高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2018年09月




白髪小学校を再訪したのは、当時の道で宇留志まで行ってみたかったから

「地理院地図・手結・昭和33年」
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当時のこの周辺の集落はこの様な山道で繋がっていた。


また昭和初期に赤野川沿いの道が開発されるまでは、白髪ー宇留志ー大屋敷ー久重、は2m幅以上の道で繋がっていた。

昔は安芸から久重へ、久重から安芸へ向かう、馬や牛、荷台の姿がこの白髪にあったはずだ。



早速行ってみたいが、まずはその道から探さないといけない

しかも再訪では前回見えていなかったものが見えてくるもので・・・


お風呂跡

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五右衛門風呂

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平家の落人とは言うが

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源平合戦とは「桓武平氏」と「清和源氏」の末裔の戦いだった

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また、この民家跡は我々の次の世代、未来の日本人にも、ここにかつて人々の生活があった事を伝える事だろう

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それは、単に「昔はこんな場所にも住んでる人がいた」という単純な話ではなく、800年以上昔の「桓武平氏」と「清和源氏」の戦いに根拠がある事を理解すると、またこの国の歴史の捉え方も変わってくると思う。

また、現在の日本の国旗「日の丸」は白地に赤だが、それは白地に赤の旗を持つ源氏と、赤地に白の旗を持つ平家の戦いでもあって、もし平家が勝っていれば、現在の日本の国旗は「赤字に白」の国旗になっていたかもしれないのだ。

そして、支那との貿易を優先するグローバリストの「平家」と、外国からの悪しき風習を排除しようとするナショナリストの「源氏」の戦いでもあったのだから、勝敗の行方次第で日本のその後の姿を大きく変える戦いでもあった。



廃村から半世紀、まだ現存する民家跡があるとは思っていなかった
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お風呂跡
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漆喰壁

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そしてまた特記すべきは、宇留志、板渕、白髪がほぼ同時期に廃村になった集落でありながら、白髪の集落の建築物のレベルが宇留志、板渕より一歩近代的な事

特にお風呂は、宇留志、板渕が昔ながらの五右衛門風呂でありながら、白髪は五右衛門風呂でありながら、現在のユニットバスの前身となる近代的なタイル張りのお風呂のスタイルにほぼ近いという事


でありながら囲炉裏があったりして

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移転先での石油ストーブでの生活は予想外に寒いものだったのかもしれない


ガスコンロ

ちょっと新し過ぎる気もするが
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これも
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でも、今となっては当時を反映する貴重なもの

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この更に奥にも赤い車が放置されているが
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今となっては、それは場所を特定するための重要な目印の役割を担っていたりもする
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ダイハツ・ハイゼット


水路跡
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道に埋められた上水管らしきものあり

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蛇口をひねれば飲み水の出てくる時代も到来していた

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決して水に恵まれていた訳ではなかったようだが

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この設備が完成して、環境はかなり改善されたはずだ

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でもそこから20年も経たない内に集団移転となる


更に集落の道を北上すると

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白髪神社跡

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もう石垣があるのみ

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神様も一緒に移転したらしい。


ここから先は細い道が続いていて石垣等で整備された部分もあるが、どうやら三辻森にも宇留志にも行く道ではないらしい。


かつては2m幅で白髪ー久重を繋いでいた道が、まだ姿を留めている事を期待して南西に下る



やはり道はまだ存在していた


道は水路のある道を横切り、耕作地を抜け

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大きな切り通しを進む

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集落を結ぶ幹線道として整備された道だ

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幅のあった道だけあって崩落部分は殆ど無い

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耕作地を横切り

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西向きの陽当たりの良い場所には耕作地跡が広がっている

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途中にある耕作地の中で、道は若干不鮮明になってくるが、幹線道として出来る限り広く真っ直ぐに設計されているようだ

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赤野川の水の音が大きくなり、宇留志はもうすぐそこだと思うが、進路の確認、修正で時間が掛かり過ぎて作戦撤退ラインとなってしまった。


(後日、再訪予定)

10月目前のこの時期のこの様な場所にでの夕暮れは、ほんの少し前に「花火大会」があったとは思えない程に早い。

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引き返すと、斜面を掘削して作ったと思っていた道は、石垣を気付いて造り上げられた道だと判明
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若干、勾配もあり、この様に大きく方向を変える場所もあるが、当時の人々にとってはなかなか広く、快適で、そして特に現代人にとっては素晴らしい景色の幹線道だった事だと思う。

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芸西に帰る道(崩落個所)からの芸西(9月下旬6時半頃)

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白髪の集落は、海沿いに住む人々が、山奥にまでその生活範囲を広げていったという場所ではない。

源平合戦の結果として瀬戸内海から四国山地を越えて、この場所に桓武平家の人々が住み始める事となった。


そしてその800年後、山を降りて海岸線沿いの人々と一緒に暮らすようになった。








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平成28年1月から二年半ぶりの再訪



八流の開発は
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昭和38年から
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この看板を右に行けば白髪
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赤野小学校の子供達が課外学習に来る場所もあるようだ
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そして、そのすぐ先が少し崩落している
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バイクは通れる
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この先、この場所が修復される日は来るのだろうか??


