高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2020年05月

実は私、武漢ウイルスの影響で完全に「タバコ」を止めれてしまったのですが。

が、しかし絶対に奴らを「許さん」‼️
(本文と写真は直接関係はありません)

許さん

!!!!

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親中派の排除を全力で進めなくてはいけません。

何故なら親中派の筆頭者が現与党の幹事長でこの様な人物であるからです。
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2019年(平成31年4月24日)
習近平に会いに行った二階様御一行!!

【動画】  ↓   ↓   ↓   ↓   ↓
http://tv.cctv.com/2019/04/24/VIDED2vGm7NwCWQyY1OexSCp190424.shtml
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この方々ですね!!
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高知県選出が二名も・・・・・
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しっかりしろよ!!!高知県民!!!
ここまで滅茶苦茶にされて、黙ってる訳にはいかないだろう!!



 我が国に国難を持ち込む親中派は排除すべし!!









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出来地小学校は1999年休校となり柳瀬小学校に編入となる。
その編入先の柳瀬小学校も2002年に休校となり勝賀瀬小学校に編入。
その勝賀瀬小学校も2008年に休校となり、出来地小学校は2012年にその編々入先の勝賀瀬小学校で廃校を迎える。

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柳瀬、三瀬、勝賀瀬、越智の黒瀬と、この付近は「瀬」の付く地名が多い。

そしてそもそもこの仁淀川の北の地域は「三瀬村」であった。
そこが昭和30年「伊野町」となり、現在の「いの町」となる。

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当時の地図では校舎は西向きに建てられているようだが、、

現在は出来るだけ南向きに建てられている。

理由は、鉛筆を持つ右手でノートに影が出来ないように!!


到着。

もう何度も通り過ぎた道だが、今まで本当に気付く事は無かった。

あえて言い訳をすれば、想定外に規模の小さな学校であったから・・・・

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学校の階段
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バス停は現在も出来地小学校前

何故ならここはそれ以外の何物でもない場所であるから。
3-2-3-2  バス停


また地域の避難所でもある。

学校というものは、その様な地域の一等地に建てられるものである。

3-2-3-3  避難所


校門

もう80年以上昔の文字であろうか、左の門柱には木陰と木漏れ日のコントラストで「三瀬第三青年実業学校」の文字が浮かび上がってくる。
右側は5月の直射日光で不鮮明だが、三瀬の尋常小学校、のようだ。 
三瀬村は昭和30年1月1日に「伊野町」」となり、現在は「いの町」となっている。
3-2-4  三瀬第三実業青年学校


国道から車道を上がると
3-2-5  車道を登る

そのまま学校上の耕作地に向かう道がある
3-2-5-2  そのまま耕作地に向かう道と


左手には
3-2-6  昭和40年代に建設された鉄筋コンクリート二階建て

三瀬小学校がある。
昭和40年代に建てられた鉄筋コンクリート二階建ての校舎。


校庭
3-2-7  校庭


うーん、これは運動会には狭すぎる
3-2-8  運動会には狭すぎる

きっと別の場所で開催していたに違いない!!!




越智に向かう橋が完成したのは昭和53年。
3-3-2  越智に向かう橋が出来たのは昭和53年

地理院地図「伊野」昭和8年度発行には、その他の地域に先駆けて、対岸に渡る橋の記載がある。
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また「三瀬村」の時代、それは「柳瀬」「楠瀬」「勝賀瀬」の三つの瀬を代表とする時代だったのであろうか。
その他にも、弘瀬、越知の黒瀬がある。

そしてその他の地域を差し置いて、仁淀川を渡り、越知、佐川方面に向かう橋が建設されていたいう事は、当時はこの「出来地」が地政学的に地域の中で最も先進的な場所であったという事。

