地理院地図・沖ノ島 昭和50年発行(調査昭和47年)
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昭和47年度は沖ノ島の小学校、中学校の制度に大きな変化がもたらされた時期である。
三代目の敷地に移転した弘瀬小学校が現在の場所に移転し弘瀬中学校と統合したり、母島小学校と母島中学校が現在の母島小学校の場所に移転統合された時期でもある。

また昭和47年度(日付は昭和48年4月1日)は谷尻にあった長浜小学校も母島小学校に統合された。


昭和50年度発行の地理院地図「沖ノ島」(調査は昭和47年)にはそれぞれの学校の統合前、統合先の場所が記載されている。


弘瀬で地元の方に長浜小学校の場所を教えて頂く。

母島小学校の先を右に曲がり、しばらくいくと道の逆方向に下に降りる道があり、そこが学校のあった場所だとの事。

そしてそれだけで迷う事なく現地に到着!!
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廃校から45年、推定される建築年数では70年以上経過しているが状態は良好だ。
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木質の外壁にセメント瓦の造りで、特に耐久性の高い素材を使用してる訳ではないが、この校舎がこの状態で現存しているという事は、この土地の気候風土、環境を知り尽くした地元の人間が、ここで学ぶ子供達のために使用する釘の本数、角度まで厳選した極上の最高級仕上げにしたとう事だろう。
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これが廃校後に撮られた写真
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「追憶・わが母校・過疎 廃村写真集 井上正臣」より

特記する程の変化は見られないようだ

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とはいえ木製の外壁は数十年の雨風で自然な形で変化している



その後は老人憩いの家
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木製格子窓
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教室は二室
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これと同じ太鼓を弘瀬の明日の荒倉神社のお祭りの準備で見た
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そして老人憩いの家も運用されなくなって相当の時間が経っているようだ
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東の海側から上がってくる場所にある校門

下に続く道はもう鮮明には残っていない
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卒業記念の作品だろう
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校庭
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校庭には桜の木が
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散る桜

残る桜も

散る桜




遊具
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昔の子供達はこれにつかまってグルングルン回っていたのだ
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当時の子供達が歓声を挙げながら遊んでいた当時の遊具に対して
現代の日本人は「危ないから!」「怪我をしてはいけないから!!」とのたまう。


しかし当時を過ごした日本人にとっては、一体どこが危険で、怪我をする恐れが一体何処に存在するのか全く理解出来ないのである。



校庭のフェンス
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校庭に繋がっている道
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この学校にも新校舎建設に際して地元の方の土地の提供があった
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昭和29年9月 沖ノ島村が宿毛市に合併統合となり、その流れの中での新校舎建設に際しての土地の提供であったようだ。
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そしてその前身であった校舎の石碑が
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弘瀬尋常高等小学校郷分教場跡地
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長浜小学校の前身である弘瀬小学校郷分教場がここにあったのは昭和11年4月から昭和27年
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この建物になるのだろうか
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「追憶・わが母校・過疎 廃村写真集 井上正臣」より


長浜小学校の児童数
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母島小学校に統合になる昭和47年度には19名の児童が在籍しており

昭和30年代には50名を超す児童がいた。




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