白髪に到着
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もしかしてこれが写真に収める事の出来る最後の姿なのかもしれない
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●二年半前の「平成28年一月」
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屋外に雨ざらしになっていたこの看板を校舎の中に入れきたが
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もう屋内もこんな状態
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●釜戸周辺(平成28年1月)
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現在
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後ろの土壁が落ちて骨組みの竹が剥き出しになった



格子窓の風景
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今日は平成30年9月30日
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強烈な台風が日本に上陸している日



もしかして今日、この白髪小学校跡はまた大きくその姿を変えてしまったいるかもしれない


●平成28年1月(教員住宅跡)
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2年半前、ここにあった教員住宅跡が
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現在はこの様な姿になってしまったと同じように
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昭和45年に廃校となった中之川分校跡

そして中ノ川の集落ももはや無人となっている

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訪問したのは平成30年9月中旬のある日の夕方5時前


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訪問の内容をアップしたつもりだったが、非常に大切な事を一つ書き忘れていた。

それは学校が廃校になって半世紀、そして集落が無人になった現在でも、

夕方5時になると「夕焼け小焼け」の地区放送が流れる事!!






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学校の歴史

明治10年 川口学校の分校としての位置づけ

明治14年 校舎を新築し中之川尋常小学校(初中高の8カ年)

明治19年 川口尋常小学校の第三分校


【伊予三島市史】より

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明治25年 簡易小学校から中之川尋常小学校となる

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明治30年以降の記録が無いらしい

昭和45年 廃校、久保ヶ内小学校に統合

その久保ヶ内小学校も翌年46年に金砂小学校に統合となり、金砂小学校も平成10年に中曽根小学校に統合となる

またこの明治14年に中之川尋常小学校となり初等中等高等の8カ年の小学校となっていた事は時代的にも内容的にも後の本校となる久保ヶ内小学校より進んでいて、明治以降から戦前戦後にかけて、この中之川の教育レベルが比較的高かった事が推測できる。



在りし日の中之川分校・中ノ川尋常小学校
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中之川の集落に到着
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もう無人のようだ
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亀之橋
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橋か新しくなったのは平成12年 

ほんの最近まで昭和の時代の姿があった
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隣に昔の橋がそのまま残っている
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それまで軽トラがギリギリ通れる程の幅だった
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学校のあったのは、この橋を渡った左手
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学校のあった場所
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廃校から半世紀、もう学校の面影はない
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また、学校ではなく、この集会場の石碑がある

地域の人々にとって、ここは想い出の学校跡地ではないのだろうか??

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敷地は広い

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また、この学校の場所は後に移転してきた場所

もう少し南の神社の川を挟んだ少し南にあったようだ

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学校があったと思われる付近

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もう誰もいない無人の集落で話を聞ける筈もなく

川の西の神社
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かつて中之川尋常小学校の児童をはじめとする地元の人達で、初詣、夏祭り、秋祭り、と賑わった場所
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新田宮橋
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昭和34年12月

この頃は佐々連鉱山も全盛期の時代

この中之川の戦後の活気の溢れていた時代だった事だろう
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もう訪れる人は限定的なようだ

【新田神社】

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無人になったとは聞いていたが、それでも南の地区からの作業帰りの車が通る事はある
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石川さんの住む集落
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無人な事は不思議なくらい整然とした綺麗な集落だ
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住友森林肥料一号
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平家の7人塚

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まだ誰か定期的に通う場所ではあると思う
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洗濯物も干してるし
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無人になったといはいえ、今日たまたまここに作業に来られていた方がいた
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この道も今日、掃除したとの事
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40代前後の方で、中之川の学校の事を聞いてみたが、もうその世代の方にとっては学校とは久保ヶ内の事で、どうやらこの集落に学校があったという意識は無いらしい。

学校跡地に学校ではなく、集会所の石碑があった事にある意味納得してしまった。

そして、この中之川にかつて学校があった時代とは、そんな昔の時代の事なのだ。


昭和50年の航空写真
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拡大
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学校の校舎は長屋だったみたい!!





