高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

カテゴリ: 宮崎

小原小学校から日之影温泉駅に向かう。

前回の高千穂町訪問で行った場所だ。

残念なのが平成19年12月28日に廃線となった高千穂線が現在の地図に全く反映されていない事。

高千穂線の開業は1935年、廃線は2008年。

そして人々が慣れ親しんでいた鉄道の歴史よりずっと長い歴史を持つ地元の小学校もほぼ同じ時期に廃校となっていた。



●見立小学校 平成12年に廃校
廃校小学校のういき



●見立中学校 平成3年に休校 平成12年に廃校
日之影町 廃校中学校



宮崎県の休校廃校の波は高知県より少し遅れて押し寄せている。


●「教育ネットひむか」
令和2年度は小学校3校、中学校1校、高校2校が廃校となっている。
 http://himuka.miyazaki-c.ed.jp/link/haikounado/



日之影温泉駅から日之影川を遡り見立小学校を目指す。

正確な位置を示す資料は無いが、この地形からして川沿いの県道を遡れば学校前に着くはずである。

何故なら学校はその地域で一番条件の良い一等地に建てられるから。

ましてやこの日之影川沿いの限られた少ない平地では、見逃すはずがない!!

と思っていたが、結局、学校跡らしき場所はなく、山越えでフェリー乗り場に直進する計画を変更し、引き返して、再調査する事に。
(結局、20分程の差で、あのレバニラ定食を食いそびれちまったぜwwww)


そして、来た道の反対方向から見える道を登ると
2-2-2  完全にロストしたと思い

学校跡らしき場所
中学校地図 見立


校庭跡
ここが見立小学校か、、、平成の時代に廃校になった学校にしては意外な場所にあるものだと思っていたが、、、、
2-2-4  平成3年までここに中学校があった  中学校は22年に小


見立中学校跡であった
2-2-5  ここが中学校跡であると同時に、小学校跡であ


では小学校跡はどこだろうか!!

もしかして同じ敷地内の可能性も否定できないが、中学校の石碑があって小学校の石碑が無いというのも考え難い。

2-2-6  見立公民館


地域の公民館のある場所だから中学校ではなく小学校のような気もするのだが・・・


2-2-7  老朽化した校舎は早急に解体

ここが地域の公民館の場所であるなら、見立小学校跡は一体どんなに条件の良い場所なんだよ!!という話なのである!!!


いつものように地元の方に話を聞きたかったのだが、タイミングがタイミングなだけに、そう、前日は県外ナンバーという理由でラブホを断られているだけに、聞くに聞けなかった。


2-2-8  運動会


今すぐは無理だが、いずれ宮崎県は、そしてこの日之影町も再訪予定である!!

地元の図書館、大学図書館等で地理院地図、郷土資料を見ながらしっかりと調査してみたいものである。
同じ日本ではあるが、高知とは違う宮崎独特の歴史伝統文化に触れる事が出来る事を確信している。







高知県ランキング


 キャプチャ地図

平成21年 坪谷小学校に統合

キャプチャ

446号を挟んで坪谷中学校越表分校と越表小学校がある
2-2-2 到着

かつて、昭和30年~40年代、この小学校に200名程の児童、道路を挟んだ反対側の中学校の分校に100名程の生徒、合計300名程の子供達が元気に登下校していた。

3-2-2  そして小学校跡に


閉校から10年程だが、昭和43年に建てられた鉄筋コンクリート二階建ての校舎は解体されていた。

3-2-3  校舎はもう解体されている


かつてここで200名程の児童の駆け抜ける運動会が行われていた
3-2-4  ほんのちょっと前まで子供達の歓声が響き渡っていた場所

若山牧水

3-2-5  若山牧水の生誕の地でもある

二宮金次郎
3-3-2  二宮金次郎像


完璧な状態で現存

3-3-3  完璧な状態で現存

新設の学校に再び設置される事があってもいいと思う

3-3-4  新設の学校にはない


日本本来の美しい姿を取り戻そう!!


