高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2018年01月

枯井谷へは下尾川から「道」の接続がある。
普通車にはちょっと厳しい軽トラでやっと行けるような巾と勾配の道だ。
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では何故このような「道」、既に無人になり、そこにある果樹園に行くための「私道」として作るには莫大な費用が掛かる「道」が現在も存在するかというと、それは枯井谷という場所が安芸川沿いの県道の吊り橋を渡って、またまた栃ノ木や下尾川から歩いて行く先にある場所であったという事ではなく、栃ノ木ー畑山を結ぶ安芸川沿いの県道が開通するまでは、栃ノ木ー畑山を結ぶ往還道は、栃ノ木ー枯井谷ー畑山を結ぶ山の中腹を通る「道」であったからに他ならないからだろう。

栃ノ木から畑山に向かう安芸川沿いの県道が完成した後も、その様な時代が到来するまで馬や牛が荷台を引いて栃ノ木ー畑山間を往来していた長い間の馴染みの深い道が、時代に合わせて自動車も通れるぐらいに拡幅され整備された、という事だろう。

「地理院地図・昭和11年発行」
・当然この頃は栃木ー畑山を結ぶ安芸川沿いの道はない、どころか破線すらない。
そして栃ノ木ー畑山は枯井谷を通る1m以上の幅のある道で結ばれている。
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また昭和の時代にとっくに無人になってしまった枯井谷の文字は、時代が移り変わった平成20年の安芸市の「地区別人口数と世帯数」に未だに刻まれている。

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更に昭和が終わり平成の時代になっても尚、枯井谷に向かう吊り橋が平成4年に竣工された事を考えれば、
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枯井谷、その場所は例え現在そこが誰も住まなくなった無人の地域であったとしても、昭和の時代を生きた安芸市の人々にとっては栃ノ木ー畑山を結ぶかつての往還道にあった安芸市の重要な集落の一つであるという事だろう。


下尾川から、枯井谷に向かう。
最近また土砂崩れがあったようで、安芸市が莫大な予算を掛けて道を修復している。

またその事が、現在も枯井谷への道が、例えその先に住人がいないとしても、安芸市民にとってはいまだに重要な市の道の一つであるという事を具体的に裏付けている。

そして山を越える稜線上には、かつての道を重機で掘削して車が通り易くしたような切り通しがあり、勾配のきつい坂を下ると、遠くに見えていた仮設トイレのあった場所に着く。
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枯井谷の集落跡
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過去の地理院地図では最大7軒の民家があった事が確認出来る
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祠がある
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沢を渡る小橋が掛けられている
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なんて書いているのだろうか、、
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意味が知りたい
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その先には耕作地があり祠がある
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しかしこの水量で一体何処が「枯井谷」なのだろうか??
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民家跡
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7軒の民家があったとしたら30人程の住人が住んでいた事は想像に容易い。

しかし、栃ノ木ー畑山間の往還道に存在していた場所である事を考えると、中ノ川、正藤方面から安芸方面に向かう来客で賑わう事も多かったと想像できる。
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風呂釜
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そして栃ノ木ー畑山を結ぶ往還道であったという事は、商品、物品の主要な流通経路であったという訳で、安芸で製造された「瓦」はこの枯井谷を通って畑山、そして、正藤、中ノ川に運ばれていたという事になる。
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このような量産型の住宅備品も、あの県道からの吊り橋からではなく、下尾川からの道を通って運ばれてきたはずだ。
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やはり電気が来ていたのか
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そしてアンテナ
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そしてテレビ
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集落が無人になって相当年数は経っているはずだ。
それも「椎山」と前後する時代の事に思える。
しかも椎山の瓦葺きの民家がまだ形を留めている事に対して、ここ枯井谷の瓦葺きの民家は崩壊してしまっている。