しかしその地域は、僅かその半世紀後には、急激な過疎化と学校の廃校に向かっていた。

3-3-3 道路が拡張させる前は

国道が拡張され確かに便利になったかもしれないが、失うものも大きかったようだ。


帰りに柳瀬小学校の校庭に寄ってみる。


うーん、運動会は、合同でここで行われていたのかも。。。
3-4-2  帰りに柳瀬小学校の運動場

それとも隣の(現)道の駅で、
3コースだがプールもここ造られている。


が、そもそもプールが造られる以前からこの仁淀川沿いの集落には天然のプールがあった。
3-5-2  仁淀川


水流の速い場所があり、しかも水深10m。

確かに現在の基準で言えば「危険な場所」に違いない。
3-5-3  プールは退屈で薬臭い場所でしかなかった

しかし当時の出来地の人々にとっては、確かに水流が速く水深の深い場所のある川ではあったが、それは代々から存在する地元の川であり、危険も安全も知り尽くされた場所であった。

そしてそこは夏場になると、そこを知り尽くした地元の先輩たち、お父さんお母さん、お兄ちゃんお姉ちゃんに連れられて、子供達が「川」に慣れ親しむ場所でもあった。


現在の「水難事故」は、その様な場所で発生している。

何故なら、過疎化により地域の人々の姿が消え、その場所の危険も安全も知り尽くした人々のいなくなった場所に、突然、その場所の事を知らない人が泳ぎに来てしまうから。

しかも、川の事をよく知らないプールでしか泳いだ事のない人であれば不測の事態に陥るのは当然である。

我々は土佐湾で捕鯨をしてた民族である!!!!!!!

川で泳ぐ事が危険であるのではない!!

川で泳ぐ事が危険である事になってしまった現在の我々自体の在り方そのものが危険なのである。



帰路につく!!

そして

三瀬中学校、5月19日 午後四時!!
3-6-2  中学校 5月19日の四時なのに日当たりが悪い



なんと、、この最も日の長い時期にこの日当たりの悪さ・・・・・

もうグランドさえ日没を迎えようとしている。

三瀬村はその地形ゆえに苦労する事も多かったであろうが、だからこそ三つの「瀬」
柳瀬、楠瀬、勝賀瀬を象徴する場所であったのかもしれない!!!













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いつかは歩いてみたいと思っていた「野根山街道」。
しかし一泊二日で誰かと予定を合わせてキャンプとなると、なかなか予定を立てれそうな見通しすら無い。

そこで街道の途中にある米ヶ丘の分校跡から時間を決めて往復してみる事にした。
【奈半利小学校米ヶ丘分校】
http://shgogo65006854.livedoor.blog/archives/2809678.html

6時に出発出来ればもしかして12時に四郎ケ野峠に着けると思っていたが
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結局、スタートは7時20分になってしまった。

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しかし逆にそれで良かった・・・・・

もしに6時に出発してしまっていれば、本当に6時間後に四郎ケ野峠に到着してしまっていて、そのテンション高めの達成感と共に復路につくものの、実は想像以上に体力を消費してしまっていて、とても同じ時間で帰りつけるものではなかったから。

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ここから岩佐の関所までは10キロ

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道の状態は良い!!

しかしそれは平坦な部分のみで坂道は損傷が進み石がゴロゴロ状態。

「街道」と言えどジョギングシューズは厳しいというか危険かもしれない。


30分もしないうちに林道と交差
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二里塚(一里は約3.93キロ)
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あのでっかい杉のとこまで3.6キロ
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500mが体感より長く感じる山道
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その歴史1300年以上
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実はこの宿屋杉の話を聞いて、かれこれ20年。

いつかは絶対に行きたいと思っていた。
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そして、それが日時を決め練り上げた計画ではなく、突然それを思い立った日に実現できるとは思ってもいなかった。

しかし今までそれを妨げていたものは街道に行くための時間や仕事の都合ではなく、ただ単に「テントを持って一泊二日で行く場所」という先入観であった。

疑いもなく受け入れていた大前提は決して真実という訳ではない!!