かつてこの地に小学校があり創立100周年を迎えたこの石碑が設置された。

3-3-8  創立100周年は次の100周年、すなわち200周年


この様な学校跡の石碑はこの先、一体どういう事になるのだろうか。

3-3-6  四半世紀後、半世紀後、1世紀


学校の開設は明治9年

始めから校舎と校庭があった訳ではない

昭和43年に鉄筋コンクリート二階建ての校舎が建てられ翌年に僻地集会所体育館が完成

でもプールの完成は平成3年

しかしプール等なくてもすぐ前にある小丸川があり、そもそもこの地の人々は、プール等無くても小丸川で普通に泳いでいた。

プールの設置など、余計なお世話だったに違いない!!!


3-3-7-2

校門前にある教員住宅
3-4-2  校門前にある教員住宅

昭和末期、もしかして平成初期まで、ここで先生が住み込みで通勤していたかもしれない。

建物の状態、及び使用されている建材からそう感じるのである。


日向市から進んだこの道の先を進むと、また小学校中学校があり、その道を進むと、また小学校があり、集落と集落が繋がっていて、その点においては高知県東部と違うものを感じる!!







高知県ランキング


446号を走り坪谷中学校から 越表小学校に到着
2-2-2 到着


そして道路の反対側にも学校がある
2-2-3  そして道路を挟んだ反対側には

なんと中学校跡だ
2-2-4  中学校跡


坪谷中学校越表分校
2-2-5  坪谷中学校 越表分校


坪谷中学校も坪谷中学校越表分校も、同じく昭和22年、それぞれ坪谷小学校、越表小学校の敷地内に設置され発足し、その後それぞれの敷地に校舎を建てる事になる。

2-2-6  越表中学校が越表小学校から移転後の昭和26年から


しかしそれまで「中学校」というものが存在していなかったという訳ではない。

当時の小学校は「尋常小学校」、中学校に相当する学校は「高等小学校」と呼ばれていた。



また分校の本校である坪谷中学校の石碑には
2-2-6  プール完成は平成7年 昭和22年、坪谷小学校

昭和57年3月の本校の統合までに665名の卒業生を輩出している。

年平均で20名程の卒業生。

という事は、昭和30年40年代には、この坪谷中学校越表分校に100名程の生徒、越表小学校には200名程の児童が通っていたという事になる。


また本校である坪谷中学校のプール完成が平成7年。
当然、昭和57年に本校に統合となったこの分校にはプールは無かった。
(越表小学校のプール完成は平成3年)

しかし私は学校にプールがある事は決して「良い事」とは思わない。

何故ならプールで足を付けずに25m泳げる事は、そこから一歩外に出ると「全く役に立たない!!」からだ。





高知県ランキング



福瀬神社の隣にある福瀬小学校

東郷学園東郷小学校に統合となってまだ10年経っていない
キャプチャ


その後福祉施設なっていたがそれも休業中である
2-2-3  福祉施設となっている、そして休業中


校門
2-2-5  校門

校舎は昭和40年代に建てられた鉄筋コンクリート三階建て
いや、この仕様は昭和50年代っぽい。

2-2-2

校庭
2-2-6  行程


創立100周年
2-3-2  創立100周年 

美々津から耳川を遡る現在の新しい規格の道が完成するまで交通の不便な場所であったと思う
2-3-3-2

校門前の道路を挟んでプールがあるが、、、
2-4-2  道路を挟んでプール


それまでは普通にその前の耳川で普通に泳いでいた。





高知県ランキング

午後一時に高知市を出て、4時間で佐多岬半島の三崎港に着き、そこから70分で九州に渡れる。

そして翌日の朝から高千穂峯に登る計画を立てる事が可能だ。

何故そんな事をわざわざアピールしているかというと、これは「高速道路」を利用するどころか、車ではなく、原付(二種)での行動であるからだ。


九州も近くなったものである。


そして、こんな時は、いちいち宿泊施設に「予約」を取るのではなく「ラブホ」が便利である。

ある程度行けるとこまで行って、近くにあるラブホを選択。
時間的にも距離的にも状況にあわせた「戦略的」な計画が取れる。

2-2-2 令和2年9月14日1時高知発


断言しよう、
「ラブホのダブルベッドはビジネスホテルのベッドとは比較にならない程寝心地が良い」

なんと言ってもここは・・・・・・・ (笑)


