2020年04月
「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」平成25年4月28日
https://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0428shikiten.html?fbclid=IwAR1Fk0xeYiOQOAxv-o-INNsNvzqbq0KzGP0Y_qguxCCVA1c5L6HtVaxzZP4
大東亜戦争は昭和16年(1941年)12月8日の日本の宣戦布告で始まり、昭和20年7月26日の連合国側のポツダム宣言を受け同8月14日に受諾を通告、翌9月2日、戦艦ミズーリ上で停戦協定が結ばれ3年8か月の戦闘期間が終了します。
そしてポツダム宣言受諾に基づき連合国の占領政策を受け入れ、昭和27年(1952年)4月28日「サンフランシスコ講和条約」が成立、戦争状態が終結し占領政策の終了、日本は主権を回復し国際社会に復帰する事となりました。
先の大戦は宣戦布告から3年8カ月の戦闘期間と、停戦協定から占領政策を経て講和条約成立までの6年8カ月で終結します。
そして現在の「日本国憲法」はその6年8カ月の連合国による占領政策期間に制定されたものです。
そしてそれはポツダム宣言の内容に沿ったものある事は当然の事で、新しい憲法が制定された訳ですから、その憲法に準ずる形で国家の秩序や価値観が形成されたのも当然の事です。
しかし日本はその後 連合国と講和条約を結び占領政策を終了させ主権を回復し独立国として再び国際社会に復帰します。
当時の日本の指導者達が占領政策を受け入れ東京裁判に臨み潔くその結果に従ったのは、ただ純粋に連合国と講和条約を結び日本の主権を回復し独立国として再び国際社会に復帰させるためにです。
だから独立国として再び国際社会に復帰した日本は、戦争中に外国によって制定された憲法は破棄しても改正してもいいのです。
ところで、この式典に御臨席された当時の天皇皇后両陛下は今や『上皇様』となられております。
つまり日本国憲法を超越した日本の規格外の偉大な存在であるという事です。
一言「現在の国際情勢を鑑みて国家の体制を再整備するように!!!」なんて言って頂ければ我々日本国民は即座に次の作業に着手する準備は出来ております。
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本日、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、各界多数の方々のご参列を得て、主権回復・国際社会復帰を記念する式典が挙行されるに当たり、政府を代表して、式辞を申し述べます。
61年前の本日は、日本が、自分たちの力によって、再び歩みを始めた日であります。サンフランシスコ講和条約の発効によって、主権を取り戻し、日本を、日本人自身のものとした日でありました。
その日から、61年。本日をひとつの大切な節目とし、これまで私達がたどった足跡に思いを致しながら、未来へ向かって、希望と、決意を新たにする日にしたいと思います。
国、敗れ、まさしく山河だけが残ったのが、昭和20年夏、わが国の姿でありました。食うや、食わずの暮らしに始まる7年の歳月は、わが国の長い歴史に訪れた、初めての、そして、最も深い断絶であり、試練でありました。
そのころのことを、亡き昭和天皇は、このように歌にしておられます。
「ふりつもるみ雪にたえていろかえぬ松ぞををしき人もかくあれ」
雪は、静謐のなか、ただしんしんと降り積もる。松の枝は、雪の重みに、いましもたわまんばかりになりながら、じっと我慢をしている。我慢をしながら、しかしそこだけ目にも鮮やかに、緑の色を留めている。わたしたちもまた、そのようでありたいものだという御製です。
昭和21年の正月、日本国民の多くが、飢餓線上にあえぎつつ、最も厳しい冬を、ひたすらしのごうとしていた時に、詠まれたものでした。
多くの国民において、心は同じだったでしょう。
やがて迎えた、昭和27年、主権が戻ってきたとき、私達の祖父、祖母、父や、母たちは、何を思ったでしょうか。きょうはそのことを、国民ひとりひとり、深く考えてみる日なのだと思います。
61年前の本日、国会は、衆参両院の、それぞれ本会議で、主権回復に臨み、四項目の決議を可決しております。
一、日本は一貫して、世界平和の維持と、人類の福祉増進に貢献せんことを期し、国連加入の、一日もすみやかならんことをねがう。
二、日本は、アジアの諸国と善隣友好の関係を樹立し、もって、世界平和の達成に、貢献せんことを期す。
三、日本は、領土の、公正なる解決を促進し、機会均等、平等互恵の、国際経済関係の確立を図り、もって、経済の自立を期す。
四、日本国民は、あくまで民主主義を守り、国民道義を昂揚し、自主、自衛の気風の振興を図り、名実ともに、国際社会の、有為にして、責任ある一員たらんことを期す。
以上、このときの決議とは、しっかりと自立した国をつくり、国際社会から、敬意を集める国にしたいと、そういう決意を述べたのだといってよいでしょう。
自分自身の力で立ち上がり、国際社会に再び参入しようとする日に、私達の先人が、自らに言い聞かせた誓いの精神が、そこには汲み取れます。
主権回復の翌年、わが国が賠償の一環として当時のビルマに建てた発電所は、いまもミャンマーで、立派に電力をまかなっています。