まさか本当にここに電気が来ていたとは。

しかし、それもここ枯井谷がかつての栃ノ木ー畑山の往還道沿いの集落であったという事で簡単に納得出来てしまう話になるのである。

「地理院地図・昭和11年」
実はこの時期に既に栃ノ木ー畑山の往還道に沿うように電線が畑山まで延びている。

いや実は正確には、畑山の小川名の水力発電所から往還道に沿って、寺内、枯井谷、を通り下尾川、そして既に無人になり地図からも名前を消した大野、そして上倉、仲木屋を経て羽尾にまで電気の供給があったのだ。
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移動の全てが「歩き」だった時代、往還道沿いにあり、早くから「電気」も来ていた枯井谷が、ここを通る人々にどんなに重要な場所であった事か。

そして集落から高度を上げた場所には
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電柱だ
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畑山幹 一六分一 9米
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そして周辺を歩き、今回この枯井谷を訪れた最大の目的地に向かう

それは昭和30年代までの地理院地図に記載されていて、それ以降は地図から消えたしまったこの往還道沿いの「卍」の場所。
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地図から消えて半世紀以上

しかしかつての往来の道沿いに存在した重要な場所である。

そして・・・
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感動してしまった!!!
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神様はこの中で、それを守る為の外部構造でもある。
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現在は金属屋根だが、改装前は瓦葺きだった
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そして瓦は「アキ中川寅蔵」

椎山の民家のものと同じ瓦だ。

そして椎山のその同じ瓦は、この神社の前の往還道を荷台に乗って寺内に到着し、そこから川沿いを通り一つ目の橋を渡り、そしてあの二つ目の石垣の橋を渡り、椎山まで届けられた事になる。
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昔の建材
このようなものは工事終了にあわせて持ち帰って処分するより
この様に現場に残しておいていたほうがいいと思う。
勿論、状況にもよるが。
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神社は壮大な原生林の中に悠然と存在している

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時代が変遷し、かつての往還道沿いのこの場所は、もはや地図から消え、人々の心からも忘れ去られ、枯井谷の集落さえ無人となり特殊な例を省いては人が訪れる事がなくなってしまった場所。

しかしこの地域が繁栄の時代の終焉を迎え現在の状態になっても尚、この様な悠然とした姿、形を留めている事が、逆にこの場所の悠遠の歴史を語り続け、
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この天空を覆う大樹が、その歴史の壮大さを後世に伝え続けていくのである。

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枯井谷への吊り橋
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平成4年の日付ようだが現状ではもう渡れそうにない
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本当はサイドもワイヤーを掴みながら蟹歩きで渡るつもりだったが手が届かないので長靴を脱いで川を渡る事にする
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平成4年竣工の橋は、実は先代の橋の土台の上に作られている
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ではこの土台が一体いつからあったか
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現在、畑山には安芸川沿いの県道を使って行くが、その県道は戦後に作られたもので、それ以前は川沿いに道すらなかった。
枯井谷から西の安芸川に向かう小道はあったが、吊り橋が出来たのもどうやら戦後、県道が出来てからのようだ。

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吊り橋が出来る以前の、川に降り、川を渡るために作られた道のようなものもあるが、長い歴史の中においては、そうあまり頻繁に使用されていた道ではないようだ。

というのも、以前の畑山ー栃ノ木の往還の道は枯井谷を通る山道だったから
・地理院地図昭和11年・
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当然、この頃、安芸川沿いの道は無かった。

だからこの吊り橋を渡るルートはかつての往来の道ではなく県道が畑山に抜けた後に接続された道という事になる

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道の状態は良好で森林軌道跡を思わせる区間もあるが、それは途中までで、それ以降は完全に道が消滅している状態。

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陽当たりの良い場所には耕作地跡があり、その周辺には一時的に石垣の道が少しだけ現れるが杣道らしきものさえ全くない。

平成4年に枯井谷への吊り橋が新しくなった事から、枯井谷へは普通に「道」を歩いて到着出来るのではと思っていたが・・・

ただ言えるのは、この道は現在地図上では県道からの接続がありメインルートのように思えるが、それは県道が出来て吊り橋が掛けられたからこその話で、もともとは生活道というより隣の集落に行くための道の一つであったという事だろう。