お風呂だって、、、、、(笑)
2-2-3  hoteru

これで4500円

飲み物は入る前にコンビニで買っておいたほうがいいかも。


まあ車で高速を使えばもっと早く来れる訳だが、なにせ「原付」で来たから、かかった交通費はガソリン代とフェーリーの2400円のみである。
しかも私の原付「Dio110」はリッター50走り、国道10号線は車の流れに乗って走れるから、高速道路を使わない場合の最安、最速のパターンになる。


ぐっすり寝て、翌朝 高原駅前のセブンイレブンでパスタを食べて霧島東神社へ。
3-3-3  霧島東神社


天之逆鉾
3-3-4  天之逆鉾


天之逆鉾には、「高千穂河原ビジターセンター」から行く人が多いようだが、私は霧島東神社から登る。
何故なら天之逆鉾は霧島東神社の社宝でその場所は神社の境内(飛び地)であるからだ。

3-3-5  一礼して逆鉾に向かう


登山口
3-3-6  登山口

一部、植林地帯がある
3-3-7  この先は植林地帯

しかしそれはここだけで、この先の道のりは、何十年、いや何百年、それどころか何千年、と続いている道なのかもしれない。
3-3-8  しかし山頂への道のりは厳しい


5キロの道のりではあるのだが、1000m登る事になる。

高原町では3時間半の距離と聞いていた。
4-2-2  5キロの道のりだが、1000m登る事になる 3時間半の道のり


まあ、私は2時間40分で登りましたが・・・・・。

ただ、一言、今までで一番きつい行程でした。

等高線からも分かるようにひたすら登りの連続!!
4-2-3  私は2時間半

だから1キロの移動、100mの移動が今までで一番長く感じる道のりでもあった。

それでも地図の等高線から予測できる若干の平地で呼吸を整えるが
4-2-4  地図にあるようにひたすらnoboru


予想以上にすぐ早く終わる

それにしても1本20キロ以上はあるこのコンクリ製ポールが登山道にこの数で普通に存在している事に驚く

4-2-5  一本20キロ以上あるこのポールがここにある事が凄い

登山道整備の為に一人一本担いでここまで登ってきたのだろうか。


こんなに長い5キロは初めてだ
4-2-6  こんな長い5キロは初めてだ


しかも一度下ってまた登る
4-2-7  下りてまた登る しかしこれまでの行程と比べると楽勝だった



しかしこの程度の下り登りは、ここまでの行程と比べると楽なものである

御池小学校からの道もあるようだ

もしかして遠足のコースだったりして。
4-2-8  御池小学校からの道もある

皇子原からの道もある
4-2-9  皇子原からの道もある


鳥居が見えてきた
5-2-2  鳥居が見えてきた

昔の人はこの道を定期的に行き来していたのだろう。


5-2-3  整備されている道も昨今の豪雨で形が変わっている

次は5月下旬に来てみたい。
5-2-4  次は5月下旬に来てみたい


そして高千穂峯の到着!!

と思いきや、そこに「天之逆鉾」が!!
6-2-2  高千穂峰に到着と思えば、そこに天之逆鉾が

反対側「ビジターセンター」側から登ってきた人が数名。
6-2-3


江戸時代から存在が確認されているそうだ

6-2-4  コブラのソード人


度重なる噴火で見えている部分はレプリカであるが、本体はまだ山頂に刺さっているとの事
6-2-5  脚長バチ

3組の登山者
6-2-6  登山者3組に

脚長バチが鉾に集まっているようだが、、、、この1500mを超える標高で??
6-2-7  この高度に脚長バチ??