主権回復から6年後の昭和33年には、インドに対し、戦後の日本にとって第一号となる、対外円借款を供与しています。
主権回復以来、わが国が、東京でオリンピックを開催するまで、費やした時間はわずかに12年です。自由世界第2の経済規模へ到達するまで、20年を要しませんでした。
これら、すべての達成とは、わたくしどもの祖父、祖母、父や、母たちの、孜々たる努力の結晶にほかなりません。
古来、私達日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣を祈ってきた豊かな伝統があります。
その、麗しい発露があったからこそ、わが国は、灰燼の中から立ち上がり、わずかな期間に、長足の前進を遂げたのであります。
しかしながら、国会決議が述べていたように、わが国は、主権こそ取り戻したものの、しばらく、国連に入れませんでした。国連加盟まで、すなわち、一人前の外交力を回復するまで、なお4年と8カ月ちかくを、待たなければなりませんでした。
また、日本に主権が戻ってきたその日に、奄美、小笠原、沖縄の施政権は、日本から、切り離されてしまいました。
とりわけ銘記すべきは、残酷な地上戦を経験し、おびただしい犠牲を出した沖縄の施政権が、最も長く、日本から離れたままだった事実であります。
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」。佐藤栄作首相の言葉です。
沖縄の、本土復帰は、昭和47年、5月15日です。日本全体の戦後が、初めて本当に終わるまで、主権回復から、なお20年という長い月日を要したのでありました。
沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった、戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は、意味をなしません。わたくしは、若い世代の人々に特に呼びかけつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く、思いを寄せる努力をなすべきだということを、訴えようと思います。
わが国は再びいま、東日本大震災からの復興という、重い課題を抱えました。しかし、同時に、日本を襲った悲劇に心を痛め、世界中から、たくさんの人が、救いの手を差し伸べてくれたことも、私達は知っています。
戦後、日本人が、世界の人たちとともに歩んだ営みは、暖かい、善意の泉をはぐくんでいたのです。私達はそのことに、深く気づかされたのではなかったでしょうか。
なかでも米軍は、そのトモダチ作戦によって、被災地の人々を助け、汗と、時として涙をともに流してくれました。かつて、熾烈に戦ったもの同士が、心の通い合うこうした関係になった例は、古来、稀であります。
私達には、世界の行く末に対し、善をなし、徳を積む責務があります。
なぜなら、61年前、先人たちは、日本を、まさしくそのような国にしたいと思い、心深く、誓いを立てたに違いないからです。
ならばこそ、私達には、日本を強く、逞しくし、世界の人々に、頼ってもらえる国にしなくてはならない義務があるのだと思います。
戦後の日本がそうであったように、わが国の行く手にも、容易な課題など、どこにもないかもしれません。
しかし、いま61年を振り返り、汲むべきは、焼け野が原から立ち上がり、普遍的自由と、民主主義と、人権を重んじる国柄を育て、貧しい中で、次の世代の教育に意を注ぐことを忘れなかった、先人たちの決意であります。勇気であります。その、粘り強い営みであろうと思います。
私達の世代はいま、どれほど難題が待ち構えていようとも、そこから目をそむけることなく、あの、み雪に耐えて色を変えない松のように、日本を、私達の大切な国を、もっとよい、美しい国にしていく責任を負っています。
より良い世界を作るため、進んで貢献する、誇りある国にしていく責任が、私達にはあるのだと思います。
本日の式典に、ご協力を頂いた関係者の皆さま、ご参加を下さいました皆さまに、衷心よりお礼を申し上げ、わたくしからの式辞とさせていただきます。
平成25年4月28日
内閣総理大臣 安倍 晋三
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春野・平和団地の愛宕神社
春野東小学校の北東の山頂には神社がある。
一見、地図には何の記載も無いかに見えるが、実は拡大すると小さな建物が示されている
【地理院地図・昭和33年】
昭和50年頃の航空写真
拡大
平和団地に入り、神社に向かう
階段を登り
インフラ設備地帯を抜けると、そこからは当時のまま
学校の裏にまさかこんな場所があるとは思ってもいなかった
竹のほうきが数か所置かれていて道の整備に利用されている
そして使い切ったほうきはこの様に
美しい竹林道
当然ほうきを使ってきた
鳥居がある
大正時代のものだ
御神木
壮大な自然
石段の前にも竹ほうき
石段を登る
壮大な歴史を感じさせる
到着
愛宕神社
平成、昭和、大正、明治のその前の時代から継続している風景
明治の時代から
こちらも
明治の時代から
諸木の灘方面に向かってみると
こちらからにも鳥居がある
昭和53年
平和団地ではなく諸木の「灘」
この頃 平和団地はまだ開発中の段階であった。
40年前にこのような立派な鳥居を建てたものの、現在の灘側からの道は随分と荒れていて、下の里から愛宕神社に向かう人はもう限定的なもののようだ。
