高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

カテゴリ: 安芸の学校

安芸の学校跡地、伊尾木林用軌道跡の訪問は既に完了し集落跡訪問は影野を残すのみ。
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そして思い立って先日向かったのだが、、、

伊尾木川を渡る影野橋崩壊のため断念。

なんともやり切れない気持ちが続く中、影野周辺の航空写真を見てみる!!


拡大


この様にほんの最近まで影野橋と奥の民家は昭和-平成-令和の時代を跨いで存在していた。


伊尾木川を渡る橋の名前は「影野橋」であるが、川の東が「影野」で西が「日浦」である。
(日浦方面の拡大)


なんと、規模は小さいがまだ建造物が確認できる


作戦決行の決断が下された!!!

そしてもう現在の資料にはその名の無い影野橋を渡った山の上にある「日浦」だが

杉ケ峯ー日浦ー宝蔵峠を越えー中ノ川への道と、その道と集落を繋ぐ道も健在


昭和40年代中盤に作成された地図にある3軒の民家+1軒の計4軒の民家跡が確認できた。

こんな感じ


それにしてもこの影野橋が崩壊するとは・・・
(平成28年11月)

(現在)

(平成28年11月)

(現在)


実は須藤のつり橋を渡って杉ケ峯から日浦に向かう予定だったが、ここで伊尾木川を渡る事にした。
4月下旬とはいえ、伊尾木川の水は冷たいといより「痛い」!!


なんてこった、、、


民家跡、林用軌道跡が完全に流れ去っている


金属製の橋桁がここまで


どうやら最近この伊尾木川を渡ったのは私だけではないようだ。


川沿いは大変な状態だったが道は普通に現存している


炭焼きの窯跡

が、日浦の集落跡周辺には炭焼きの窯跡は確認できなかった。

お鍋が落ちている。集落はすぐそこだ。


40分程登っただろうか。到着。


もしかして香水の瓶??


別役中学校野球部!!


サンダルが落ちている

もう地図からその地名さえ消えたこの山の中の集落跡にもサンダルを履く生活のある時代があった。

鹿の骨

この日は角突きの骨も見た

耕作地跡

作業をする人影があっても決して違和感の無い状態だ

三椏を栽培していたのだろうか


花咲く季節


そしてまさかの小屋


どうやらこれが航空写真に写っていた建築物のようだ


民家跡がある

そして風呂釜にしては小さい

ガスボンベ


集落の手前で見たものと同じ鍋


構造躯体が残っている

周辺の杉ケ峯、スドウ、天ノ郷には昭和41年の電柱跡があったが、この日浦にはない。
状態としてはほぼ同年代だが、もしかして一足先に住居としては下山し、その後も作業に通う時代が続いていたのかもしれない。

しかし影野橋から40分程登ったこの場所に、、、と思うかもしれないが、現代人にとっての山道の感覚と当時の人々にとっての山道は全く別物。
全く心配する事はない!!


ここにも釜がある。決して風呂釜ではない。


ではあの釜は一体何だったのか。
想定できる用途の一つに「三椏」がる。
以前に大豊で三椏の花が辺り一面に満開の場所を訪問した事がある。
そこでは昔は「紙」の原料として三椏を出荷していたそうだ。
でも、それはまた大変な作業で「大きな釜で茹でる工程」が必要だったそうだ。
現在でも「三椏」は紙の材料としての需要はあり、またその性能は非常に高いのだが、「なかなか大変でこんな山郷の民家で簡単にできるものではないよ」との事だった。
紙幣の材料もやっぱり本当は「三椏」が良いようで、私は各地を訪問する下準備でよく明治時代の地理院地図に触れる事も多いが、その後の昭和の時代、最近になって発行された地図と、100年以上昔に三椏で作られた地図では「折り目」の劣化の度合いが全く違う事に気付かされる。三椏で作った地図は100年以上経って人の手に触れる事もより多かっただろうが、「折り目が折り目である事による劣化」は殆どない。

キリンビール


その先に土地が広がりここが日浦本町一丁目


これが風呂釜


そして民家跡がある


尾根沿いの場所に地図にはない4軒目の民家跡


そしてこの尾根沿いには尾根に沿って深く掘った道が作られている


相当な量の土が発生した訳だが、石垣を組み、その土を入れ耕作地を広げ、収穫量が増え交通の便が良くなった。


地図ではこの周辺に尾根に沿って作られている「道」が他にもあるが、他もこんな感じなのだろうか。

現在の痕跡からその地政学的な理由を調べてみるのも興味深い。

またあのスドウの橋を渡って杉ケ峯に行ってみる価値はありそうだ。

集落跡から西の民家跡に向かうと道は尾根を掘割で通過する。


そしてすぐに今度は岩盤を砕いて作った切り通しがある。

畑山から正藤、そして中ノ川から繋がる道は、ここで岩盤を砕き出来るだけ平坦に杉ケ峯に向かう道と、尾根を少し迂回し高度を下げながら日浦の集落に向かう道に分かれる事になる。