6-4-3



そしてここは天孫降臨の地!!
6-2-8  天孫降臨の地

6-2-9

6-4-2  山頂



6-2-10  高千穂峰


6-2-10-2




地図上ですぐそこだから少し降りて御鉢に行ってみようとしたが
6-2-11  行ってみたかったが、足がガクガクで

膝がガクガクで断念した


下りる事にした

天気が急転し、晴れ空から曇り空へ、そして雨が降り出した

霧島東神社から登ってきたのは私だけか、
6-3-2  悠久の歴史


と思っていたら、雨の中、一人で登ってくる男性とすれ違う。

降り出した雨は止む事なく、少しづつ強くなっていく

カッパを着ても意味がないし、そのまま雨の中を下りていく。

これは「歓迎」の雨だ!!

そしてその雨が逆に快適に感じたのは気のせいではなかったと思う。


高度が下がり景色が変わり、山頂から中腹にかけ降っていた雨雲も、山麓にはかかっていなかったようだ。

ガクガクの膝で2時間10分程で霧島東神社に帰ってきた。
7-2-2  2時間10分で下山 神社に参拝 足がガクガク


そして麓の温泉へ
8-2-2  皇子原温泉


温泉を出て、コインランドリーで洗濯乾燥し宮崎市に向かう
8-2-3 コインランドリー8-3-2

そして一人ラブホ二日目!!
9-2-2  ラブホ 一軒目断られ


なんと言っても、ベッドの寝心地が違う!!
9-2-3  でもこっちのほうがいい


お風呂も最高!!!
9-2-4  風呂も最高


神話も含めた日本の歴史というものは、厳格で格式の高い恐れ多きものであると思っていたが、実は真逆で身近で温かく優しく親しい、そうまるで家族であるかのような存在であると感じるのであった。
;;。



高知県ランキング

美々津小学校から耳川を挟んで対岸に存在する幸脇小学校

キャプチャ

廃校になったのは最近の事である。
キャプチャ

2016年と書いてあるから、平成28年の事か!!

そしてまたこの耳川を挟んだ両岸に小学校が存在していたのは、両岸を繋ぐ『橋』があったからの時代の話で、学校が閉校になったのは「橋」が完成した後の話である。



閉校と休校と廃校の具体的な違いがわからない・・・・!!

閉校と休校、そしてそれに対する「廃校」の意味は分かると思っているのだが。

ーーーーーー



訪問したのは令和2年9月16日
2-2-2 令和2年9月16日

午前七時
2-2-3  午前7時


廃校ではなく、休校でもない閉校後の幸脇小学校の校庭
2-2-4  もう校庭は


休校中である美々津小学校分校「田の原分校」が、休校の石碑も建てずにそのままの状態でいる中、その後閉校したこの幸脇小学校はこの様な状態である。
2-2-5  廃校後の学校も

