現在の町と町が「車道」で繋がる前は、各集落はより密接に「道」で繋がったいた。

そして「畑山」「椎山」「藤ノ谷」「上尾川」「板渕」「宇留志」「白髪」「久重」もそれぞれの川を遡った別々の場所にある集落ではなく、山を一つ越えた反対側にある身近な場所だったのである。
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実は現在の交通事情は「板渕」と「上尾川」にとっては非常に不便な状況であったりもする。
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そして上尾川ー板渕の道は昭和40年代から既に地図から姿を消しているので、往復は厳しいとしても稜線上に向かう!!


住宅地図からも判断できるこの登り口
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実は住宅地図にも途中までの道の記載があるが、この場合は殆どあてにならない。
が、が逆にその事が非常に重要な情報になる時もあるのだが・・・


耕作地の間を進む
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耕作地を抜けると「道」は徐々にその痕跡の影を薄くしていくが、人々が「田役」で整備した「道」の跡は半世紀以上経った今も健在である。

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石垣の部分も数カ所見かける
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崩壊が激しい区画も多いが、主要な道であったが故にしっかりと整備された「当時の主要な道」の状態がそのままの区画もある。

また当時の「道」の整備の基準の一つとして「馬」が通れるようにする、というものがあった。

勾配のきつい道ではあるが、この道も馬が通れるように手を入れられた道であったのかもしれない。


稜線上に到着。
途中から道が無くなっていたのか、ロストしてしまったのか、ブルーのテープでマーキングしながら1時間。当時は30分もあれば登れた事だろう。

だから当時の「上尾川ー板渕」は時間的には1時間~1時間半の距離であったと思われる。

つまり車に乗って一旦安芸まで出て赤野川から遡って2時間以上かかりそうな現在より、歩いて山を越えればすぐそこのとっても近くて身近なお隣さんであったのだ。

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尾根伝いの稜線上は、それ自体が道であるが
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そこを人が歩くから、更に道となる

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三角点に到着
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この稜線上の道にも田役で整備された平場でも掘割になっている区画が多くある

かつてはこの稜線上に、人が馬を引いて歩く姿があった事だろう。

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当然「板渕」への案内板はない。 板渕へ流れる小さな川の支流の発生しそうな地形を追跡しながら板渕への道を探すが、当時の道には出会えなかった。

川の音が聞こえてくるようになり近づいているのは分かるが、これは板渕から登ってきたほうが確実のようだ。
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そして登り口まで降りてくると、この人に合う事すら難しくなったこの上尾川の、この板渕への登り口で、お爺さんがタバコをふかしているではないか。


昔はこの登りの区画に「お宮」があったそうだ。

また盆と正月には「撫川」から親戚が歩いて来ていたと!!

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あの登り口から30分程で稜線上に出れるから、撫川ー上尾川は朝出発すれば昼には着くような距離だった事だろう。


撫川小学校、羽尾小学校、羽尾小学校仲木屋分校に子供達が通学してきた時代の話ではあるが!!




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