とはいえ神社に向かう道の付近には、例えばタケノコを掘る人の姿があったりする。
その先の景色から現在地の確認が出来たので灘側には降りずに平和方面に降りる
そしてその道が現代の道に代わる直前
肥溜め跡である
ただの「くぼみ」にしか見えないかもしれないが、これは「肥溜め跡」である。
年代的には昭和40年頃を中心にして無人となった高知県内の各集落の民家跡より古く、そして更に春野の柏尾山も麓にあった柏尾寺の傍にあった民家跡よりも少々古い時代のものだ。
かつて柏尾山を見渡せるこの場所に
住居があり、当然、柏尾山からもこの場所を日常のように確認出来ていた。
そこからも大東亜戦争以前の神社というものが現在とは全く違う存在であった事が分かる。
昭和の時代の日本各地の神社がそうであったように、この春野の各部落の各神社も毎年夏祭りは子供達を中心とする大勢の人々で賑わっていた。
出店が並び花火で遊ぶ浴衣姿の子供達がお約束だったあの光景だ。
ではこの愛宕神社もそうであったかというと、そうではなかったかもしれない。
各時節の祭り事はあっただろうが、集落に密接した場所ではなく、少し人里から離れた山の上にある。
そしてなにより、この平和団地が出来る前の山の場所は地元では「ハミ山」と呼ばれ、「マムシ」の多く生息する山であった。その後、そのマムシ達は周辺に散らばりマムシに噛まれた人も多くいたそうだ。
ーーーーーーーーーー
マムシは神である。
何故ならマムシがその毒牙を持って自然の中に生息していなければ、植物が成長し多くの生命を育む季節に、心無い人間にその息吹が蹂躙されてしまうからだ。
そしてそのマムシの一撃は相手に致命的なダメージを与える事になるが顎の骨のないマムシはその事で自らの命を落とす事にもなる。
またマムシはその牙からの毒を持っているがゆえ頭を叩かれると、毒が回り命を落としてしまうという弱点を持っている。
ではそんなマムシの生命の目的は一体何なのか。
自分より数倍、数十倍、数百倍以上も巨大な相手に致命的な一撃を与える牙を持ちながら、同時にその事で自らの命落とす宿命に生きる、その命の目的は。
それは大自然の秩序の安定である。
植物が成長し多くの生命が育まれる季節に、人間を含めたその他の動物たちが必要以上に己の私利欲望に走り他の命を貪る事のないようにするため、そしてまたそれは決してそれぞれの生命が大自然の秩序の中で力いっぱい生を楽しむ事を邪魔するものでもない。
ーーーーーーーーーーーーー
そんな「ハミ山」と呼ばれた山の上にある神社で各時節の祀り事は行われていても、お祭り騒ぎがあったとは考え難い。
そしてこの愛宕神社は各部落の各神社とは趣も違い、「別格」の存在であったのではないだろうか。
そしてその場所から見渡す柏尾山の「柏尾寺」と同格であったと。
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大正・大正林用軌道③
再び大正林用軌道跡に向かう
目的は当然あのインクライン跡!!
七子峠の「なかむら屋」は9時から営業!!
ここで朝ご飯!!
そして軌道跡に到着
前回、地図で示した営林署跡をショートカットしインクライン跡に向かう
【前回作成した地図・実は間違っていた】
が、何やら様子がおかしい・・・・・・・
何故なら、下の川の流れを見てみると、なんと俺は下流に向かって歩いている・・・・・
が、整理してみるとこういう事だった
【書き直した地図】
佐川の対岸に渡り切り通しで方向転換し再び佐川を渡ると思っていた第一ヘアピンは、実は佐川の支流を渡る路線であった。
地図に佐川の支流の記入はないが、水量が結構多いため、佐川本流と勘違いしていた。
帰りに半島に延びる杣道から第一ヘアピンの切り通しに到達し、やっと状況が理解できた。
また第一ヘアピンから第二ヘアピンにかけて軌道は殆ど高度を上げる事はない。
いやそれどころかあえて高度を上げる事を避けながら、あの営林署に向かう。
そして前回のインクライン跡を登る
前回見たレールを過ぎ
その先に進む、というか駆け上る
断線したワイヤー
連結金具も落ちていて
更にレールも
と、昭和の時代の軌道跡の物的証拠が平成の時代を超え令和の時代になってもこの斜面に存在している
それは当然、この斜面に、そしてこの上に軌道跡が存在しているから、もしくは存在していたからあり得る状況ではあるのだが、この先でインクラインの始点ともなりそうな平場もなくありのままの原生林で終了する。
インクライン跡は「森の轍」の路線図にもあり、私自身が大正の学校跡地訪問の際、実際に地元の方から「今でも路線はあり、インクライン跡もしっかりと残っている」という話を聞いた。
(当然その証言がこのインクライン跡に向かう原動力にもなっていた)
が、その話は一体何時の時代の話であったのであろうか・・・・・
確かにはっきりとインクライン跡が残っていた時代はあったはずである。
【昭和50年頃の航空写真】
大正林用軌道の廃線は昭和42年
当然この頃はインクライン跡は当然の事、佐川を渡る最初の橋も確認できる
・赤枠部分の拡大
営林署跡も第一ヘアピンの橋も、切り通しへも杣道さえ確認できる
当然、この時期以降も「路線もインクライン跡も現存する話」は十分に現実的な話であった。
そして時間の経過とともにその話も、状態も風化してゆく。
それとも私がこの短い区間で大きな見落としをしてしまっているのであろうか?