客観的に見れば、幸脇小学校の閉校は絶望的で、田の原分校の休校は再開を見据えた一時的措置という事であろうか!!!
2-2-6  現役にしか見えないが


国道10号線沿いにある幸脇小学校。
2-2-7  国道10号から


そして日向市の「日向」は戦艦日向の「日向」である。

br />;。



高知県ランキング

宮崎県日向市の小学校の統廃合が始まったのは平成中期から。

しかもそれまで分校が普通に存在していた。
つまり当時からの集落が昭和の時代を超えて存在し、普通に子供達が学校に通っていた。

まあ高知の学校の事しか知らないから当然の事かもしれないが、
この宮崎は、高知とは何か根本的に違うものがあるようだ。


それもそのはず、ここ美々津は「日本海軍発祥の地」

キャプチャ


現在日本は皇紀2680年だが、初代神武天皇が「東征」の船出をした場所であるから、さらにそれ以前の歴史の古い場所になる。
2-2-8

2-2-3  ここが日本海軍発祥の地


それだけ歴史が長い場所であるから、人々と地域の密着も高知のそれとは違うという事なのだろうか。

だから平成中期を過ぎても普通に分校が存在していた。

当然、過疎化という現在の社会現象という原因がほとんどだろうが、人々の地域への愛着度、密着度の差がこのような現象を起こしているのかもしれない。

だからと言って高知の人々のそれが、この場所と比べて格下と言うつもりはないが、2700年以上昔からの歴史が語り継がれ続けている場所と、世代を超えた長い歴史には変わりないがおそらくそこまでには至らない地域では、やはり土地と人間の繋がりの度合いは同じではないという事だろうか。


美々津小学校田の原分校が「休校」となったのは平成22年。
キャプチャ


休校という事は、まだこの分校の学区内の児童達が本校の美々津小学校に通っていて、、この先分校の学区内の児童が増えれば、再び開校される可能性があるという事である。

2-2-1  こちら


え??????

これが分校????
3-2-2  全景

という規模の学校である。

そして平成を超えて昭和の時代、この分校には地元の多くの児童達が通い、周囲に子供達の歓声が響き渡り、今まで以上に美しい光景が広がっていた。

2-2-3  これが分校とは

その時代の変遷の中で、我が国が得た物と、失った物を比較してみると、その代償はあまりにも大きく、失ってはいけないものまで失ってしまっている現状を憂い、そして行動に移そう!!!!

2-2-2 鵜毛分校の川を挟んだ反対


なぜこんなに大きな分校があるのか

なぜここ創立100周年記念があり、分校であったのか

「創立100周年は昭和52年2月15日」
2-2-4  廃校に関する石碑はないようだ


たしかここも時計は正確な時間を刻んでいた
2-2-5  こちらも時計は現役の


体育館の奥には校舎がある

2-2-6  現役にしかみえない


新しい校舎だ

昭和52年の創立100周年を超えたしばらく後の昭和を超えた平成の時代の校舎だ。

一般的に小学校校舎は昭和20年代後半に木造切妻平屋、もしくは2階建てに建て替えられたり、昭和40年代に僻地集会所、体育館、そしてプール建設に平行して鉄筋コンクリートの校舎に建て替えられている。


きっとこの田の原分校は昭和20年代に建てられた木造校舎で昭和末期平成初期に至り、そのタイミングでこの校舎に建て替えられたようだ。

そしてその新校舎の姿は、未だに学校の廃校休校の無いこの宮崎県日向市にとって、減少する児童、過疎化が進む中で、この田の原分校がこの先も発展し続けていく象徴であったはずだ。
2-2-7  平成の時代の校舎

そして誰しもここが休校になるとは想像すらしていなかっただろう。


普通の小学校のプールより大きな田の原分校のプール
2-2-8  プール


実は休校廃校訪問を始めて5年を過ぎるが、いまだに小学校と分校の違いの基準が分からない
2-2-9  校舎の費用に比例する現状は無い


渡り廊下だ
2-2-10  渡り廊下


雨の日の渡り廊下は、いつもよりテンションが上がる

そんな自分の小学生時代を思い出す。
2-2-11  渡り廊下


運動会も
2-2-12  校庭

どこかの小学校より大きなものが開催されていた事だろう。

-----------------------------------------

分校が休校になって10年。

一般的な学校の休校の場合、休校に関する石碑等が建てられるが、ここには全くない。

休校になった当時のままだ。


それはきっと地域に方々が、再びこの地区の児童達が分校を再開するに値する数にまで増え、いつもの田の原分校が帰ってくる日を切に望んでいるからに違いない!!
br />;。



高知県ランキング

高知市から佐多岬半島の九四フェリー(三崎ー佐賀関)乗り場まで4時間(原付2種で)。

そこからフェリーで70分(2400円)だから、、九州も思った程 遠いものでもない!(しかも原付で)!