道なき道を進むとやっと陽当たりの良い一帯が見えてきて枯井谷の「神様」がいる。
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石段
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この付近からやっと杣道らしきものがあり、
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道なりに進む
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枯井谷に到着
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冬の陽の低い時期にも陽当たりの良い生活に適した場所だ
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でも吊り橋が平成4年に新しくされたという事とは対照的で、昭和の時代に人が住まなくなって相当の時間が経っているというイメージだ

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送電の部品だ

もしかしてここ枯井谷には電気が来ていたのか・・・・
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遠くに仮設トイレが見える

どうやら車道の接続があるらしい
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集落には、その「道」から行ってみる事にして、ここにきて非常に状態の良い道が出現したのでその先を確認して帰る事に。

集落の東の開けた場所に広い石垣の耕作地跡を確認。



そして林道仲木屋畑山線から、枯井谷、そして藤ノ谷の事を調べてみる事にする
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が、林道の造成で完全に山の形が変わってしまっている部分も多く手がかりになるようなものは無かった。

藤ノ谷はこの広くなった場所の建てられた事務所の南側っぽいが・・・
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でも、聞いてみると「道なら、あの辺りと、あそこな辺にあったで!」という展開になったりして・・・


帰りに畑山に寄ってみる

各地に明かりが見えるが、その殆どが「街灯」という状態。

そしてそれども「水口神社」にはしっかりと明かりが灯されている。
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そして「枯井谷」で検索してみると、なぜだか平成20年の安芸の地区別人口と世帯数がヒットした。

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既に昭和の時代に集団移転で無人になったはずの「正藤」「中ノ川」の文字さえ記載されている。

そしてその中には「枯井谷」も文字も。

昭和の時代にとっくに無人になったらしい「枯井谷」

平成へと時代が変わり時が流れ、例えそこに誰も住んでいなくても、昭和の時代を生きた安芸の人々にとっては「枯井谷」は理屈抜きで「枯井谷」なんだろう。

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前回訪問したのが平成29年10月25日

廃校から40年。屋根の崩壊した木造校舎はいよいよ崩壊が進んでいく。

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校舎が崩壊する大きな音が時々聞こえてくるそうだ
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修学旅行は小学校が5・6年が行くと翌年は中学校の2・3年。
そして中学校に上がると5年で修学旅行に行った児童は2年で、6年で行った児童は3年で修学旅行に行っていたそうだ。

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室戸市の予算の関係で解体せずにいるそうだが、私はこのまま自然に崩壊していく道のほうが正解だと思う。

家の建て替えじゃあるまいし、わざわざ学校の校舎を重機で破壊し撤去するなんて、心ある日本人であれば誰もやりたくないだろう。

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学校にプールは無かった。
では長者野小中学校の児童生徒は「水泳」は一体どうしていたのか・・

結論としては「そんな事をしなくても、普通に川で泳いでいた」で、それは学校教育の一環としてではなく、日常生活の一部であった訳である。
まあ、年に1・2回は「川」で授業をやっていたそうではあるが。

それが今では「泳ぐ事」が、まずプールと水着とゴーグルとキャップを連想させる夏場の「時間」と「お金」を必要とする「ある程度特別な事」となってしまい「泳ぐ事」自体の観念が大きく変化してしまった。

そしてその事が近年の「水難事故」の根本的な原因なのである。

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教員住宅は3カ所あり、校舎の北にあった住宅は廃校後も程度は上等で「買いたい」という話もあったそうだ。

またもう完全に崩壊している東側にあった平屋の校舎は旧校舎を移動させたものでそこが単式の中学校教室となっていたそうだ。(小学校は複式)
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そして校舎の西にある小さな体育館の(ようなもの)は、正式には「集会所」であり、学校の施設というより地域の集会所のような存在だったそうだ。
当然、その他の地域でも「僻地集会所」という言葉はよく聞く。