遂に到着
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でも、先は長い
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どうやら林道と並走しているようだ
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そして再び林道に交差。ここから少し米ヶ丘よりに宿屋杉はある。
早い話が、ここまで車で来れば誰でも行ける場所になってしまった。

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当時は田野を出て、その日に野根に到着していた
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実は復路に登ろうと思っていたが、その時はもう体力も気力も残っていなかった。
2-13-2  帰りに登ろうと思っていたが気力も体力も残っていなかった


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加奈木の崩
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当時は見晴らしもよかった事だろう・・・
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10時28分
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歩いた街道内に現存する唯一の橋を渡り

米ヶ丘分校から3時間10分程で到着
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岩佐関所
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ここまで10キロ
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アジアの明治維新とヨーロッパのフランス革命は全く別物である。
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フランス革命の「国民主権」の思想は「専制君主」に対する「革命思想」で、結果として多くの血が流れた。
「無血」と言われる明治維新ではあるが、それは今は名もなき「国士」達の「情熱の記憶」でもある。



当時はここに関所があり街道を利用する多くの人々で賑わっていた
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集落跡と全く同じ構図であるが、当時の集落がそうであったように、ここもそのような場所であった。

参勤交代は大変な事だった、とか、地方の大名が幕府に反逆してくるのを防ぐために参勤交代で疲弊、浪費させた、、なんて教科書で教えているが、全くの嘘である。

参勤交代があったから街道沿いの街が栄え、経済が潤い、産業が発展した。

この街道の開発整備に携わる人々がいて、それを支える仕事をする人々がいて、そしてそこを定期的にお殿様御一行様が歩き、休憩したり、食事をして、お泊りになる訳だから、言わばそれに直接携わる人々には安定した仕事と収入があった訳である。
当然それは間接的に携わる人々にも波及し地域の活力が漲っていくのであった。

そして各地方の話、江戸を始めとする中央の話、世界情勢を含む最新情報が参勤交代によって街道から日本各地に伝達される。しかも日本の識字率は世界屈指のものであった。

そして我が国は明治維新以降の世界の舞台でその中心的な役割を果たすのである。



先に進む。12時20分までに四郎ケ野峠に着けるだろうか・・・・
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もしかして田野小学校の児童が遠足で!!2-17-3

そうだとすると、この先の路の状態は、良かったりして、、
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なんて期待するが、状況は変わらない


段ノ谷への道、これは興味がある。
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五里塚
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2-21-2 一の門

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そして米ヶ丘分校出発から5時間後の12時20分。
16.1キロ歩き、四郎ケ野峠にあと2.7キロの地点。
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あと1時間もせずにアスファルト道との接続点に着けるだろうが、ここで「反転」、「帰路」につく。

そしてこの判断は「正しかった」!!


何故なら想像以上に体力を消耗していて、もしここから調子に乗って峠に到着していたとしても、復路は決して6時間では帰れなかったからだ。



600㎜のペットボトルはあとほんの少し。
今回はちょっと無計画な部分が多すぎた。
2-25-2  具同寺に行ってみたい

関所まで2.5キロ
かなりペースが落ちている
それでも、もう一本買っておけば全然違っていた。

帰り道、視界に入る「具同寺」の文字が気になる!!
この先にお寺があるそうだ!!!
もうその「道」すら認識できない状態であるが、ここに「具同寺に至る」と記した方の思いや気持ちは、私が受け継いだ!!
道があれば行ってみたいが、道が無ければ、尚更行ってみたいぜ!!!

が、もうこの時はその気力も体力もなく・・・・・



見晴らしと日当たりの良い場所に着く!!
2-26-2  帰りにここで休憩

熊笹峠で休憩

思えば往復の時間を意識しすぎて、関所で5分程簡単な食事をしただけで全く休んでいない。
集落跡、軌道跡では各所に綺麗な水の流れる沢があったがここには無い。

それでもベンチに横になって少し寝ると回復!!

なんとか6時に米ヶ丘に到着!!