仮にそうだとしても、ではあの斜面に落ちていたレールや金具は一体何だったのだろうか。
勿論これはインクライン跡に限定した話であって、その上の軌道跡の存在を否定するものではないが、(というか否定する事は出来ない) 廃線から半世紀でインクライン跡が始点終点を含めて完全に消滅してしまうという事はあるのだろうか??
実際に訪問した私自身がなんとも答えを出せない話であるが、でも、しかし、ここで一つだけ誰もが納得出来る明解な事実を出しておこう!!
確かに大正林用軌道の廃線は昭和42年なのだが、それはその他の路線が昭和30年代後半から40年頃に掛けて廃線になったのと比べてほんの数年遅いだけの話で、またここに限らず全ての林用軌道は全線が同時に稼働し、同時に廃線になった訳でもない。
この航空写真は昭和40年頃に廃線となった『安芸 伊尾木林用軌道小川線・終点付近』のインクライン跡である。
当然、この上で使用している航空写真を大正町から同時期の安芸市へ視点を変えただけである。
なんと全くの同時期でありながら、こちらはインクライン跡がはっきりと目視でき、路線跡もより明確で、しかも営林署は建物が現存しているではないか。
この事から、大正林用軌道のインクライン跡は、軌道全体の廃線時期は昭和42年と比較的新しいいながらも、その歴史の中では上部の路線と一緒に早めに幕を閉じ、その時間の経過と自然環境の中で現在の姿になったのではないだろうか!!
もう一度軌道の最終地点付近に
ワイヤー
終点付近で確認できる最後の橋の架台
軌道はこの先を少し進んだ場所で終点となりそこは岩盤の渓谷となっている
地図にはこの先、橋を渡り先に進む道が記載されているがとても近代的な橋を架けれそうな地形ではない。
大正林用軌道、いや日本中の全ての林用軌道が廃線となりもう半世紀以上!!!
廃線とは悲しい側面を持つが、しかしそれ以上に別の意味でその地域が新しい時代を迎える希望に満ちた出発点でもあった。
何故なら昭和39年に東京オリンピックを迎えた日本は既に世界最先端の技術を誇る新幹線、高速道路の時代に入り、日本全国の林業を基幹産業とする地域も旧式の軌道の時代から自動車の時代を迎える事となるから。
軌道跡は車道に転用されたり、新たに新規道路が整備され、今まで山道の先にあった学校の校門前まで自動車で乗り付ける事の出来る時代となった。
そしてその勢いで更なる発展繁栄を遂げるはずであった。
誰もがそう思っていた。
またその人々の想いや気持ちは、昭和40年代から50年代にかけての学校校舎の移転新築近代化からも十分に伺う事ができる。
その頃から始まった過疎化、人口流出も単なる一過性の現象と捉え、その先の未来の地域の発展繁栄を視野に入れ更なる大きな敷地に二階建鉄筋コンクリートの校舎にプール、体育館を建設した。
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この期に及んでパチンコ屋が自粛しない訳は!!
この期に及んでこの状況なのですが、逆にパチンコ屋というものが日本にとって、社会的に、そして歴史的に一体どの様な存在であるかという事を日本国民全員が認識するいい機会だと思います。
大体、駅前などの街の一等地に何故あれ程までにパチンコ屋、焼き肉屋、宗教団体の施設があるのか?
もしかして戦後、そこの土地の持ち主が転職してパチンコ屋、焼き肉屋、宗教団体を始めたのか???
いやいやそんな事はありません。当時、日本の男達は戦場に赴いていました。
残っていたのは婦女子、子供、老人で、男手の無い中で必死に生活していました。
そこに「自称・戦勝国民」と名乗る特定の外国人が土足で乗り込んできて、強奪、強盗、殺人、強姦、暴行を行い日本人の土地、財産を奪い、そのまま現在まで居座っているのです。
そして、この非常事態にこの有様ですから、根本的にメンタリティーが日本人とは違いますよ!!という事を彼ら自身が証明してくれているのです。
そして何より重大な事は、彼らは常に非常時、緊急時、混乱期には同じ事を繰り返してきたし、この次もまた同じ事をする!!という事です。
パチンコ屋の金が北朝鮮に流れるのも、焼き肉屋にハングルが多いのも、カルト宗教の教祖が半島出身者であるのも全て理由は同じです。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6358121?fbclid=IwAR0z-ztuARJJwe811-YJIq2FJbV08hPFsdj4oFz_TeYmucOUxkehjbzvvXU
先の大震災の時も電力が枯渇する中で、彼らは全力で営業していましたね!!
