現在は香美市となっている旧物部村には、かつて12校の小学校と3校の分校、5校の中学校と2校の分校、そして高等学校が一校あった。

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●物部村の学校跡地まとめ


そして現在は大栃小学校、大栃中学校のみ

昭和37年5月1日の時点で1,180名いた児童も、現在は大栃小学校1校のみの49名と、当時の1/24以下になっている
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(物部村史より)



また当時は戦後の開拓地として、光石、上岡があり上岡には河口小学校の分校まであり、一時は「高知県に上岡開拓地あり」と県が自慢する時期があった程だ。

しかしそれも長くは続かず昭和36年の末には全員が下山する事となり分校も閉校、

その後開拓地跡は放牧場となるが、現在は既に植林の中に埋もれている。

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物部村史に「上岡」の簡単な歴史が書かれている


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そして河口小学校上岡分校は昭和23年5月1日、男子3名女子4名でスタートし昭和37年1月10日に閉校となる。

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また当時の高知新聞から今はもう植林の中に埋もれ車道の接続はおろか徒歩で到達するのも困難なあの場所にあった当時の人々の生活を少しだけ垣間見る事が出来る。

・高知新聞 昭和32年3月11日
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分校(児童数8名)に匿名で十数冊の本や雑誌が送られてきたそうだ



・高知新聞 昭和32年9月17日
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今度は明治小学校(土佐山田)の児童から本や雑誌が送られてきたそうだ
(香我美町の舞川小中学校、撫川分校、夜須の仲木屋分校、物部の笹小学校、計5校へ)


・高知新聞 昭和34年7月12日
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昭和21年に22戸の入植者が入る。一時は高知県一と呼ばれた上岡開拓地であった。


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あの場所にこの様な光景があったとは・・・・(訪問者語る)



・高知新聞 昭和34年7月13日
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この二日間で上岡特集が組まれている。

上岡には小学校の分校はあったが、卒業すると中学校は片道16㌔、軽く3時間はかかる大栃まで歩いて行く必要があり義務教育である中学校を卒業したのはその時点で一人だけだったそうだ。



・高知新聞 昭和36年3月26日
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安芸の老人にシャクナゲの杖と上岡リンゴをプレゼント
あの場所でリンゴが栽培されていたのだ!!

しかし上岡はこの年の末に全員が下山する事となる




・高知新聞 昭和38年3月2日
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その後、山火事があったそうだ


・昭和40年8月31日  上岡放牧場
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・高知新聞 昭和45年4月6日
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しかし経営状態はあまり芳しくなかった

また放牧場に牛を上げるのに地元の高校生が手伝ったり、夏休みは畜産の体験学習合宿もあったりしたそうだ

そして時期ははっきと分からないが桑ノ川方面からの林道が接続され上岡地区の軽トラが乗り入れるようにもなったが、その後の事はよく分からない。

ただ一つはっきりと言えそうな事は、現在、上岡分校跡地に設置されている跡地の石碑は教育委員会が桑ノ川からの林道で車に乗って運んできて設置したもの・・・だろう、という事である。




こう見ると上岡開拓地の歴史は(その他の開拓地の歴史も含め)戦後の食糧難の時代に新天地を求めて入植した者達が結局目的を果たせず夢を断念し山を降りたというネガティブな歴史と受け止めがちであるが、私はそうは思わない!!!

確かに戦争が終わり、入植者たちは新天地で自分達の食料を生産しその余剰分を確保し、それを生活の余裕にあてる、言わば今まで通りの生活が再び始まる・・・



筈だった!!!


しかし時代は、日本の状況は、非常に良い意味で急変、激変していく事となる。

世界征服を企んだ悪い侵略戦争を始め、そして負けた悪い国『日本』は(笑)昭和39年に「平和の祭典・オリンピック」をアジアで最初に、しかも戦勝国の大将であるアメリカより先に開催する事となる。

4年に一度のオリンピックであるから開催国はその前の前のオリンピック、つまり昭和30年代前半には決定され、それに伴い日本の復興は加速度を増し成長していく事となる。

オリンピック会場の建設、新幹線や高速道路の建設、原子力発電所の建設、黒部ダムを始めとする各地でのダム、水力発電所の建設等々、日本のあるゆる場所で戦前の日本の以上の目覚ましい復旧、復興、回復が始まり多くの日本人が耕作地を離れ建築、建設現場で働くようになった。

また戦前の連合国の経済封鎖は解かれ、大東亜戦争の結果として白人の植民地であったアジア一帯には多くの独立国が誕生し、植民地支配により白人に搾取されていた物資、生産物、食料は日本に輸入されるようになり、その後日本は世界第二位の経済大国にまで上り詰める事となった。


それを考えると、戦後の食糧難の時代に新天地を開拓し新しい場所で新しい生活を築き上げようとした上岡を含む各地での開拓団の歴史は、大東亜戦争の結果として訪れる新しい時代が日本各地に浸透するまでの十数年の間、とりあえず開拓地での苦労は感じながらも、結局は日本人として日本の復興、復旧を目の当たりにしながら、そして確かに日本人である自分自身にも確実に近づいている新しい時代、生活が到来するまでの駆け足で走りぬけた未来を見据えた希望に満ちた時代でさえあったのではないかと思う。

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そしてまた、人々は日本の事を「敗戦国」と呼び、アメリカを筆頭とする連合国、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、その他を「戦勝国」と呼ぶが、その戦勝国の国々は一体その後どうなったのだろうか。

アメリカは植民地であったフィリピンを失い戦前は日本の10倍程あった経済規模が一気にその差を詰められる事となり、現在は日本が債権国でアメリカは債務国となっている。

イギリス、オランダ、フランスはそれぞれ、インド、インドネシア、ベトナムの植民地を失い戦前の世界の大国からヨーロッパの一国にまで転落してしまっている。

第二次世界大戦の日本の戦争を大東亜戦争と呼ぶが、昭和20年8月14日、日本は確かに「ポツダム宣言」を受け入れ同年9月2日降伏文書に調印し戦闘における負けを認めた。


では勝った「戦勝国」側である連合国は一体何をしたかったのだ???



大東亜戦争の日本の開戦目的は
「日本の自存自衛とアジアの安定」である

一方の宣戦布告を受けたアメリカの開戦目的は
「極東における脅威の排除」ぐらいのものである












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