あのまま調子に乗って四郎ケ野峠に行っていれば大変な事になっていた。

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白石神社から関所に向かう道は一部昔の石垣が残された道であったと思っていたが
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実は導水路跡
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昔はここを山からの水が流れ耕作地を潤し、米ヶ丘を米ヶ丘たる姿にしていた。


現在は、当時の石と赤土と漆喰で作られていた水路は、経路を少し変え、ちょっと東によっている
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その下にあるこの池の水もこの導水路からの水である
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そしてこの米ヶ丘は江戸時代に開拓された場所
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現在の10m単位の等高線が表記された地図を持つ我々には、この場所が耕作地に適した場所であるという事を、「事後」に理解し把握し納得している。

しかし当然 ここは最初からこの様な風景の広がる場所ではなく、当時はその地図もなくただ人里離れた場所。

しかもどんなに土地が確保できても「水脈」が無ければその場所に描く耕作地は機能しない。

この付近の所謂「山頂」は、ここから北北東に1キロ程の場所で、高低差は80m程。
地形的には、耕作地にする平地を確保出来たとしても、そこに供給する水源は決して容易に確保できる場所ではないと思われる。

そこを開拓、開発し、現在の米ヶ丘、「お米」の丘に至る訳である。

そしてその大胆な発想は、ただの思い付きや偶然ではなく、自らの体験や経験、歴史的な根拠を持つ揺るぎのない自信を伴ったものだったはずだ!!



この美しい水田がそれを物語っている。
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当時の構造であるが、現在もその役目を十分に果たしている!!
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絶対的な性能としては、現在のそれを凌ぐものかもしれない。

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あと僅かで「米ヶ丘」-「四郎ケ野峠」往復は達成できなかったものの、その価値は十二分にあった。

それは一言で表現できるものではないが、ただ一つ言える事がある。

それは、過去、現在を含め、この野根山街道を歩いた人々には共有できる価値観であるという事。

そしてそれは、現在における価値観ではなく、時代を超えて日本人が共有できる価値観であるという事。



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昭和40年代生まれの私には懐かしい高校での「練歩会」

どうやら最近それが反対意見によって中止になりつつあるらしい。

いやもしかして既に、という状況かもしれない。

でもこの「野根山街道」が遠足の行き場所になったら面白い事になると思う。

何故ならここは戦後の自虐史観を洗浄出来る場所であるから。

朝、奈半利を出発し、関所でお昼、四郎ケ野峠を越え夕方前には野根に到着、が十分に可能である。

そしてそこは我々の長い歴史の中では、特に問題の無く、普通に一日で歩いていた道なのである。







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運動会、延期になった 補償しろ!!、遠足も、延期になったぜ、 補償しろ!!、、文化祭、中止になったな、金よこせ!!、、給食費、金がないから金よこせ!!、、密入国、したのに強制連行、謝罪しろ!!、、不法占拠、したから騒ぐ、わが領土!!、、放火した、これは事件だ誰のせい!!、、引っ越して、きたのにうるさい、寺の鐘!!大虐殺、したから作る他殺説!!
(以下略)笑笑


https://twitter.com/kanekaese300000/status/1256607968855916545?s=12&fbclid=IwAR0tWG_yBMY6ZtxdqV9hyuVIfzDfZK_syZ-g-UOw8m3norbAX-Xi3319-ok



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安芸の学校跡地、伊尾木林用軌道跡の訪問は既に完了し集落跡訪問は影野を残すのみ。
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そして思い立って先日向かったのだが、、、

伊尾木川を渡る影野橋崩壊のため断念。

なんともやり切れない気持ちが続く中、影野周辺の航空写真を見てみる!!


拡大


この様にほんの最近まで影野橋と奥の民家は昭和-平成-令和の時代を跨いで存在していた。


伊尾木川を渡る橋の名前は「影野橋」であるが、川の東が「影野」で西が「日浦」である。
(日浦方面の拡大)


なんと、規模は小さいがまだ建造物が確認できる


作戦決行の決断が下された!!!

そしてもう現在の資料にはその名の無い影野橋を渡った山の上にある「日浦」だが

杉ケ峯ー日浦ー宝蔵峠を越えー中ノ川への道と、その道と集落を繋ぐ道も健在


昭和40年代中盤に作成された地図にある3軒の民家+1軒の計4軒の民家跡が確認できた。

こんな感じ


それにしてもこの影野橋が崩壊するとは・・・
(平成28年11月)

(現在)

(平成28年11月)

(現在)


実は須藤のつり橋を渡って杉ケ峯から日浦に向かう予定だったが、ここで伊尾木川を渡る事にした。
4月下旬とはいえ、伊尾木川の水は冷たいといより「痛い」!!