我々が彼らに求めるべきものは「協調」でなければ「共生」でもありません。
!!!!
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マイ筋トレルーム開設
あの土佐市の「元気クラブ」さえも!!
この緊急事態に際し、我々日本国民は、国からの「お願い」でここまで統率の取れた行動が取れる。
日本の戦前と戦後を比較し、この先、未来に向けて修正すべき点は多々あるが、日本の長い歴史の中で見れば我々日本人は相変わらず全く何も変わっていない。
「東日本大震災」、「阪神淡路大震災」、、、、、「大東亜戦争(第二次世界大戦)」、「第一次世界大戦」、「日露戦争」、「日清戦争」、「明治維新」、「白人が世界各地を侵略する中で260年間の鎖国を通した江戸時代」、「あれだけ日本国内で戦いが勃発していたのに全く外国に侵略される事のなかった戦国時代」、、、「元寇」・・・・・
我々は降りかかる国難に際して一致団結してそれを乗り越えてきた。
困難に立ち向かい、勇気と知恵でそれを乗り越え、新たな歴史を刻もう!!!
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でもこのまま筋トレを「自粛」する訳にもいかないので、自宅の倉庫に眠っていた30年前に通販で買った筋トレセットを引っ張りだしてきて「マイ筋トレルーム」開設!!!
でもラックもプレートもサビまくっている
だから塗り替えする事にした!!!!
【錆止め】
プレートは特に錆が進行しているのでサンダーを掛ける
プレートも文字の部分の凹凸は30年分の埃が溜まっている
ここは刷毛をラッカーシンナーで洗うついでに、その刷毛で掃除すればいい
ラッカーシンナーは揮発性が高いのですぐに乾燥する
また錆び付いた金具は、ラッカーシンナーにドブ漬けし、その後でグリグリしてやれば復帰する
乾燥時間はしっかり取りましょう!!!
(でないとプレート同士が仲良くなりすぎます・笑)
ブルーで
そしてレッドで
文字起こし
完成
・女は硝子の仮面で本当の横顔を隠してる
男は心の何処かに錆びた夢を抱えてる♬
【SHOW-YA・私は嵐】
なんか錆びた夢の錆を落として気分一新したみたい!!!(笑)
頑張ろう!!!
でもさすがに30年、地べたに置いていた部分は錆が酷い!!
ちょっと補強を含む対策をたてないと、ヤバいと思う!!!!
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大正・大正林用軌道②
第二ヘアピンの営林署跡から西北に向かう
営林署御用達の機体
木製の橋を渡り、第一ヘアピンの大きな切り通しを抜け到着
そしてこの機体は帰還する事はなかった
掘割を抜ける
殆ど倒木の無い路線跡
地図の四つ又路の場所だろう
営林署跡がある
当然、対岸に渡る橋は既に無い
そろそろインクライン跡、そして終点だろうか、、、、
軌道はこの自然に手を付ける事なく水しぶきを浴び進んでいた
ここで天然水の水分補給
インクライン用のワイヤーのアンカーだろうか
が、実はインクライン跡と思われる場所はこのアンカーの向きとは反対方向にあった・・・・・
その先の沢を渡る
川にはワイヤーが落ちている
橋の石積み横の杣道を登り少し歩いた場所が終点だったようだ
引き返しアンカーの場所から少し戻った場所に
最初は気付かなかったがこれがインクライン跡なのだろうか!!
少し登ってみると
軌道の線路が土砂にまみれている
上から
上から落ちてきたであろう線路もあるし、ここがインクライン跡と思えるが、、森の轍の資料の場所と少しずれているし、インクラインの終点の路線場所があまりにも狭すぎる。そしてあの巨大なアンカーの反対方向にある事など不安材料は残る・・・・
だったら上に登って確認すればいいじゃないか!!!
と、いきたいところだったが、さすがにこの高低差300mのこの勾配を登る戦力は残っていなかった。
伊尾木林用軌道の影野周辺を彷彿させる枕木跡
と言ってもそれは私が訪問した4年前の影野と現在の今ここの軌道跡を見ての感想で、
同じ場所を訪問した者同士であったとしても、時期が違っていれば、姿形表情が違うので共有できる感想ではないのかもしれない。
現に、伊尾木も昨今の豪雨で4年前と大きく姿を変えている。
帰りに下津井の仁井田神社に参拝
仁井田神社からの下津井の風景(右手の大きな屋根は下津井小学校)
インクライン跡を登り、上の路線跡の調査の計画はあるが、時期は未定である!!