そしてここからすぐ先に、目視できる距離に、地図に示された通りに耕作地跡ある。


民家の敷地


民家跡


肥溜め跡


硝子格子のある民家であった


この「日浦」という場所は現在の安芸市にはない地名で、影野に含まれる地域になったいるようだ。


昭和40年代初期に電気の来た周辺の杉ケ峯、スドウ、天ノ郷が現在もその地名を残し、この日浦と呼ばれる場所は電気のある時代を迎える事なくその幕を閉じたようだが、その差はほんの数年で、もしかしてその逆に電気は来ていなくても同じようにまだ人々の生活のあった場所であったかもしれない。

一つだけ確実に言える事は、ここもほんの最近まで誰かの故郷であったという事。そして明治を超え「江戸」生まれのお父さんお母さん、お爺ちゃんおばあちゃん、ひじいちゃんひばあちゃんの住んでいた場所であった。

電気もガスも水道も無い場所であったが「山は蒼きふるさと、水は清きふるさと」がここにもある。

でもお醤油は


ヒゲタ醤油


でもヒゲタ醤油も江戸初期から続く歴史の長い日本のお醤油である。

宝蔵峠に向かう道の状態も良好


ここから杉ケ峯に向かう道は岩盤の切り通しを抜け


日浦の集落の少し上をまるで等高線のように走り


そのまま杉ケ峯に向かう


少し幅は狭いが、この下の伊尾木川沿いを走る林用軌道のように


そしてまた林用軌道跡がそうであるように石垣を組んで橋を作っていた沢の場所は、さすがに半世紀を超える自然環境の中で崩壊が進んでいる


それ以外の場所は半世紀以上手を付けていないので傷んではいるが


私にとっては美しい快適な山道でしかない。
また数百年と続く集落とそれを繋ぐ道が、たった数十年で消えるはずもない。

この先に杉ケ峯がある。

もう少しで到着しそうだが、時間と地図と地形と状況 状態を考えて引き返す事にする。

また長靴で伊尾木川を横切れる場所を探し上流に向かうが、やっぱり無い・・・・・

裸足で川を渡った後の岩石の温もりが嬉しい!!

石垣を組み耕作地を作る事は地盤の強度を確保するだけでなく、日が沈んだ後も温められた石が温度を保つからである。

なんてこった・・・・

車を埋めていたのか



その先の川辺には

林用軌道のレールが流れついている

基本的に軌道跡のレールは全て撤去されているはずであるが、一か所だけ心当たりのある場所がある。
もしかしてあの場所が崩壊し、そこから流れてきたのだろうか。
いずれにせよその水量と勢いの規模が想像できる!!



伊尾木川は令和の時代に入り、昭和、平成とは違う表情になっている。



今回、日浦の集落と、そこから繋がる道を確認出来た。

現在の各集落には海沿いの国道を起点に各々の集落に一番近い川沿いの道を進むしかないが、ほんの最近まで海沿いから山奥の各集落は山を越え谷を越えた「道」で現在以上に密接に繋がっていた。

そしてその「道」は決して現在の車社会と比べて困難だったり大変だったりするものではなく、明るく快適で非常に便利なものであった。






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久しぶりに伊尾木に向かう

【伊尾木林用軌道跡】の訪問より4年半
http://shgogo65006854.livedoor.blog/archives/cat_53977.html

【安芸の学校跡・集落跡】
http://shgogo65006854.livedoor.blog/archives/cat_53300.html


目的は影野の集落跡訪問
【地理院地図 1/50000】
2-4  地理院地図

【地理院地図1/25000】

影野の橋を渡り登った先に集落跡があるようだ
2-3 地理院地図1・25000


・現在の地図でも集落跡が確認されている
(と言っても実際に地図に反映されているのは車で移動し靴を履いて普通に歩いて調査のできる場所のみで、その先は過去のデータをそのまま利用している、、、事がとても多い)
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伊尾木森林鉄道(伊尾木林用軌道)跡の調査で幾度となく通い詰めた道

当時と比べ道も改善され、土砂崩れで迂回路となっていた奈比賀小学校の運動場を通る事もなく快適な道を進むのもつかの間!!

大井を過ぎるあたりから一気に「ヤバい」場所が目立つようになってくる

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そして古井小学校も、明夜も、島も、スドウも、同じような状況であった


目的地の「影野」に到着

それでも「橋」を渡って山の上にある集落跡を目指そう!!!

と、、、次の瞬間!!
「なんてこった・・・」
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橋が崩壊している
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●令和2年4月8日追記
影野の橋の先の青い屋根の民家(平成28年度撮影)
↑↑↑の伊尾木森林鉄道にもっと詳しく載せてます!!
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あの林用軌道跡も
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そして当然、それは影野だけの事ではなかった・・・


明夜でも
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当時は「安京」でも現在は「明夜」

あの林用軌道の橋の跡が、
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1-3-3  橋が流されている


島のつり橋も
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反対から
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スドウのつり橋も・・・
(と言ってもまだ渡れるけどね)

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伊尾木の最終地点「別役」もこの5年で大きく雰囲気が変わっていた
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携帯の圏外に入って数時間、その日の案件であった「ケンタッキー・フライド・チキン」差し入れを断る事にする!!理由は日没までに高知市内に帰る事ができないからだ!!(笑)