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小学校の歴史は明治7年から始まる

明治10年 川口学校の分校としての位置づけ

明治35年 簡易学校から久保ヶ内尋常小学校

【伊予三島市史】より

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昭和45年 中之川分校を統合
昭和46年 廃校、金砂小学校に統合となる

その金砂小学校も平成10年に中曽根小学校に統合

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在りし日の久保ヶ内小学校
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中学校の歴史

昭和23年9月 金砂中学校の分校として創立
昭和29年   久保ヶ内中学校として独立

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昭和43年 廃校、東中学校に統合

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在りし日の久保ヶ内中学校
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学校の廃校から半世紀

それでも中学校の校舎は現存している
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立ち入り禁止も、もはや時効状態
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小学校校舎は解体されている

また明治39年からの学校の改革史は不明だそうだ
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昭和24年3月に落成した中学校校舎
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築70年
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黒板に落書き
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これは文化的、歴史的な価値を持つ落書き
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懐かしい格子窓
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この時代の木造校舎は中に入ると土間があり、そこから靴を脱いで廊下に上がり教室に入っていた
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ここの校舎の土間は少し狭い
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廃校後は当然地域の施設として利用されていた
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佐々連鉱山の歴史、佐々連小学校の児童数から見ると、この周辺は昭和30年代はかなり賑やかな場所だったと推測できる。

そしてその後の鉱山の経営規模縮小、周辺のダム建設による集落の消滅等で過疎化が一気に加速していったようだ。
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昭和50年の航空写真
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学校周辺の拡大
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現在1億2千7百万人になる日本の人口が、ちょうど1億人を突破した頃の話だ!!




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昭和50年の佐々連鉱山周辺の航空写真
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小学校跡はここ
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昭和30年代の地図
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閉山になったのは昭和53年
その時に木造の建物は学校校舎(新校舎は31年築)も含め解体されたんだろうか。

しかし鉄筋コンクリートの社宅跡は現在も存在している。
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当時にしてはなかなか高級な造りだったと思う。
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当時の最新の新築マンションてとこだろうか!!
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台所
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ご飯は釜戸で炊いていた
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当時はこれが当たり前で、現在の炊飯ジャーもこの釜戸で炊くご飯を追及している訳だから、現代人にとってはある意味、非常に贅沢な造りだ
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台所、現在でいう勝手口からの風景 ここは二階
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トイレは和式水洗便器
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手洗い場 

洗濯機はベランダかな 

でも洗濯機が登場したのは昭和30年代中盤

この社宅が建設されたのが、佐々連小学校の児童が486名とピークを迎えた昭和38年前後と推測すると、まだ洗濯機を使うか使わないかの微妙な時代だったと思う。

でも、ここでの生活ぶりを想像すると、その様な電化製品は真っ先に取り入れられる環境だったと思う。

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6畳二間と四畳半一間、お風呂は無い、というか、仕事が終われば、そのまま職場にあるお風呂で綺麗さっぱりして帰宅するという生活だったのだろう。
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そして家族も同様に共同浴場を利用し、みんなが仲良く共同生活をする和気あいあいとした職場環境だったのだろう。

二階からの風景はこんなにも変わってしまった
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降りる

上の段にも形の違う社宅跡がある
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ここは一階建てで、皆が集まる集会場のような場所だろう

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麻雀室だったのもしれない(笑)
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上の段への渡り階段があり
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木部は朽ちているが、鉄筋コンクリートなので上に上れる
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更に二階、三階へと階段が続いている
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もしかしてここに大浴場があったかもしれない
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上には蝙蝠がいる
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手洗い場が沢山あるし、この建物は独身寮だったのだろう
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3階へも行ける
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独身寮確定
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当時にしてはなかなかの豪華な生活空間っだったようだ!!