>;!!
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大正・大正林用軌道①
http://shgogo65006854.livedoor.blog/archives/cat_53746.html
下津井の奥の佐川には当時の軌道跡とインクライン跡が今でもしっかりと残っている!!という話を聞いた。
そしてそのインクライン跡は「森の轍」の資料にも記載されている。
http://sinrinkidou.yumenogotoshi.com/
久しぶりに大正町(現・四万十町)に向かう。
時間は9時過ぎ、その前に朝ご飯
まずはお好み焼き
そして、かけうどんの小 天かす、鰹節は、昆布のトッピングは無料
椎茸の天ぷらは110円
場所は久礼坂を超えた七子峠の先のなかむらや
現地に到着
大正町の林用軌道跡の代名詞ともいえる「めがね橋」を超え
【めがね橋と下津井橋】
その先の林道に転用された軌道跡を進む
対岸に渡る橋の手前に一定以上の水量の集まりそうな沢がある
現在は埋め立て式の排水路が設置されているが
当時は橋を架けていたようだ
少し山手に迂回し、排水管を埋め立てた道にしたようだ
そして次のカーブで道の勾配は軌道のものから自動車用の勾配となる
またこの区間で最も両岸が接近し、最も対岸に渡る橋を架けやすいその場所に橋はあった
橋があったのは昭和の時代(平成一桁頃にはあったかも・・・)
平成を超えた現在の令和の時代にもう橋はない
林道を延長するときに橋と軌道の橋の跡も消滅したのだろうか
が、しかし対岸の橋の架台跡は健在
川を渡り対岸に軌道跡に向かう
軌道跡を確認
しかし何故だか下流に向かっても道は伸びていて炭焼きの窯跡があり
その先に
当時の林用軌道御用達の切り通しがある
この先には橋も架けれそうにないのに一体この区間は何なのだろう????
橋も場所に戻り先に進む
この軌道跡全てを通して言えるのが、枕木が多いという事。
リヤカー
廃線が昭和42年だから状態も良い
橋崩壊、一つ目
そしてまたこの区間に現存する橋は存在しなかった。
当然と言えば当然の話ではあるが、同時に他の軌道跡には出現するコンクリ製、金属製の橋は無かったという事でもある。
対岸
それでも橋が崩壊したのは平成の時代だったようだ
落石や土砂崩れはあるが軌道跡の状態は良い
沢には自然と調和した水路が確保されている
そしてだからこそ当時のそのままの姿で現在に至っている
硬い岩盤に造られた軌道は殆ど損傷無し
伊尾木の小川線にもこの様な区間があったのを思い出す
営林署の看板
切り通しを抜け
営林署跡がある
ほぼ完全な状態で現存している
両輪が独立していなかった時代
それにしても枕木跡が多い、しかしこれも時間の経過とともに姿と表情を変える
線路はここで佐川を対岸に渡るようだ
崩壊した木製の橋が見える
その下の川には
レール1本目
二本目
その後の杣道の躯体として利用されていた感にも見える
(こちらのほうが地図と同調している)
橋は対岸の半島の岩盤に造られた切り通しに
そしてすぐに
また対岸に戻りヘアピンを構成している
【こんな感じ】
第一ヘアピンを過ぎ第二ヘアピンへ向かう
拡大
そして第二ヘアピン手前、営林署跡お約束の
地図にもあるように第二ヘアピンは比較的広く平坦な場所
軌道は石積みの右を走る、枕木の跡も確認できる
連結金具
第二ヘアピンに突入する
そしてどうやらここは巨大な営林署跡のようだ。
またそれだけでなく、製作所、製材所を兼ねていたかもしれない
石垣跡
そして軌道は
左に向かって石垣の上を走るのではなく
奥の切り通しに突入し
一旦この場所から姿を消すが
ここで方向転換し
再び営林署の中を走る
集落の中の道のように見えるが、これが軌道跡。枕木がしっかりと現存している。
本線から逸れた場所に線路が固定されている
何かの施設があったのだろう
楕円形でしかもアンカー付き、、、、、どうやら「風呂」ではないようだが・・・・・
これも軌道跡
集落跡の道に見えるが枕木がしっかりと残っている
この先の右手にインクライン跡があるようだ!!!!
;!!