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当時はここまでバス路線が走っていたが
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現在は古井小中学校跡までのようである


そしてその古井小中学校跡も
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運動場は土砂で埋め尽くされ
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校舎も
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かつての学び舎の敷地も時代と状況が変われば「土砂捨て場」となる、あまりあり得る話ではないが、それでもそうなってしまう実例の一つである。

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予定していた訪問を断念したため、その方向は第三も目的地であった「裏政谷」に向けられた。
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あの障子藪の北にあり、既に民家後の記載さえ存在していないのに現在まで残る地名「裏政谷」だ。

到着す
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と言っても当時は「裏正谷」

また地理院地図では当初、「裏政口」だったり「裏政」だったりする。
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橋が作られたのは昭和38年
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地図にはない川の北側の民家後から
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川を右に左に渡りながわ川を登る

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何故なら地図にある破線の道はすでに存在しないから
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また破線の通りに「道」があったとしても地形的に見ても崖っぷちに造られた人工的な構造物であった事だろう
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しかしすでに地図に民家跡の記載もなく(過去の地理院地図にもなかったと思う・・・)

特に伝えられている具体的な話にも遭遇する事のできないこの場所に何故、表に対する「裏」から始まる「政」しかも昭和38年度「正」、、、の谷という呼称がつけられているのか

明治末期から昭和40年頃まで存在した「伊尾木林用軌道」による伊尾木川沿いの繁栄のそばに、この裏正谷は一体どのような存在であったのか・・・


具体的なものを何一つ見つける事が出来ずに、時間的な制限、そしてその地形の困難さにより引き返す事となった


【川の北にある民家跡の登り板】
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しかしそれでも現在令和2年。この状況からして平成の時代にもこの「裏政谷」に人々の生活があった事は肯定できるだろう。

そしてまた同時に、現在はおろか過去の地図にさえ民家の記号の記載もなく、それでいて「裏政谷」という何やら数ある地名の中で相対的にも「意味深」な「地名」に分類され、「伊尾木林用軌道」という安芸の歴代の大事業のそばで、その主役たる場所でもないにも関わらず、「軌道」が廃止となって半世紀以上、いまだにその「地名」を残し続けている事自体が、その「裏正(正)谷」と呼ばれているその場所の歴史の長さ、重さを、現在に伝え続けているのではないのだろうか!!

その川の南に作業道が出来ている
そこを少し登ると「杣道」の入り口がある
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植林の中を進むその道は、その後できた道ではなく、当時からあった道のようだ
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その先に咲く三椏の花

かつてそう遠くない過去に、ここにこの三椏の花さ咲き乱れる時代があった可能性は無限大!!



また裏政谷川を引き返す時に水中を下流に向かって泳ぐ見たこともない魚のように泳ぐ魚みたいな動きを見た!!

そしてその魚の様な動きの正体は10m程先で鳥の様な動きをしながら岸に上がった。


それが所謂、現在「裏政谷」と呼ばれている場所の日常茶飯事、、という事だったのかもしれない!!

『考えるな、感じろ』!!!というやつかな!!




















!!

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稗尻と末廣の分岐の場所「ニコンバ橋」
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またこの付近も「ニコンバ」と呼ばれている
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そしてこのニコンバ橋から稗尻に向かう道は最近(戦後)になって出来た道らしい
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また現在「立花」と呼ばれている地区は明治末期には「立花谷」と呼ばれていたが
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「地理院地図・手結」明治43年


その後「橘谷」となり
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「地理院地図・手結」昭和8年


現在は「立花」となっている。

また稗尻の小学生が栃ノ木小学校で、末廣の小学生が穴内小学校に通っていたのは当時はそれぞれの地区が井ノ口村、穴内村だったからで、穴内村は昭和18年に安芸町となり井ノ口村は昭和29年に安芸市となり現在に至っている。



ニコンバの民家を抜け末廣に向かう

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早速道に並走する導水路跡が出現

かつてはこの上流に3カ所の堰があり水位の上がった穴内川の水が導水路と通り周辺の耕作地を潤し、植林に埋もれてしまった現在とは全く違った豊かな耕作地が広がっていた。


そしてその川の堰も現在は
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この穴内川の流れも増水時は全く表情を変える。しかも植林となり保水力の低下した山が流す水の量は激増し、原生林時代の想定量を越える。
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この先の道は導水路と並走はしていない
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ニコンバ方向への導水路
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かつては田植えの時期になると住人総出の「田役」でこの導水路の手入れをしていた事だろう。

そしてお昼は沢山の握り飯と普段は食べられないちょっと贅沢なおかずも提供されていたそうだ。 そしてそれに釣られて子供達も重労働だけど参加してという話も聞く。


まだ末廣ではないがお地蔵さんがいる
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その上には
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若宮二社八幡宮
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明治41年の日付

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またこの場所も「平家」の末裔の住む場所である



お地蔵さんの下の川沿いの道には小さな掘割があり
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ここに橋を架け対岸に渡っていたようだ

対岸の岩が橋の架台になるように上手に削られている
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きっと簡易な橋で定期的に修理交換の必要な橋であっただろうが、かつてはここに木製の橋があり人々が荷台に荷物を載せこの橋を渡っていた光景を想像するとちょっとワクワクするのである。