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佐々連鉱山の歴史は元禄年間(1688年~1704年)に始まる

ヨーロッパでは名誉革命を成功させたイギリスに産業革命の足音が聞こえ始め、アメリカ大陸ではアメリカ合衆国の前身となる形が形成され始め、支那では満州人によって清朝の全盛期が形成されようとしていた時代になる。

【伊予三島市史】より
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明治時代までは数人の手で経営されていたようで、本格的になるのは大正時代に入ってから
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佐々連小学校もその流れの中で大正14年から代用小学校という形で発足し、正規の学校になったのは昭和3年となる
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昭和4年に川口小学校佐々連分教場となる
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昭和7年に71名いた児童は、昭和9年には41名、10年には49名
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昭和23年に佐々連小学校となり、昭和26年には児童数197名、また校舎の改築をしている
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佐々連尾山にも分教場があったようで27年に統合している。
30年に校舎の改築をし、31年には217坪の木造二階建校舎の完成
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昭和34年には469名の児童、38年には486名となるが直後に310名となる
39年には229名、43年にはプールが完成
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プールが完成した昭和43年には再び児童数は282名と増加するが、47年には196名、51年には34名、52年には14名、53年には金砂小学校に統合となる。
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学校跡地はここ
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昭和40年代の地図
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鉱山が全盛期の昭和30年代の地図には何故だか学校の記載がない
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当然、現在鉱山は立ち入り禁止
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昭和43年に完成したプールはこの中にある
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が、学校跡はこの道を少し南に歩いた場所にひっそりと残っている
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鉱山で稼働していた軌道のレールだ
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この様な山奥の狭い道に横断歩道があり、かつてここに小学校があった事を現代に伝えている
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横断歩道を渡ると緩やかな登り口があり
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校門を取り壊した跡がある
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校舎は木造でもあったため、鉱山を廃止する企業の安全保障上の理由として解体されたようだ
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また、校門も残したかったであろうが、同じ理由で解体する事にしたのだろう
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でも自分達の子供達の通った学校の名前の刻まれた門柱だけは、破壊出来なかった。

この小学校の解体作業は企業の職務として必要な事であった事は理解出来るし、鉱山を閉山する自分達自身が、再びここに通学する元気な子供達の姿が現れる事が無い事を一番理解していて、校舎をそのまま放置する事は以降に二次災害を招く可能性があり、それを防ぐ為に企業としてやらなければいけない事であった訳ではあるが、いくら仕事とはいえ、それは「苦痛」でしかなかった事だろう。

藪化が酷くてあまり奥には入れない

学校前の道を少し歩くと
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学校の基礎跡が見える
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もう一つ横断歩道がある
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階段跡もあり
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校舎と校舎を繋ぐ階段が残っている
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藪化が酷くて部分的な写真しか撮れない
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黄色い線が何故だか懐かしく感じる
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在りし日の佐々連小学校
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そして、この写真にある手前の階段と桜の木は現在も確認出来る
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階段
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横断歩道を渡った先に
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当時のまま残っている
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上から
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そして桜の木も
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昭和50年の佐々連の航空写真
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学校跡はもう完全に藪の中
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また昭和43年に完成したプールは鉱山の敷地内にある

何故かというと、昭和31年に217坪の新校舎が完成する頃まで、学校にプールという概念があまり存在しなかった。

みんなそれぞれの川や海で生活の一部として泳ぎを習得していたし、川や海で泳げるのにわざわざプールを造って、そこで泳ぐ必要もなかった。

しかし、全員が泳げた訳ではなく、やはり泳げない子も当然いた。

そんな中で、昭和30年代、宇高連絡船(高松ー宇野)で修学旅行生を載せた紫雲丸が沈没し多くの子供達が犠牲となった。(紫雲丸事故)それでも泳げる子供は自分の力で自分の命を守る事が出来、泳げない子供にはそれが出来なかった。

《現在は昭和末期に完成した瀬戸大橋がありますが、それまではフェリーでした》

そのような事故が多発し、学校にプールを造り子供達全員が泳げるようにと「水泳」の授業が始まったのである。

だからそれ以前からのある学校には敷地内にプールを造る場所がなく、少し離れた場所に建設された。


そしてそもそも、その様な理由で開始される事となった学校の水泳の授業が、現在では「危ないから飛び込み禁止」とか、ゴーグル着けてただ単に静止した水の中を安全に泳ぐためだけの内容になってしまったのは、その最初の基本コンセプトを完全に忘れてしまった訳だから、教育の惨めな衰退である。


日本人はほんの少し前まで、普通にそれぞれの川や海で元気に泳ぎ、そしてそこにはそこの自然の危険も安全も知り尽くした地元の人々がいた。

それが現在は過疎化で、その山々、津々浦々の学校、集落が消滅してしまい、そこに現代のプールで泳いだ事しかない街の人間が行けば水難事故が起きてしまうのは当然の話である。

しかも学校での水泳の授業ですら、飛び込みさえ危険視する軟弱な授業に成り下がってしまい、本来の目的である「子供達が自分の命を自分で守る事が出来る力を身に付ける為の水泳の授業」ではなくなってしまっているから、尚更たちが悪い。