宮崎県日向市の廃校となった小学校は以下の通り
キャプチャ

昭和23年の不動寺小学校は当時の諸事情によるものとして、その後の日向市で廃校となった小学校は6校。

しかも平成18年(2006年)の平岩小学校鵜毛分校が最初である。

東郷小学校は福瀬小学校を含めた統合で日向市立東郷学園統合小学校となっている。

平成後半に入って初めて日向市最初の廃校があり、しかもそれが「分校」とは、昭和30年代後半から過疎化により学校の廃校が始まっていた高知とは全く違う地域性だ。



そして高知県で学校の統廃合が加速化する中、ここ日向市では当時から続く小学校にいつもの様に児童たちが元気に通学していた。

キャプチャ10


幸脇小学校から向かうが、最近重機で山を掘削して造られた道の先が昔ながらの道になり、人里があり分校がある。

2-2-2 最近掘削した道の先に道があり分校があった

実は平成中期まで分校が存在していたなんて、高知では考えられない。

2-2-3  この時代にまだ分校があるとは

昭和58年に建てられた鉄筋コンクリートの校舎。

当然、その前は木造切妻平屋の校舎があった。
2-2-4  昭和40年代中盤に木造校舎かれ鉄筋コンクリートの校舎に 

学校の前は工事中

この先、大きく風景が変わるのだろうか
2-2-5  しかしその、廃校と誰もが予想すらしなかった未来


ここに移転してきたのは昭和27年5月末のようだが、下記の石碑とは微妙に異なる
2-2-6  昭和27年5月末に移転 サンフランシスコ講和条約の1

防火水槽という名のプールなのか

プールという名の防火水槽なのか

しかし当時はそれが普通だったようだ

そしてこのプールが設置されたのは昭和45年11月28日

当時から、あくまでも「分校」であり、役所やデパートのある街の学校のような、一学年に複数のクラスのある学校にはならないが、長い歴史の中に続くこの地域の子供達の大切な教育の場であった。

そしてその学校の規模に合わせて、プールは児童二人が飛び込んで泳げる規模であった。

逆に言えば、このような分校のあった地域の学校というものは、単式ではなく複式で、一学年ごとにクラスを分けて授業を行うのではなく、学年を超えてクラスがあり、上級生と下級生が同じ教室で勉強するのが当たり前の普通の事だったのかもしれない。
2-2-7  プール 防火水槽


学校の玄関
2-2-8  分校玄関

また過疎化の進む中での校舎の新築は、この先の鵜毛地区の発展と繁栄の象徴でもあったはずだ

そして県外、市外では始まっていた学校の廃校も、当時の日向市には無縁の話であり、昭和の時代に始まった学校の統廃合も、当時の日向市には該当しそうにない状況であったのかもしれない。
2-3-2  昭和58年 過疎化の進む中でも新校舎落成で未来に向けて


プールが完成したのは昭和45年

これは当時にしては早い時期に造られたプールという事になり、そして同時にこの学校のプールは全国の多くの学校に先駆けて造られたプールという事になる。

2-3-3  しかし当時はこの工事が51万程

そんな学校が、半世紀後に廃校になるとは当時、誰も想像すらしていなかっただろう。

2-3-4  気のせいか、いや、本当に時計は正確な時間を刻んでいる

その後も正確に時を刻み続ける時計!!

でも、また、逆に四国の高知市の人間が、約8時間程で、この場所に(しかも原付で)到着出来る日が来るとは、やはり誰も想像すらしていなかっただろう。

因みにこの分校の設置は明治36年で全国的にも遅れていた。
(早いとこでは学制発布の明治5年から小学校の設置は始まっていた)
時期的には日露戦争の結果の反映であろうか。

そう、あの世界秩序の始まりの時代に、日本がいきなり世界の一等国に昇りつめた時代に!!