対岸に渡ると

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地図には無いがここにも民家があったようだ

ここは奥ノ谷からも道の接続があり、既に廃村となった現在においても末廣は奥ノ谷からの道を通って行くという事が普通のこの地域の常識である。


末廣に近づいてきた
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対猪対策の現在は休業中
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電気は来ていたようだ
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サッポロビール

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ある程度の時代の特定は出来るかもしれない
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燃料タンク

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建物は崩壊しているが当時のお風呂がほぼ完全な状態で残っている
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この地域は宇留志、板渕とほぼ同時期に無人になったと想定されるが、その十数年程前までには最新式の住宅が建てられる程の生活や意識、時代背景があったという事だろう。

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五右衛門風呂も私が小学校低学年のころまで婆ちゃんの家にあった事を覚えている
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またユニットバスの原型になったとも言える形だ
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これは洗濯機だ
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しかも一層式、、ジェネラルだからナショナルだろうか、、

こんな洗濯機ってあったのか???
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集落の石垣

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瓦の刻印は確認出来ない

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そして酒樽が落ちている
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そして宇留志の集落跡で見たものと同じものと思いきや・・・・

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当時は瓶や樽に量をいれてもらう時代だったという事だろう

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コンクリ製の肥溜め
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あの時代背景の中においても、ここには最新式の民家が新築されていたようだ



その先に進む


土地も開け陽当たりも良い、この辺りが末廣の中心地だろう

沢の土砂が民家を埋め門柱だけが顔を出している
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今でこそ犬は「ペット」いう概念を持つ人が多いが

本来、犬は人間の「友」であり「仲間」である。

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そしてここが末廣一丁目一番地
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そして広い場所も人々が石垣を積み上げ造成した場所である
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対岸にも広い耕作地跡がある

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また林業の作業小屋が半壊した状態で残されていた


そしてその少し上流にはこの土地の主が住んでいる
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ここから稗尻に道が繋がり、畑山には朝出て夜着く距離だったそうだ。

その道を探すべく末廣の沢を登る
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西陽があたる陽当たりの良い場所には耕作地跡が連なっている

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それらしき「道」をみつけた。

その「道」を進むと「稗尻」に着く事だろう。

また時間がある時に行ってみたい。


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この集落の民家の灯が消えてもう半世紀。


しかし人類の悠久の歴史の中では、これが最初ではなく最後でもない筈だ!!



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そしてあの洗濯機の正体は!!





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穴内小学校を過ぎ稗尻に向かう
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左に行けば末廣、直進が稗尻

平成30年度末は通行制限が掛かっていたが、現在は道の修復も完了している。

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場所はこの辺り
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現在の地図にはもう地名の載っていない昭和40年代までの集落。

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稗尻の児童の校区は栃ノ木小学校だったそうだ。
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また当時は橘(現在は立花)からの穴内川沿いの道は無く接続は奥の谷からだった。


稗尻の神社に到着。
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氏神様。
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明治42年9月吉日
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小谷さんと小松さんの多い集落
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実は「稗尻」について具体的な情報を持たずに来たのだが、この神社のおかげで稗尻の場所が分かった。

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また,まだまだいろいろとこの山に来る人は多いそうだ。
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集落跡
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この辺りの石垣は運ぶのが困難な程大きいものが多い。

それはこの辺りが石の採掘場であった事を意味するし、この存在がこの辺りに集落を形成する事となった大きな理由の一つでもある。


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また水脈がある事と陽当たりの確保等も当然の事ながら、でも理想的な耕作地を求めて集落が形成されたというより、限られた条件の中で如何にして効率の良い生産性のある耕作地を作っていくかという当時の人々の想いが伝わってくる。



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瓦の刻印は確認出来ない


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ガラス窓の民家もあったようだ



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陶器の湯たんぽ



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小高い場所にはお墓があり祠がある




明治34年の小松さんの生誕の地

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川に降りるのに大きな掘割を作っている

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その後は柚子の栽培がされていたようだ


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石垣跡
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でもこの瓦は安芸からこの林道を通って運ばれてきたのではなく、奥の谷から末廣を通り、山越えでここ稗尻まで運ばれてきた事になりそうだ。



更に奥に進むと道は対岸に渡る。林道はすぐに終点となるが、そこから小谷にむかうかつての道が続いているらしい。

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また左の道を上がると稗尻の上部に向かうが、きっと末廣に繋がる道に続いているに違いない。

板渕、宇留志。白髪より少し先に無人になった集落のようだ。








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現在の町と町が「車道」で繋がる前は、各集落はより密接に「道」で繋がったいた。

そして「畑山」「椎山」「藤ノ谷」「上尾川」「板渕」「宇留志」「白髪」「久重」もそれぞれの川を遡った別々の場所にある集落ではなく、山を一つ越えた反対側にある身近な場所だったのである。
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実は現在の交通事情は「板渕」と「上尾川」にとっては非常に不便な状況であったりもする。
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そして上尾川ー板渕の道は昭和40年代から既に地図から姿を消しているので、往復は厳しいとしても稜線上に向かう!!


