地図には記載されていないが

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鴨ヶ峯の時に見つけた
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沢沿いの道から入る

沖の谷橋
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昭和46年3月

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ただこれ以前には林用軌道の橋が架かっていたはずだ

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でも、この道は直接「沖の谷」に繋がる道ではなかった
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電力会社の施設管理用の道だった


川沿いを歩く快適な道

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川を渡る

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川沿い東に記載されている民家を目指すが、実は地図を確認せずに来たため少し見当違いの方向に進んでしまう


鹿の骨がある
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もしかしてネットに角が絡んでしまった事が原因だったのか・・・
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このまま通り過ぎる訳にもいかず、外してきた
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少し見当違いの場所を歩いた訳だが、それはここに来て、この鹿の角をネットから外す為だったのかもしれない


少し引き返し電力会社の水力発電施設付近
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地図を確認せずに来てしまったが、この付近に「沖ノ谷」がある事は分かっている

上部の集落跡から落ちてきたであろう「陶器の破片」「ガラス」の破片がほんの少しだが確認出来る、この付近から直上する事にしよう!!
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全く道がない

それもそのはず、

もともと道の無かった斜面を登っていた

が、索道のワイヤーを発見

この尾根を登れば索道の終点に着けるはずだ
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索道の終点に到着
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民家、、
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ではなく、索道の動力施設
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索道の鉄塔
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アンカーがそのまま引っこ抜かれてている
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この規模のアンカーの土台は最低でもこれくらいの大きさという事が勉強になった

民家跡が見える
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民家跡、、、、とはいえ、そこに人の姿があっても不思議ではない雰囲気は残っている
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植林の奥には段々畑の石垣が見える
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小屋
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索道で上げれてきた「飲料水」
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民家跡
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ベッドの骨組み

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勉強机の椅子
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つまり別役小学校に通う児童の勉強机の椅子という事になる


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杉熊、成山の民家跡が約10年程昔の姿

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鴨ヶ峯よりも少し古い感じだ

ぶら下がっているのは「チリ紙」

「チリシ」と呼ぶ

平成生れの日本人には馴染みの無い言葉だと思うが・・

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冷蔵庫

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軒先

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この家にも別役小学校の担任の先生が「家庭訪問」に来たはずだ

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そしてその先生は、現在のこの写真からイメージしてしまうような「こんな山奥の田舎に・・」と思っただろうか・・

いやいや、実はその真逆で、ここの庭先に建てば眼下に195号線の赤い橋が見える。

つまり、その奥の土居の地域も遥か遠くに見渡せる「絶景」の場所だったのだ。



前はお風呂と便所
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この民家の一段上にも民家跡がある

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ここの家の方も山を降り、遂には先程の民家が最後の一軒になってしまった
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洗濯機

この型は、昭和40年以前の型だ

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昔は脱水時間も自分でセットしていた

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ぼやけているが型番は「N-435]自動〇〇、(脱水、だったかな??)
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炊事場周り
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全景
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この家には耕作地の間のなだらかな坂を上がり、この石の階段を上がる。
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鴨ヶ峯に接続する道を探す
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その道上にある建築物は
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木材を切断する作業小屋だった
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その先の鴨ヶ峯に向かう道を進むが、植林地帯が切れ藪化した地域に突入、断念し引き返す



集落跡には「最近」の「焚火」の跡があった。
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「沖の谷」には「昭和」を越えて「平成」の時代まで人の生活があったのではと推測できる。


そしてそれでも今日もまだ、バスは「沖の谷」前を通る
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沖の谷から見えていた「195号線」の赤い橋の上から「沖ノ谷」
(右上の真ん中付近、山の中腹が「沖ノ谷」)
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ほんの半世紀程前まで、この付近には林用軌道が運用されていて、その後は道路の無かった地域に巨大な道と橋とトンネルが建設され、沖ノ谷の集落からは、眼下に走る195号線の自動車、そしてそのさらに奥の土居の集落まで、周囲が見渡せ、夜になると、道路を走る車のライト、周辺集落の民家の灯りに囲まれた、800年程前、平家の人々がこの地に訪れた時には想像もつかなかった近代的な風景が広がっていた。

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そしてその新しい景色は、新しい時代の幕開けを意味するものであったのは確かな事ではあるが、この周辺集落にとっては800年に渡る長い歴史の最後を飾る、今まで想像した事もなかった幻想的な風景だったかもしれない。


源平合戦から800年、そしてその影響を受けて誕生した物部の集落の800年後の姿。

でも単に源平合戦と言っても、当時の日本の二大勢力の源氏と平家が決着を着けたという、ただそれだけの単純な話ではなく、源氏(ナショナリスト)と平家(グローバリスト)が戦って源氏が勝利し、ナショナリストの国家体制になった訳で、もし、あの戦いで平家が勝利していれば、日本がグローバリストの国となり、現在の日本とは全く違った国になっていたかもしれないという、重大な転換期でもあった。


それを考えると、現在の日本があの源平合戦から800年後の、あるべき国の姿として相応しいものであるかどうか真剣に考えなくていはいけないのである。