なんてこった、、、


民家跡、林用軌道跡が完全に流れ去っている


金属製の橋桁がここまで


どうやら最近この伊尾木川を渡ったのは私だけではないようだ。


川沿いは大変な状態だったが道は普通に現存している


炭焼きの窯跡

が、日浦の集落跡周辺には炭焼きの窯跡は確認できなかった。

お鍋が落ちている。集落はすぐそこだ。


40分程登っただろうか。到着。


もしかして香水の瓶??


別役中学校野球部!!


サンダルが落ちている

もう地図からその地名さえ消えたこの山の中の集落跡にもサンダルを履く生活のある時代があった。

鹿の骨

この日は角突きの骨も見た

耕作地跡

作業をする人影があっても決して違和感の無い状態だ

三椏を栽培していたのだろうか


花咲く季節


そしてまさかの小屋


どうやらこれが航空写真に写っていた建築物のようだ


民家跡がある

そして風呂釜にしては小さい

ガスボンベ


集落の手前で見たものと同じ鍋


構造躯体が残っている

周辺の杉ケ峯、スドウ、天ノ郷には昭和41年の電柱跡があったが、この日浦にはない。
状態としてはほぼ同年代だが、もしかして一足先に住居としては下山し、その後も作業に通う時代が続いていたのかもしれない。

しかし影野橋から40分程登ったこの場所に、、、と思うかもしれないが、現代人にとっての山道の感覚と当時の人々にとっての山道は全く別物。
全く心配する事はない!!


ここにも釜がある。決して風呂釜ではない。


ではあの釜は一体何だったのか。
想定できる用途の一つに「三椏」がる。
以前に大豊で三椏の花が辺り一面に満開の場所を訪問した事がある。
そこでは昔は「紙」の原料として三椏を出荷していたそうだ。
でも、それはまた大変な作業で「大きな釜で茹でる工程」が必要だったそうだ。
現在でも「三椏」は紙の材料としての需要はあり、またその性能は非常に高いのだが、「なかなか大変でこんな山郷の民家で簡単にできるものではないよ」との事だった。
紙幣の材料もやっぱり本当は「三椏」が良いようで、私は各地を訪問する下準備でよく明治時代の地理院地図に触れる事も多いが、その後の昭和の時代、最近になって発行された地図と、100年以上昔に三椏で作られた地図では「折り目」の劣化の度合いが全く違う事に気付かされる。三椏で作った地図は100年以上経って人の手に触れる事もより多かっただろうが、「折り目が折り目である事による劣化」は殆どない。

キリンビール


その先に土地が広がりここが日浦本町一丁目


これが風呂釜


そして民家跡がある


尾根沿いの場所に地図にはない4軒目の民家跡


そしてこの尾根沿いには尾根に沿って深く掘った道が作られている


相当な量の土が発生した訳だが、石垣を組み、その土を入れ耕作地を広げ、収穫量が増え交通の便が良くなった。


地図ではこの周辺に尾根に沿って作られている「道」が他にもあるが、他もこんな感じなのだろうか。

現在の痕跡からその地政学的な理由を調べてみるのも興味深い。

またあのスドウの橋を渡って杉ケ峯に行ってみる価値はありそうだ。

集落跡から西の民家跡に向かうと道は尾根を掘割で通過する。


そしてすぐに今度は岩盤を砕いて作った切り通しがある。

畑山から正藤、そして中ノ川から繋がる道は、ここで岩盤を砕き出来るだけ平坦に杉ケ峯に向かう道と、尾根を少し迂回し高度を下げながら日浦の集落に向かう道に分かれる事になる。

そしてここからすぐ先に、目視できる距離に、地図に示された通りに耕作地跡ある。


民家の敷地


民家跡


肥溜め跡


硝子格子のある民家であった


この「日浦」という場所は現在の安芸市にはない地名で、影野に含まれる地域になったいるようだ。


昭和40年代初期に電気の来た周辺の杉ケ峯、スドウ、天ノ郷が現在もその地名を残し、この日浦と呼ばれる場所は電気のある時代を迎える事なくその幕を閉じたようだが、その差はほんの数年で、もしかしてその逆に電気は来ていなくても同じようにまだ人々の生活のあった場所であったかもしれない。