住宅地図からも判断できるこの登り口
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実は住宅地図にも途中までの道の記載があるが、この場合は殆どあてにならない。
が、が逆にその事が非常に重要な情報になる時もあるのだが・・・


耕作地の間を進む
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耕作地を抜けると「道」は徐々にその痕跡の影を薄くしていくが、人々が「田役」で整備した「道」の跡は半世紀以上経った今も健在である。

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石垣の部分も数カ所見かける
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崩壊が激しい区画も多いが、主要な道であったが故にしっかりと整備された「当時の主要な道」の状態がそのままの区画もある。

また当時の「道」の整備の基準の一つとして「馬」が通れるようにする、というものがあった。

勾配のきつい道ではあるが、この道も馬が通れるように手を入れられた道であったのかもしれない。


稜線上に到着。
途中から道が無くなっていたのか、ロストしてしまったのか、ブルーのテープでマーキングしながら1時間。当時は30分もあれば登れた事だろう。

だから当時の「上尾川ー板渕」は時間的には1時間~1時間半の距離であったと思われる。

つまり車に乗って一旦安芸まで出て赤野川から遡って2時間以上かかりそうな現在より、歩いて山を越えればすぐそこのとっても近くて身近なお隣さんであったのだ。

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尾根伝いの稜線上は、それ自体が道であるが
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そこを人が歩くから、更に道となる

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三角点に到着
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この稜線上の道にも田役で整備された平場でも掘割になっている区画が多くある

かつてはこの稜線上に、人が馬を引いて歩く姿があった事だろう。

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当然「板渕」への案内板はない。 板渕へ流れる小さな川の支流の発生しそうな地形を追跡しながら板渕への道を探すが、当時の道には出会えなかった。

川の音が聞こえてくるようになり近づいているのは分かるが、これは板渕から登ってきたほうが確実のようだ。
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そして登り口まで降りてくると、この人に合う事すら難しくなったこの上尾川の、この板渕への登り口で、お爺さんがタバコをふかしているではないか。


昔はこの登りの区画に「お宮」があったそうだ。

また盆と正月には「撫川」から親戚が歩いて来ていたと!!

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あの登り口から30分程で稜線上に出れるから、撫川ー上尾川は朝出発すれば昼には着くような距離だった事だろう。


撫川小学校、羽尾小学校、羽尾小学校仲木屋分校に子供達が通学してきた時代の話ではあるが!!




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中ノ川~柳井瀬

(画像フルスクリーンで拡大可能)
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別役~奥栗
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●安芸の集落跡まとめ①

『中ノ川・寶賀勝・畑山・安芸ノ川・柳井瀬・大井のドライブイン跡・竹ヶ峯・移転前の別役小学校跡』

安芸の学校跡地まとめ

伊尾木森林鉄道まとめ内
『別役・久々場・影野・杉ヶ峯・スドウ・天ノ郷・小谷・茗荷・障子藪・大久保』


●椎山

●枯井谷

●枯井谷の集落跡と往還道の神社 

●藤ノ谷の集落跡と耕作地跡

●藤ノ谷の民家跡、そして仲木屋林道へ

●奥栗・三軒家まとめ



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安芸の奥栗、三軒家は安芸市の東にあり安田町の西を流れる名村川沿いにある。
現在は地図からその地名の記載さえ消えてしまった場所である。


・昭和50年の航空写真
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・現在
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・現状
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そして以前は、奥栗の隧道を抜け、馬路や中山村に繋がる道沿いに存在し繁栄していた集落
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また名村川の下流の中郷はまだ「中河」と呼ばれていて、行政区画も伊尾木村だった。


そしてその後、人々が歩いて移動する時代から自動車に乗って移動する時代に変わり、交通の流れ、物流ルートが完全に変わってしまい、平家以降、もしかしてそれ以前から続いてきたであろう生活の営みの跡が植林の中に眠っている。

そしてそこから、その後、奥栗、三軒家、と呼ばれる事となるその場所に初めて辿り着いた者が、初めての夜を明かし、その場所に定住する事を決定し、その川沿いの大自然に手を入れ、その後の不断の努力、勇気、知恵、をもってその地を安住の場に築き上げてきた歴史を垣間見る事が出来るのである。


【奥栗】

(昭和50年の航空写真)
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・現在
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・現状
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●奥栗
●奥栗の隧道と集落跡
●尋常小学校と導水路


【三軒家】

(昭和50年の航空写真)
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現在
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現状
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●三軒家
●三軒家の若宮神社
●もう一つの三軒家
●導水路と水田





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三軒家の現存する民家跡から上流に向かう

名村川の対岸にも耕作地が広がる
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そして現存する民家跡の川沿いにあった耕作地に繋がっている導水路跡が出現
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奥栗、そしてここ三軒家も名村川からの導水路を作り耕作地を潤し作物の収穫を得ていた。
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そして三軒家で一番広い耕作地を持つ地区に着く
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緩やかな等高線の中に石垣が広がり
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貞享3年の日付の碑のあるその地区だ
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石垣の耕作地の川沿いには水田跡があり
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道は水田より少し高い場所にある
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水田の上部にわざわざ石を積み「道」を作ったという事だ。