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梼原・家篭戸
大正林用軌道インクライン跡の後に訪問したのが、そこから北上した梼原の「家篭戸」
理由はその地名の特異性。
松原小学校跡を過ぎ左折し初瀬西小学校跡方面に向かう。
二度目の左折が「家篭戸」への道だ。
道も良好、周辺の集落も明るく、学校は廃校になったとはいえ人々の姿がある。
そして家篭戸への道に進み、地元のばあちゃん二人が話をする横を通り過ぎ家篭戸に向かい右折する。
が、、、いきなりそこからダートの道に。
周辺の集落は令和の時代にも続いているようだが、どうやら、、やはり、、家篭戸は昭和の時代の集落のようだ。
それでも令和の時代になっても現存する、受け継ぐべきもの、引き継ぐべきなにかを予感しながらすすむ。
その大きな理由の一つに、まだ電線が通っているから。
ダートではあるが状態は良い。
その先に「家篭戸橋」 設置されたのは昭和51年
それまでは「つり橋」だったのだろうか。
それとも川を渡るための簡易な設備があったのだろうか。
いずれにせよ、ここが当時からの「道」であった。
この先も電線が続くが、すぐに家篭戸一丁目に到着
家篭戸川にそって東西に延びた耕作地跡が出現。
電柱もここで終了
かといって、ここに民家が現存し電力を供給している訳ではない・・・・・
この先も家篭戸川を右に左に渡りながら進んだが、どうやらその後にできた作業道らしい
集落跡を下流にむかって
現在の基準では民家跡に見えないが、民家跡だと思う
あの分岐手前で地元のばあちゃん二人組に話を聞いておけばよかった
お墓はあるが、神社が見当たらない・・・・だけで、あるはず!!
そして集落の中央には耕作地を潤す水源がある。
かつて遠い昔、この地にたどり着き、水源を確保し、原野を開拓し、この地に生活の基盤を築いた先人達の勇気と知恵と、なによりもそのバイタリティが今の日本の礎になっている。
そしてここには、屋台があった・・・・・
・・・・・んな訳ねぇーーーーよ(笑)
それにしても、この家篭戸に児童生徒たちは一体どの道を使って小学校中学校に通っていたのか。
そして尋常小学校、尋常高等小学校に通っていたのか・・・・・・
この状況からすると昭和51年に家篭戸橋が設置されたとき、既に家篭戸の集落は無人ではなかったと思われる。
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(令和2年4月22日追記)
【昭和50年の航空写真・家篭戸周辺】
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現在ネット上には家篭戸に関する具体的な情報はない。
(とはいえ、現地付近に行けばまだまだ話は聞けそうです)
が「カロウト」という地名に対する興味深い記事があった。
https://www.shimanto-chimei.com/%E3%82%AB%E8%A1%8C-%E3%81%8B%E3%81%8D%E3%81%8F%E3%81%91%E3%81%93/%E3%81%8B/%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%88/
かろうと(カラヲト・唐櫃・唐音・鹿路都・家籠戸)
■編集子の語り
遠い昔、カロウトの話を聞いたことがある。多分、梼原の家籠戸のことであったが内容はよく覚えていない。寒い風が通り抜けるような「カロート」の音が今も耳に残っている。
このカロウト、先日NHK新日本風土記で放映していた。尾瀬の福島側の入山口となる雪深い奥山・福島県桧枝岐村では江戸時代から昭和30年代までの風習として、桧でしつらえたカロウト(唐櫃。実物は脚がない)を嫁入りに持たせ、男は成人になり渡されたという。このカロウトは、普段は衣装箱であるが、持ち主が亡くなったときには棺になるとのこと。冬場雪深いこの地ではすぐには棺をしつらえることができないことから、事前に備えた知恵である。それととともに、人生の終焉の備えは、臨終只今の覚悟でもあり、生きることへの潔さを感じるカロウトである。また、墓地も雪かきや墓堀りができるよう道沿いにつくられているという。貧村ゆえ僧侶も居つかないこの村では、村人が寄り添い葬送の儀をおこなったであろうし、日常的にも道端で祈りの手向けが行われていることだろう。
この全国に分布するカロウトの地名について、桂井和雄氏は高知県内各地のカロウトの地名を示し「現地踏査によれば、峠のように見えながら、勾配のきわめてゆるやかな切り通しの道であることが共通していた。土佐市北地のカロウトの遠望は、カメラを通してのぞいて見ると、西日の影が差すその深い切り通しの道は、大きな墓地穴の底を連想させた。」という。
四万十町金上野にあるカロウト越は、桂井氏のいう切り通しの道である。望めば横倉山とおなじ土佐修験の山「御在所」が鎮座し、その麓には「市野瀬」(イチの語は神をあがめるの意の「斎(いつ)く」のイツと同じ語源)があり、峠としての結界の地でもある。
峠のおおくは村界でありそこには悪霊や災いが入ってくるのを防ぎ村を出ていく旅人の安全を守る賽の神(道祖神・祠・石仏)が祀られた。