br />;。



高知県ランキング



高千穂町の廃校になった小学校は、向山南小学校、向山北小学校、上岩戸小学校、そしてこの五ヵ所小学校である。


●西臼杵郡の廃校小学校
11-2-2  廃校小学校


いずれも平成の後半に入ってからの廃校で、昭和の時代の末期あたりから統廃合の始まった高知県とは異なった地域性を感じる。


さすが、天岩戸神社のある高千穂町。歴史の長さ、重さが違うのであろうか。


中学校に関してもほぼ同じ状態で、過疎化が一気に進み学校の統廃合が同時進行した高知とは違って、そういう時代の影響を少しづつ受けながら自然減に近い人口減少で学校の統廃合に至ったのであろうか。


●西臼杵郡の廃校中学校
11-2-3  廃校中学校


五ヵ所小学校は向山の学校、岩戸の学校から少し離れた場所にある。

しかも山越えがあり、現在のトンネルが出来る以前はかなり遠い「町内」だった事だろう。

10-2-2  地図



統合先の田原小学校前を通り到着!!

現役の学校と、現役の学校のある集落にしか見えないが、ここが10年前に廃校になった五ヵ所小学校である。
2-2-2


開設は向山南、向山北、上岩戸の学校より少し早い明治8年。
2-2-3


つまり令和の現在、街として賑わっている多くの場所より、当時はこの地域のほうが多くの人々が住み、活気があり、学校が開設され、明治維新のあの状態から世界の一等国に上り詰める原動力となっていったのである。

2-2-4


小学校が廃校になるという事は、その地域の自治体としての一番大切な機能を喪失したという事になる。



2-2-5


運動会が5位とは、、、、一体、一位は何なんだろう!!!
2-2-6


校庭とプール
2-2-7  校庭とプール


プールは4コース
2-2-7-2  プールは4コース


そして驚くことに、廃校から10年、現在も正確に時を刻む時計!!
3-3-2  でも時計は正確に稼働している

創立100周年記念!!
3-3-3  創立100年


学校が廃校になるなんて想像すらしていない、出来なかった時代の話である。


3-3-4


また校舎は向山南小学校や上岩戸小学校と違い、そして向山北小学校と同じ、昭和40年代製の鉄筋コンクリート2階建て。
3-3-5  昭和40年代制の鉄筋コンクリート二階建て校舎


中学校の分校が隣接していた時代もあったようだ!!
3-4-2  中学校の分校があったようだ


校舎は渡り廊下の階段を登り上段の建物に繋がっている!!
3-5-2  校舎は渡り廊下階段を通り上の段の建物に繋がる

現在は地域の施設になっているが、当然、当時は学校の一部だった。



日本の神話に出てくる「天岩戸」

そしてそれは、単なる昔話や言い伝えではなく、実在する現実である。

九州は「天孫降臨」の地と言われているが、それも実在する現実が根拠となっている。

実際に山の上に「天乃逆鉾」が刺さっているし!!!

現在日本は皇紀2680年という世界最長の歴史を誇っているが、この九州にはそれ以上の、そしてそれ以前から存在する歴史そのものが現存している!!!>;。



高知県ランキング


天岩戸神社を北上し上岩戸大橋を目指す。
10-2-2  地図


大橋を渡ればすぐにある
2-2-2  大橋を渡ればすぐ


ここにも子供達の歓声が響き渡る「学校」のある時代があった。

というより、天岩戸神社がある時代以降より、この地域には地元の子供達を教育する機関があったはずだ。

現代で言うところの「義務教育」という形態は、ほんの最近の話かもしれないが、日本の教育というものは、明治時代に入って、あるいはその少し前の江戸時代の「寺子屋」等の時代から、突然始まって現代に至っている訳ではなく、太古の昔から伝統や風習の中に、大人が子供達を教育するという「習慣」があった訳だ。

だから明治維新で国家の体制が大きく変わり、明治5年に「学制」が始まり、一時は3万校を超える小学校が全国に開設され、一気に国力を伸ばし、あの白人国家の侵略の第一歩である「不平等条約」を独力で解消し、瞬く間に世界の一等国の仲間入りを果たす事が出来た。