我々の少し後の世代まで、プールは普通に飛び込んで泳ぐ場所でした。


それが「ある日突然、飛び込み禁止」となったのです。

日本の教育衰退を目指す「日教組」は悪の組織なのである。






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現在はダムの底にある城師

「城師」の名前があるのは
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トンネルと
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もう地図には「城師」の文字はない


学校の歴史

開設は明治10年
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当初は富郷尋常小学校の第二分校であった(第一は猿田)
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運動場として校下民から二畝(200㎡)の提供を受ける

戦前の学校事情はこの様なものであった!!
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昭和初期には200名近い児童がいた
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戦後も100名を超える児童が在籍し、新校舎は昭和26年に建てられた。

昭和29年の児童数は77名。

また周辺には別子銅山、佐々連鉱山があるが、実は高知の白滝鉱山もこの地域の社会事情に影響を与えていた。

何故なら白滝鉱山の物資は全て索道で三島に運搬されていたから。

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昭和46年の児童数は32名、52年には国旗掲揚台が新設、児童数は20名
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昭和61年、ダム建設により廃校、富郷小学校に統合


在りし日の城師小学校
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学校のあったのはこの場所
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昭和50年の航空写真
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拡大
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校舎は東向きに建てられていたようだ

教室の黒板が常に西側に設置されているのは鉛筆を持つ手でノートに影が出来ないようにしているためで、この学校が東向きに建てられていたのは立地条件の問題で、朝日の登る東向きが一番学校にとって陽当たりの良い環境だったからだろう。
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ダム湖になってしまった、あの辺りに学校があったようだ!!
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20世紀、人類は川を堰き止めダムを造り水力発電によって莫大な量の電力を確保する事に成功した。

それと引き換えに多くの自然、文化、歴史、伝統をダムの底に沈める事になったしまったが、それが我々の選んだ道。

いずれ訪れるこのコンクリート製のダムの寿命がくる前には、また新しい時代が来ている事だろう。





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700年以上前、尾張の国の地頭・高橋一族の末裔が住み着き始まった元之庄の歴史

当時は伊予ー土佐の街道の宿場町でもあった。
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航空写真に写る民家の屋根
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と、その民家跡
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在りし日の猿田小学校   写真の左は熊野神社

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在りし日の富郷中学校
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①「猿田小学校・熊野神社・元之庄」

②「熊野八幡神社・竹林寺と元之庄」

③「元之庄」

④「富郷小学校」

⑤「富郷中学校」

⑥「城師小学校」

●高知の学校跡地まとめ

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廃校になって半世紀の富郷中学校
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石碑は平成11年に卒業生により建立されたようだ
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卒業生931名
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昭和22年の開校から20年程の期間であったが、戦後の復興の中の駆け足で過ぎ去った20年間だったのもしれない。
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昭和24年完成の校舎は当然もう無いが、平成30年現在、まだ日本には昭和20年代に建設された木造校舎が各地に点在する。
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学校跡
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学校の石垣
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在りし日の富郷中学校
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昭和22年に開設された富郷中学校は、24年には校舎が完成し
29年には富郷村立から伊予三島市立となり、運動場の拡張、炊事場、調理室の歓声等、学校の近代化を進めるが、それ以上に道路の開発、拡張、延長、またダム工事等、社会のインフラ整備の速度が速く、戦後の焼け野原の状態からスタートした中学校学校区は、その20年後には時代に適応しなくなっていた、というのが山間部の昭和中期の中学校事情だったのかもしれない。
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その意味においては、ここに限らず戦後に開設された山間部の中学校の昭和40年代の統合ラッシュまでの20年程の期間は、目覚ましい経済発展の中の次の時代に向けた駆け足の20年間だったとも言える。
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あの戦後の焼け野原の日本を見て、世界中の誰もが、もう日本は二度と戦前の一等国に返り咲く事は出来ないだろう、とそう思っていた!!


そんな日本は、そこから20年も経たない内にアジア初の東京オリンピックを開催する事となる。


だから昭和22年に当時の社会情勢に合わせて始まった日本の中学校制度等というものは、その後想定外以上にインフラ整備が進んでしまい、20年後には校区が狭すぎて、統合が一気に進んだ、というのが昭和40年代以降の中学校事情だろう。

その意味においては小学校の廃校と中学校の廃校は本質的な意味が全く違う。


現在は更に広い道路が完成し当時と比べて交通事情は更に改良されている
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昭和50年の藤原と下猿田(富郷中学校と猿田小学校)
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富郷中学校
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しかし小学校の廃校は、その地域にとって致命的な事になる。






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