そしてその先に導水路の取水口が出現
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奥栗の導水路の事を知らなければもしかして見落としてしまっていたかもしれない
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ここに堰を作り水位を上げ、導水路に水を流し、ここだけではなく、少し下流の現存する民家跡のある区域の耕作地も潤していた。
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よく見れば堰を構成していた大きな石が崩れている
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対岸
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ここが
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こんなかんじに
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当然台風などで水位が上昇し過ぎた場合は決壊する事も多かっただろうが、それを前提として作っていたのだろう



この場所においては川魚も大切な食料となる
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そこに完璧な堰を作り魚の生活に支障のある環境を作ってしまえば逆にそこに住む人間の死活問題に関わってくるからだ。
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逆に言えば水を引き込みたい時にだけ堰き止めて、充分に水の確保が出来れば多少台風、大雨で決壊しても、また必要な時に「田役」で住人総出で修復すればいいだけの話で、特別な材料を必要とするのでもなく崩れてしまった石を積み上げるだけだから、また毎年その繰り返しを行う事でノウハウ、技術の蓄積が有り、それが別の場所で役に立つという事もあったのではと思う。


またそれでいて、この場所を堰き止めるだけで、瞬時に下流の水田、耕作地を潤す事が出来るというシステムが完成していた訳で、それだけの技術力があるのであればここに台風でも決壊しない堰を作る事は充分に可能だった事になるし、あえて大雨では決壊してしまう堰を作り、本格的に堰き止めるのは水田、耕作地に水を引き込みたい時に限定させ、それ以外の時期は自然との調和を最優先していたと考えるのが合理的だろう。

取水口と導水路さえ完備していれば、水を引き込みたい時に「田役」でおにぎり200個分ぐらいだろうか、、、ちょっと豪華な20~30人分の昼飯を用意する事でその日の内に導水路を通って水田、耕作地に水が流れるようになる。

そんな感覚だったのかもしれない。


 
対岸の耕作地に風呂釜が落ちている
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豊かな耕作地の中の一つの石段に石積みの壁を設けて三軒の家が並ぶ場所が二カ所ある「三軒家」に7軒目の民家があったとしても、この導水路と取水口を堰を見れば全く不思議ではない。

それどころか最低でも10軒程はないと間に合わないのでは感じる。

ただ一つ言える事は、当時は現在のように農地を宅地に変更しそこに新しく家を建てるという事は絶対に無かったという事。

それは耕作地の面積が減り収穫量が減るのに、人口が増え必要な収穫量が増えるという土地の広さが限定された山間部では成り立たない話であるからだ。

だから、新たに一家族分の食料が確保できる広さの耕作地を開拓しない限り、ここに限らず当時の地域の民家の数は一定っだったと思う。



堰から更に上流に向かう

ここから先の道は少し川の上部を歩く

また地形的にこの先は導水路の設置が無理な場所だから
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ここが堰と取水口のある場所になったとも言える

が、更にその堰の上流もまた水田となっている

道の高度が下がり再び川岸を歩くと、対岸に渡り易そうな石の配置がある
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が、なんとここも堰跡だった
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この様にして名村川東側の水田を潤し、
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水田は一段下がり
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そして更にそこからほんの少しだけ低くなっているであろう、対岸の水田に
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水路を設置するだけで川の水が引き込めるように両側の石垣の開口が設けられている。

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その後、奥栗、三軒家、と呼ばれる事になるこの地に最初に辿り着き、夜を明かし、この地に定住する事を決め、この土地に手を入れた偉大な人物は一体誰なのだろうか。



水田跡から更に上流に進むと、また耕作地と炭焼きの窯がある
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ここは名村川からの水の引き込みは地形的に厳しい場所

その代わり、沢の水を利用したそれ相応の広さになっている
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この石垣は林道の下に見える
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兎追いし、で始まり

山は青き、水は清き、で終わる「故郷」の歌は

この国の史実に基づいた本当の歌なのである。



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そしてここから更に名村川を遡り、馬路に降りていく道の手前の稜線上

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大きな切り通しの先にあるゲートの左に階段がある
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その先に
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神社がある
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河又神社
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もの凄く風の強い場所だ
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昔の「道」であったこの稜線上の道を歩く人々の安全を願って建てられてものだろうか。

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榊も交換されている。

三軒家の若宮神社、土地の中央の「神様」、そしてこの河又神社の神様は今でも健在である。


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皇紀2678年旧暦の1月4日 三軒家の集落跡、耕作地跡、そして若宮神社を訪問した私は同時にいくつかの疑問を抱いていた。


それは三軒家の三軒の家に対して確認出来た耕作地跡はとても三軒の家だけでは管理しきれない広さであり、また伊尾木ー馬路の往還の道沿いにある集落で奥栗の人も訪れる若宮神社が三軒家にあるという事は、三軒家の民家はあの三軒だけではなく、名村川の耕作地沿いにまだまだ点在するはずである、という事であった。

そして再び訪問し、林道から正確に辿り着けたと思っていたこの「三軒家」の集落跡は、実は地理院地図に記載された三軒の民家が記載された場所ではなく
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若宮神社と地図にある民家の記載がある場所の間にに存在する
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かつての三軒家の集落跡であったのである