この世とあの世、世俗と修験、日常と非日常。その空間を仕切る事物は鳥居・注連縄・暖簾・箕と塩・躙り口など多様であるが、その結界の地を聴覚化し呼び継がれたのが「カロウト」ではなかろうか。
「カロウト」地名について、桂井氏は「大きな墓地穴の底」と表現し、郷土史家・岡村憲治氏は幡多地域の事例から「小さい内地(うとち)」と解釈している。編集子が思うには、中世の葬制の変化により使われなくなり、「カラ」となった遺体を納める空間(納骨棺・洞穴)の「ウト」が、カラウト→カロウト→に転訛したのではないかと思う。物としての棺も、墓石の下に設けた石室も、結界である峠としての空間も、同じくカロウトと呼ばれるようになったと考える。
長宗我部地検帳には県内各地に多くのカロウト地名が記録されていることから中世以前の地名であることは確かである。
民俗研究家の筒井功氏は『葬儀の民俗学』や『「青」の民俗学』で「日本古代の葬制は洞窟葬である。古墳時代の横穴葬、塚を築く古墳も要するに洞窟葬の延長である。その葬法は、日本人の宗教観・他界観の反映であった。」と述べている。柳田國男も「石器を使っていた時代の人骨は出て来るのに、いかなる古い村にも中世以前の墓場というものがない」と述べていることから「カロウト」は各地の葬制と洞窟や峠の地形との関連、青地名との関係などを現地踏査することにより地名由来を発見することができると考える。
カロウト地名の分布が大川(四万十川、仁淀川、物部川など)沿いには出現しないことから葬制の相関性が一つの発見になるかもしれない。
余談だが、唐櫃は、脚を4,6本付けた蓋のある収納箱で湿気から衣服・書物などを守る役割を担った。これと同じ機能を持つ「おひつ」は蓋はあるが脚がない。いまでは炊くから保温まで一体化した器具をジャーと呼んでいるが、昔は炊いたご飯を「おひつ」にうつし余分な水分を取る最後のひと手間の調理道具(けっして容器ではない)があった。
また、櫃でも脚のないものは、倭櫃(やまとびつ)と呼ぶそうだ。脚がないのに唐の字をあてているが、本来は亡き骸のカラの櫃で「カラヒツ」である。
またまた、余談だが「おひつ」も夏になるとご飯がすえるので「そうけ」にいれた。それも取っ手のついたもので風がとおるところにひっかけ吊るしたものだった。秋にはふかし芋をどっさりそうけにいれていた。白米の消費を減らすため夕飯前に芋をたらふく食わすことが貧しい家庭の食料戦略だったという。おやつのない戦後世代はまさに「一杯喰わされた」。
箕もそうけもおひつも暮らしからなくなった民の芸。箕つくりの職としてのサンカ社会がなくなり、つくる技がなくなり、すえるという味蕾も衰え、箕をつかってふるい分ける仕方など、民芸を失うことが暮らしの知恵を退化させていくのだろう。
生活するチカラの弱くなった自律できない「ヒト」はいつしか絶滅危惧種になるのではと考えてしまう。
暮らしの中で「チンする」は立派な動詞になっている。食文化の大革命である。食の素材は自ら菜園尻(しゃえんじり:自宅の周辺の畑)で育て、実を選別し、煮詰め、挽き、干すなどの加工を加え、醸し、蓄え、その一部を一夜の食とする。そのすべての過程をギュッと短縮した「食品」をチンすると、モノの時空が湯気の中から食卓に広がる。なんと便利な世界になったものだ。
人生の最期もチーンとなって火葬されるが、煙突の先にはその人の歴史が煙となって空に消えていくのだろう。
(東京オリンピック以前の「昭和の伝承者」の使命をもつ60歳代)
高知県ランキング
高知の武漢ウイルス、実は大阪とほぼ同じ感染率!そしてその訳は!!
令和2年4月11日の『高知県』の武漢ウイルス感染者は52人で都道府県別で見ると上から15番目になるのですが、実はこれ人口に対する感染者の比率で見ると全国で5番目に高い感染率となります。
●一位・東京 人口13,942,856人 感染者1717人 感染率『0.0123%』
●五位・高知 人口697,674人 感染者52人 感染率『0・0074%』
そしてこれは既に緊急事態宣言対象となっている神奈川(0.0046%)千葉(0.0059%)埼玉(0.0044%)兵庫(0.0057%)より高い数字で、二位の福井(0.0098%)三位の石川(0.0081%)四位の大阪(0.0078%)に続く数字で、早い話が現在の高知は「人口8,823,453人で感染者が697人いて非常事態宣言対象となっている大阪」とほぼ同じ状態にあるという事です。
しかしそれにしても国際空港のある関西から海を隔てた四国の山を越えた南にある高知に何故これほどの感染者が発生してしまうのか。
地元の政治家は一体何をやっているのか、そして何をやっていたのか。 調べてみたところ理由が分かりました。ちょうど一年前、当時の尾崎県知事と高知衆議院比例の福井てるが二階様御一行として支那の習近平に会いに行っていたのです。
【平成31年4月25日の高知新聞 】
思わず超悪い意味で納得してしまいました。 もうすぐまた選挙です。有権者はこの事実を知った上で投票に行くべきです。
令和2年4月11日の感染者数
令和2年4月1日の人口数
昨年の高知市長選出馬の中島やすはる氏が情報発信中!!
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