一つだけ確実に言える事は、ここもほんの最近まで誰かの故郷であったという事。そして明治を超え「江戸」生まれのお父さんお母さん、お爺ちゃんおばあちゃん、ひじいちゃんひばあちゃんの住んでいた場所であった。

電気もガスも水道も無い場所であったが「山は蒼きふるさと、水は清きふるさと」がここにもある。

でもお醤油は


ヒゲタ醤油


でもヒゲタ醤油も江戸初期から続く歴史の長い日本のお醤油である。

宝蔵峠に向かう道の状態も良好


ここから杉ケ峯に向かう道は岩盤の切り通しを抜け


日浦の集落の少し上をまるで等高線のように走り


そのまま杉ケ峯に向かう


少し幅は狭いが、この下の伊尾木川沿いを走る林用軌道のように


そしてまた林用軌道跡がそうであるように石垣を組んで橋を作っていた沢の場所は、さすがに半世紀を超える自然環境の中で崩壊が進んでいる


それ以外の場所は半世紀以上手を付けていないので傷んではいるが


私にとっては美しい快適な山道でしかない。
また数百年と続く集落とそれを繋ぐ道が、たった数十年で消えるはずもない。

この先に杉ケ峯がある。

もう少しで到着しそうだが、時間と地図と地形と状況 状態を考えて引き返す事にする。

また長靴で伊尾木川を横切れる場所を探し上流に向かうが、やっぱり無い・・・・・

裸足で川を渡った後の岩石の温もりが嬉しい!!

石垣を組み耕作地を作る事は地盤の強度を確保するだけでなく、日が沈んだ後も温められた石が温度を保つからである。

なんてこった・・・・

車を埋めていたのか



その先の川辺には

林用軌道のレールが流れついている

基本的に軌道跡のレールは全て撤去されているはずであるが、一か所だけ心当たりのある場所がある。
もしかしてあの場所が崩壊し、そこから流れてきたのだろうか。
いずれにせよその水量と勢いの規模が想像できる!!



伊尾木川は令和の時代に入り、昭和、平成とは違う表情になっている。



今回、日浦の集落と、そこから繋がる道を確認出来た。

現在の各集落には海沿いの国道を起点に各々の集落に一番近い川沿いの道を進むしかないが、ほんの最近まで海沿いから山奥の各集落は山を越え谷を越えた「道」で現在以上に密接に繋がっていた。

そしてその「道」は決して現在の車社会と比べて困難だったり大変だったりするものではなく、明るく快適で非常に便利なものであった。






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【5月3日は東京裁判開廷記念日です】

昭和21年4月29日  東京裁判起訴状提出
昭和21年5月3日   東京裁判開廷
昭和21年11月3日  日本国憲法発布
昭和22年5月3日   日本国憲法施行
昭和23年12月23日 東京裁判死刑執行

東京裁判は昭和節の4月29日に起訴状が受理され5月3日に開廷。
半年後11月3日の明治節に日本国憲法が発布。
その半年後の5月3日に日本国憲法施行。
そして東京裁判死刑執行の12月23日は皇太子誕生日。(なんと現在の上皇様)

また陸軍記念日の3月10日は東京大空襲の日。昭和16年12月8日宣戦布告4年後の12月8日には「太平洋戦争史」という占領軍の作成した戦争史観が全国紙に掲載され歴史の捏造が始まり、同15日には「大東亜戦争、八紘一宇、、」等の言葉が使用禁止とされました。
昭和21年4月3日0時53分には、4年前にバターン半島のアメリカ軍に総攻撃命令を出した本間中将を同時刻に銃殺。しかも4月3日は神武天皇祭です。

5月3日を「憲法記念日」として祝う事は「東京裁判開廷日」を祝日として祝う事になります。
まあ、私は祝いませんけどね!!!!

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)?fbclid=IwAR0XlJFkpyIWsHawc2tzJuvsnUX2PnDGQ_27qBTDt4k1D0mKdTGOIPGkqoY






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