和42年測量昭和43年編集
確かに「上岡放牧場」の記載がある。あの有刺鉄線の支柱はもしかして?うーん分からない・・・・・・??
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歴史
別府小学校
明治30年 別府部落私設教授所
明治36年 第三尋常小学校別府分教場
昭和 5年 別府尋常小学校
昭和16年 第七国民学校
昭和22年 別府小学校
平成 8年 休校
ピーク時児童数 昭和37年86名

別府中学校
昭和30年 別府青年団の建物を借用し、岡ノ内中学校別府分校として別府小学校に
      併設、開校
昭和33年 校舎新築
昭和36年 別府中学校として独立
昭和60年 大栃中学校に統合
ピーク時生徒数 昭和32年85名

場所はここ!!!別府峡です!!

美良布からここまで信号は無し!!!
高台の上に見える白い建物が体育館です!
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ガソリンスタンドも大栃からなありません!
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校門へ!!
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学校の様子!!
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校庭の様子!!
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教室の様子!!
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屋外トイレ!
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前が小学校でうしろが中学校かな?
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階段を降りて体育館へ行ってみる。
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体育館の中!!(何故かは入れてしまった!住居侵入罪の場合は潔く出頭します!)
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奥にあるのが校歌!!
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地元の人に話を聞くにも、その地元の人が殆どいない状態だった。
この学校にも昭和32年中学校に85名、小学校に昭和37年86名の生徒がいた。
近くの自販機で冷たいブラックコーヒーを飲み、帰る事に。
次は観光客として来てみたい!!!


歴史
別役小学校
明治28年 尋常小学校として市宇に開設
大正3年  別役に移転
昭和16年 別役国民学校
昭和22年 別役小学校
昭和53年 大栃小学校に統合
ピーク時 児童数 昭和34年112名 (卒業生数1088名)

別役中学校
昭和29年 別役小学校の一部を借りて岡ノ内中学校別役分校として開設
昭和32年 校舎新築
昭和36年 別役中学校として独立
昭和53年 大栃中学校に統合
ピーク時生徒数 昭和38年 55名 (卒業生数 264名)

場所はここ!!岡ノ内地区から195号線を平行して走るように見えるが、等高線から分かるように、全くその遥か上を走っていくことになる。そして小松神社を過ぎた先の道を進んでいくが、その道路を作る為に、土砂捨て場があり、その土砂を捨てる場所として学校跡地を使ったそうだ。しかし、それまでは学校跡地に車道の接続はなく、山道である村道が繋がっていただけ。跡地は埋め立ててしまわれたが、その埋め立てがなければ、その道が存在しなかったという、事になる。

岡ノ内小中学校跡地の前を直進。小松神社も過ぎ、地元の方に話を聞く事に!
そうすると、近くだから案内してくれるとの事。実は前回訪問したものの、場所がわからず、夕方になり、時間切れ、撤退してたのさ!感謝!!
道路の真ん中に鹿の骨が落ちているそんな場所だ。(犬が咥えてきたそうだ)また山道を歩くと、普通に鹿の角も落ちているそうだ!!
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到着!!!この埋め立て地を降りたところに、少しだけ当時の面影が残っているそうだ!!
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目印とするならこれかも!!!
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今年はまだ草を刈ってないとのこと!!冬場にもう一度来て写真を追加したい気がする。
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案内してもらい、この埋め立ての先の角から下に降りると当時も面影が少し残っているとの事!!
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すぐに学校跡地の石碑がある。しかしこの石碑は物部のその他の学校の石碑のように、裏が57年ではない。石碑そのものが違う!
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車道の接続はなく、みんなこの村道を使って通学していたそうで、高低差も激しく、八時の朝礼に遅れる事もあったそうで。て、朝礼は
八時だったんのですか。
そして終戦のあの放送も、集落で唯一ラジオのあるこの学校で、小学校に入りたての時に聞いたそうです。
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付近の状況
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この石垣は当時のもの
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学校があった頃の風景
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廃校後の様子(年代不詳)
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そして

黒板の落書き!!!!!!
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教員宿舎があるとの事で
当時はこんな山奥で車道の接続もなく、校長先生は家族で敷地内の一軒家に住み、教員は4名で教員は宿舎に泊まり込みだったそうだ。そして校長先生はお子さんの中学進学で移動していったとの事。物資は下から索道で引き揚げ、給食は地元からの差し入れも多く、まあとにかく自分の小学生時代とは全く違う世界だ!!
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こちらに二室、そしてもう一軒あったそうだ。
そして中は4畳半プラス玄関程度の広さ!!!
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跡地から近くの集落を!
当時は10数件の民家があり、夜は光ってまるで街のように見えたそうだ!!
そしてここの紅葉は素晴らしとの事。
まあ、観光地の紅葉とは別格だろう!!!!
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この後、別府学校跡地に向かう事を話すと、引き返して195号を走ってもいいし、この先の道が去年別府近くに抜けたから、そっちに行っても大体同じと教えてもらい、改めて感謝の念を伝え直進する事に!!!

昔のバスががあった。大栃ー影
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しばらく進むと、眼下に195号線が
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三椏は500円札とかお札の原料だったとか。
当時の人々は、山を切り開き、そこでその産業が始まり、衰退し、最後は植林して、山を降りたそうだが、いまではその自分の山がどこかもよくわからない人がいるらしい。そして一部伐採していた場所があったが、そこはとにかくお金になればいいとの事で伐採したらしいが、それが30年前の話。すこし樹木が生えてきてるが、山肌が剥き出しの状態であった。

そうそう、当時ここから高知に行くには、泊りがけで(もちろん歩き)で大栃まで行き、そこからバスで2時間かかっていたそうだ。

なるほど、石碑の件はこういう事だったのか!!(以下物部村資料より)
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平成30年6月10日追記

昭和50年の別役小中学校付近の航空写真
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学校は真ん中!!

車道の接続さえないこんな場所に小中学校があった。

今では信じられない事かもしれないが、当時はこれが「当たり前」だった!!

そして生活物資は「索道」!!



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