少し誇張しすぎかもしれないが、水辺の宮廷を連想させるこの場所は「平家」ゆかりの土地という事を連想してしまう。
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植林のため日差しの具合で著しく表情を変えるこの三軒家の集落跡
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後にするのは勿体無い気持ちを、次の場所に行きたい気持ちが先導する
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集落跡の上の段にはお墓がある
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小松さんだから「平家」由来の地である事は間違いないだろう
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日付は「明治25年」 日清戦争の始まる前年の日付で、江戸の時代の方のお墓だ。
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安芸・天ノ郷では明治5年の日付のお墓を見た。
そしてそこも「小松」さんのお墓だった。


そしてこのお墓が一番新しいお墓なのである。
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この集落跡の歴史の奥深さを物語っている

現在が皇紀2678年、明治、大正、昭和、の次の「平成の時代の30年目」という事をお伝えしてきた。


そして前回進まなかったこの集落から上流への道を進む
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石積みの道は今も健在で
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その先にこの規格の石垣の耕作地が広がる
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耕作地跡の中央にはこの土地の「神様」が祀られていて
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菱形の御神体
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御供え物も置かれていたようだ
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榊の状態からして若宮神社と同じように現在も訪れる方がいらしゃるようだ
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前の段の枝葉をきれいして、その後訪れた者がいるという形跡を残してきた
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もしかして、初めてこの地に足を踏み入れ、その後のこの場所ので生活の礎となった方を祀られているのかもしれない。


耕作地の石段の中に湾曲した階段があり
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なんと
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なんと、現存する民家跡がある
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前の耕作地には耕運機が残されており
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そしてこの場所も、住居区域を石積みで3つに区分けし、三軒の家が並んでいるのである
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この三軒家の近くを久木発電所からの電線が通っていたが、奥栗を含めこの三軒家に電気が供給される時代が訪れる事はなかったそうだ

しかし、これはどう見ても「電動」

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ワンパス精米機
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佐竹製作所
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構造躯体も残っている
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瓦葺きの家だったようだ

そして先程の集落跡はこの構造躯体が完全に風化してしまう程古い時代のものという事になる
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真ん中の家
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二軒とも瓦葺きだった
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そして現存する民家跡
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●前回から修正し現状はこのような状態という事になる
(昭和50年の航空写真)
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ここは馬路ー伊尾木の間に存在する名村川沿いの小都だったのかもしれない
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同じ平家であったとしても、藤ノ谷の集落跡は岩盤の上に築かれた要塞、砦、一方の三軒家は水辺の宮殿、小都のイメージがあるのだが、どちらにも共通する事は条件の厳しい場所でありながら人々が仲良く豊かに安全に生活出来るように皆が協力し、想像を絶する時間と努力、勇気、知恵を駆使し、困難を乗り越えた先に成功を獲得した集落であり、決して誰でも簡単にそこに辿り着いたからと言ってそれだけで生活していける場所ではないという事。

その様な場所に、例え無人になり風化が始まっているにしろこの様な場所があるからそれが魅力的である事は、決して光景としてそれが美しいから・・という単純な理由だけではない。


最後の方は隠居生活をされていたそうで
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このような造りでも冬を過ごせる程 炭火は暖かい
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安芸市になったのは昭和29年
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これが産業廃棄物とは全く無関係の日本の建物の構造
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かつてはこの前面に豊かな耕作地が広がっていた
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もしかして時代の絞り込みが出来るかも
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電気は来ていなかったが送電部品だろうか
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植林がこの民家を雨風から守っているとも言える

植林、そのおかげで一定期間で完全に風化してしまう民家跡を、本来の自然な状態ではあり得ない程存続させているという事実は否定出来ない
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民家跡の裏には上に登る坂道があり
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屋根材は何だったのだろうか
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その先にはお地蔵さんがいる
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民家跡が完全に風化した後も、かつてこの場所に人々の生活があった事を後世に伝え続ける事だろう
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名村川沿いの耕作地の中にある石積みで区分けされた場所に並ぶ三軒の家が二つ隣接するこの場所が、人々に「三軒家」と呼ばれるようになったのはごくごく自然な流れだったのかもしれない。


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奥栗の隧道はこのお地蔵さんの下にある
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お地蔵さんの左手に杣道があり稜線を越えて隧道の反対側を確認しに行くが全く分からず・・・・

隧道の前にボックスカルバートを設置し、その上に道路を走らせているので、昔より稜線の幅が広くなってしまった構造である。
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その先の光が最後の手がかりとなる奥栗の隧道の反対側の入り口
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5人程で行かないとなかなか発見は難しいかも。


再び奥栗に降下する。


そして奥栗にはかつて尋常小学校があったそうだ

学校と言っても小さな建物で、奈比賀小学校に通っていた世代の人が、昔ここに学校があったという話を聞かされていた!!という時代の話ではあるのだが。

それでも馬路ー安芸の往還の道沿いであり、奥栗の隧道を抜け物資の流通経路があり、お魚が食べたい時はわざわざ歩いて伊尾木まで買い物に行き、奥栗の校舎で子供達が勉強していた時代の事を考えると部外者でありながら嬉しくなってしまうのである。



現在の航空写真
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結局アスファルトの道が接続される事もなく、中郷からの道は林道全盛期時代にはトラックが入っていてその後 馬路に抜けるその林道と接続される話が上がりつつも、結局実現しなかった、どころかそのトラックが木材を運んでいた奥栗前の道すら崩壊が始まり中郷との接続道すら絶望的な立地条件であるが故に、奥栗の隧道を抜けて荷物を運搬していた荷台のスペアの車輪等がちょっと前まで残っていたらしい。

金属の車輪の表面の中の木材は傷みにくいように、というか長持ちするように油でベトベトだったとか。

一体、それにはどのような種類の油、成分が有効なのだろうか?