その悠久の歴史のあるこの地域の教育機関が閉鎖して約10年。

でも正確には、この地域が集落、自治体として機能しなくなって約10年というところだろうか。

悠久の歴史のあるこの地域での人々の生活の営みが、急激な人口減少により本来の形態を保てなくなってほんの僅かな時間が経ったというとこだろうか。

2-2-3  ここにもこの校庭に子供達の歓声が響き渡る時代があった


創立100周年記念
2-2-4


過去に重税が原因で、住民250人程がこの地域から逃げ出した事があったそうだ。
2-2-5  250人程の農民が逃げ出した時期があった


そういえば、私が小学生の頃は5月に小運動会、10月に大運動会と年に2回あった。
2-2-6  運動会



奥に校舎がある
3-2-2  校舎

皆の大好きだった渡り廊下
3-2-3  皆の大好きな渡り廊下


ここも木製格子窓の校舎を改装している。

高知と宮崎、県が変われば学校の状態も少し変わる。


3-2-4  木製格子窓を改装した校舎


黄色い枠線
3-2-5

廊下
3-2-5-2  廊下

「キン、コン、カン」のチャイムではなく、鐘を鳴らしていたのかもしれない。
3-2-6  チャイムの代わりにこの鐘が鳴っていた事もあっただろう


木製格子窓の木造校舎には内部トイレは無い。

初期設定の段階で、教室とトイレは別々となっている。

3-3-2  木製格子窓の校舎に内部トイレはない 当然外部トイレ

高知県では(昭和40年代を中心に)木造校舎は解体され、鉄筋コンクリート二階建ての校舎が建設されていたが、宮崎では構造躯体を活用し建材を最新の物に交換して改築されていたようだ。

だから当然、靴箱も外部にある。

3-3-3  当然靴箱も外付け


そしてまた教室の南からも入る事が出来た
3-3-4  どうやら小学校校舎は建て替えずに木造校舎

そしてまたこの窓の方向がほぼ真南である。

そして教壇と黒板は西側に設置されている。

何故なら鉛筆を持つ右手でノートに影が出来ないように、黒板は西向きに設置されていたからだ。


開設時は第6区山裏小学校
3-3-5  開設時は第六区山裏小学校


向山北小学校の閉校と同じ平成22年

高知と比較して感じるのは、高知は宮崎より10年程度閉校が早い。

あくまでの私の主観、体感によるものだが、地域差は存在する。

しかし、明治以降の学校の開設時期については少なくとも高知宮崎の間に地域差は限りなく無いに等しいと感じる。

因みに、この時代の学校の開設は、町や市や県、ましてや国がお金を出して開設するものではなく、全て地域住人の手によるものだった。

まずはお寺や民家が学校、校舎となり、その後、地元の有志から提供された土地に、地域住民の寄付により校舎が建設される事となり、税金で学校が建設されるなんて時代は昭和の時代の戦後に入ってからの話なのである。

校歌
3-3-5-2  校歌

朝霧のたゆることなき

高原に

姿うるわし二つ岳 

天下に誇れ

上岩戸






3-3-6  今年か

今年だ



正門から
3-4-2  正門から

上岩戸地区の悠久の歴史を持つ「教育」は、前例を見ないほどの広大で巨大な建築物のある、この平成の時代の「上岩戸小学校」で、一旦幕を閉じるのである。

3-4-3-2


日本全国の「岩戸さん」は、この天岩戸神社に由来のある方々なのだろう!!


おっと教員住宅!!!!
3-4-5  教員住宅も現存


もしかして、もしかして、平成の時代に入ったその頃にも、

この上岩戸小学校には学校に隣接する「教員住宅」から出勤する「先生」がいたのかもしれない。

3-4-6  平成の時代になっても教員住


うん、これはどう見てもそうだろう!!!

何故なら、校舎より、教員住宅のほうが「新しい」から!!!!!
;。



高知県ランキング

↑このページのトップヘ