白髪小学校を再訪したのは、当時の道で宇留志まで行ってみたかったから
「地理院地図・手結・昭和33年」
当時のこの周辺の集落はこの様な山道で繋がっていた。
また昭和初期に赤野川沿いの道が開発されるまでは、白髪ー宇留志ー大屋敷ー久重、は2m幅以上の道で繋がっていた。
昔は安芸から久重へ、久重から安芸へ向かう、馬や牛、荷台の姿がこの白髪にあったはずだ。
早速行ってみたいが、まずはその道から探さないといけない
しかも再訪では前回見えていなかったものが見えてくるもので・・・
お風呂跡
五右衛門風呂
平家の落人とは言うが
源平合戦とは「桓武平氏」と「清和源氏」の末裔の戦いだった
また、この民家跡は我々の次の世代、未来の日本人にも、ここにかつて人々の生活があった事を伝える事だろう
それは、単に「昔はこんな場所にも住んでる人がいた」という単純な話ではなく、800年以上昔の「桓武平氏」と「清和源氏」の戦いに根拠がある事を理解すると、またこの国の歴史の捉え方も変わってくると思う。
また、現在の日本の国旗「日の丸」は白地に赤だが、それは白地に赤の旗を持つ源氏と、赤地に白の旗を持つ平家の戦いでもあって、もし平家が勝っていれば、現在の日本の国旗は「赤字に白」の国旗になっていたかもしれないのだ。
そして、支那との貿易を優先するグローバリストの「平家」と、外国からの悪しき風習を排除しようとするナショナリストの「源氏」の戦いでもあったのだから、勝敗の行方次第で日本のその後の姿を大きく変える戦いでもあった。
廃村から半世紀、まだ現存する民家跡があるとは思っていなかった
お風呂跡
漆喰壁
そしてまた特記すべきは、宇留志、板渕、白髪がほぼ同時期に廃村になった集落でありながら、白髪の集落の建築物のレベルが宇留志、板渕より一歩近代的な事
特にお風呂は、宇留志、板渕が昔ながらの五右衛門風呂でありながら、白髪は五右衛門風呂でありながら、現在のユニットバスの前身となる近代的なタイル張りのお風呂のスタイルにほぼ近いという事
でありながら囲炉裏があったりして
移転先での石油ストーブでの生活は予想外に寒いものだったのかもしれない
ガスコンロ
ちょっと新し過ぎる気もするが
これも
でも、今となっては当時を反映する貴重なもの
この更に奥にも赤い車が放置されているが
今となっては、それは場所を特定するための重要な目印の役割を担っていたりもする
ダイハツ・ハイゼット
水路跡
道に埋められた上水管らしきものあり
蛇口をひねれば飲み水の出てくる時代も到来していた
決して水に恵まれていた訳ではなかったようだが
この設備が完成して、環境はかなり改善されたはずだ
でもそこから20年も経たない内に集団移転となる
更に集落の道を北上すると
白髪神社跡
もう石垣があるのみ
神様も一緒に移転したらしい。
ここから先は細い道が続いていて石垣等で整備された部分もあるが、どうやら三辻森にも宇留志にも行く道ではないらしい。
かつては2m幅で白髪ー久重を繋いでいた道が、まだ姿を留めている事を期待して南西に下る
やはり道はまだ存在していた
道は水路のある道を横切り、耕作地を抜け
大きな切り通しを進む
集落を結ぶ幹線道として整備された道だ
幅のあった道だけあって崩落部分は殆ど無い
耕作地を横切り
西向きの陽当たりの良い場所には耕作地跡が広がっている
途中にある耕作地の中で、道は若干不鮮明になってくるが、幹線道として出来る限り広く真っ直ぐに設計されているようだ
赤野川の水の音が大きくなり、宇留志はもうすぐそこだと思うが、進路の確認、修正で時間が掛かり過ぎて作戦撤退ラインとなってしまった。
(後日、再訪予定)
10月目前のこの時期のこの様な場所にでの夕暮れは、ほんの少し前に「花火大会」があったとは思えない程に早い。
引き返すと、斜面を掘削して作ったと思っていた道は、石垣を気付いて造り上げられた道だと判明
若干、勾配もあり、この様に大きく方向を変える場所もあるが、当時の人々にとってはなかなか広く、快適で、そして特に現代人にとっては素晴らしい景色の幹線道だった事だと思う。
芸西に帰る道(崩落個所)からの芸西(9月下旬6時半頃)
白髪の集落は、海沿いに住む人々が、山奥にまでその生活範囲を広げていったという場所ではない。
源平合戦の結果として瀬戸内海から四国山地を越えて、この場所に桓武平家の人々が住み始める事となった。
そしてその800年後、山を降りて海岸線沿いの人々と一緒に暮らすようになった。
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