昭和50年の航空写真
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随分と表情が変わってしまっている

そして奥栗は山間部にあって比較的開けた土地で陽当たりも良く耕作地に適した場所ではあるが、その大前提として「水」が充分に確保出来るという必要不可欠な要素がある。


そしてその「水」の確保は立地条件の恵みによる先天的なものではなく
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この上流にある若宮神社の下流にあるダムからの
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導水路からの供給によって確保されていた後天的なものなのであった。


ダムによって水位の上昇した水はこの導水路を流れ
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実に分かりにくい写真

当然並走する道(右側)↗があり、導水路横、川沿いの2本がある

現在の奥栗の水は途中の沢からのようだ
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ほぼ平坦で水が流れるように若干の勾配のつけられた導水路跡は決して勾配が逆になる事なくダムまで続いている
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当然現在の給水管も導水路と同じルートで果樹園に引き込まれている

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導水路からの名村川の水はここから
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果樹園の中央に設置された水路を走り奥栗の耕作地全体を潤していたのだ。


沢からの水が現在枯れている事を考えれば
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この導水路が完成するまで、奥栗での生活は貧しく厳しいものだったのかもしれない
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当然、導水路はコンクリートという便利なものがある時代に入ってから完成したものではなく
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そのずっと前から存在し、木製の導水管の時代から存在してた。
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そしてコンクリートという便利なものが出来ても、予算を掛けて隧道を越えて搬入される建材に頼るより、住人総出で赤土をを使って導水路を補修するという「田役」という作業で田植え前の「水」を確保していたそうだ。

当然それには子供達も駆り出される訳なのだが、「おにぎり」が食べられるという楽しみのある田植え前の恒例の行事であったのだ。

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私の実家でもまだ「田役」は存続しており、来ない人は「罰金1000円」で、行った人にはちょと豪華なお弁当が出る訳だが、この行政の管轄外の昔からの地域の伝統、風習が各地域の美しい風景、光景を維持する根本的な原動力になっている。

そして過疎化、学校の廃校、はただそれだけの限定的な出来事ではなく、その地域の美しい風景、光景、環境を維持してきた日本の有史以来続く「田役」の存続自体をも危うくする現象なのである。



平家ゆかりの地であるこの場所が水源の豊かな緑の広がる場所になったのは一体何百年前なのだろうか!!
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名村川沿いではありながら、耕作地にしたい平地に川の水を取り入れるには困難な高低差があり、沢を流れる水も乏しく、この場所で充分な収穫も達成できなかった時代に、上流に堰を作り川の水位を上げ、そこから若干の勾配の付けながらこの場所までの導水路を確保しようと決意し、実行し達成したその勇気、決断力、行動力、努力、高度な技術力は現在の日本人は持ち合わせているだろうか?

日本という国ではあったが、平家以降の時代に便利な交通、通信手段もなく,限られた人数で、もし失敗すれば、、限られた食料が底を突く前に成功させなければ、、全員が餓死してしまう危険の伴う集落の存続を掛けた大事業を。

そしてその先にその後の「奥栗」の繁栄があり、明治以降、尋常小学校が設置される程の場所にまで発展したのだ。

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植林になって風景、環境が変わってしまったのは当然の事ではあるが、陽当たりが悪くなった事、山の保水力が低下し鉄砲水が土地を荒らしてしまう事との引き換えに、松の木が無くなった事で「山火事」が無くなったそうだ。

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そしてこの「神様」は山を火事から護るための神様であるのだが、山火事は本来は自然の摂理。

人間が自然との調和の中で自らの存続の為に山火事が起きない事を願うのも、それもまた自然の摂理。

しかし、山一つではなく、その周辺全ての木を伐採し、そこに全て杉の木を植るという本来の自然ではあり得ない環境を作り、しかもその後、本来の目的の価値が著しく低下しそれを実行すると「赤字」になってしまうため、そのまま「放置」している現在の「植林」は完全に人間のわがままである。

そして植林によって松の木が無くなり「山火事」が無くなった事は「神様」も逆に怒っているはずだ。


そしてもっと大切な事がある。

日本人がいくら「神様」「神様」と言ってもその「神様」とは決して「人間」の形をしていない。
それどころか「有形」ではなく「無形」ではないが、まるで大自然の摂理、秩序をそのまま「神様」と呼んでいる。


それこそが人間の形をした「偶像」を崇拝する海外の民族と、自然の摂理、秩序、調和を崇拝する日本民族との決定的な違いなのである。


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