そしてそのようなものは、やはりまずは地域の子供達に優先的に使ってもらうものだからこういう配置になるのだろう。

また、ここの集会所では「工作」の授業とか「体育」のマット運動なんかをやっていたらしい。

当然バスケットなんか出来るはずもなく、雨の日の「体育」はやる事がない、お休みみたいなものだった。

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気になっていた「長者野」の砦のような城壁は、どうやらやはり防風用ではあるようだが、
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この長者野の住人の方々も高齢で、あと5年先10年先にはどうなっているか分からない状況なので、貴重な話を頂ける機会を出来るだけ掴んでいきたい。


長者野の古矢にある神社

かつては秋祭りが盛大に行われていた場所。
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これだけで長者野の歴史の壮大さ雄大さが伝わってくる。

そして今を生きている我々の時代が、その雄大で壮大な時代の先の未来に相応しいものであるかどうかを、真剣に考えさえられるのである。

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まあ今更「憲法9条」のおかげで日本の平和が守られていると思ってらっしゃる方はいないと思いますが。

というか、それ以前に、既に、日本の平和はとっくの昔から守られていないのです。


日本人を拉致している北朝鮮
竹島を不法占拠している韓国
尖閣諸島沖縄を侵略する中国

ひと昔前の世界常識で言えば「宣戦布告」にも等しい侵略行為を受けながら日本が国家として、領海、領空、領土、生命、財産を護れないのは

そして拉致被害者の奪還、竹島の奪還、領空、領海侵犯に対する武力行使も含めた正当な行動が出来ないのは「憲法9条」のおかげなのです。

いわば憲法9条が守っているのは日本、日本人ではなく、

日本人を拉致している北朝鮮
竹島を不法占拠している韓国
尖閣諸島沖縄を侵略する中国

なのです。


「雪合戦は絶対にしません!!!!!」という強い信念、信条をお持ちの方は「絶対に雪合戦に巻き込まれる事がない(キッリ!!)」と言えますか?(笑)

まあそこで雪玉を丸めてしまうと、かえって相手を刺激するだけなんですけどね。(笑)


そしてさらに「憲法9条」以上に真剣に考えなくてはいけない内容が「日本国憲法 前文」です。



「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

つまり、平和を愛する中華人民講和国、北朝鮮、韓国の、習さん、毛さん、金さん、文さん、朴さん、李さん、の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した!!

という事になってしまいます。

これでは日本の安全、生存、未来は、中国、北朝鮮、韓国に依存します、お任せします!!と言っているみたいなものです。


「何もそこまで細かい事を難しく考えなくても~~!!」という方もいらっしゃるかもしれません。

では皆様の子供の頃、生まれ育った故郷での生活、半世紀前の、そして戦前の日本と比べて現在の日本はどうでしょうか?

連日報道されるような凶悪犯罪事件等はあったでしょうか?そして誘拐強姦殺人死体遺棄事件の犯人の責任能力を問題視し罪が軽くなるなんて事はあったでしょうか?

除夜の鐘がうるさいという特定の方の意見で、お寺が除夜の鐘を鳴らすの自粛するとか、幼稚園の児童の声がうるさいから幼稚園が近所にいろいろと配慮するとか、そんな話が存在したでしょうか?

確かに個人皆様の一人一人の意見は貴重で尊重しなくてはいけませんが、だからと言って、「その貴重で尊重しなくてはいけない個人の意見」と、「その土地で育まれた長い歴史に基づく、伝統、風習、文化、習慣、慣例」は全く持って「対等」ではありません。


そして沢山の意見、考え、事情がある中で皆が「調和」していく社会が本来の「日本の姿」で、大多数を差し置いて特定の個人の意見が尊重されてしまうという事態は本来の日本の社会の姿としては「あり得ない」事態なのです。

家に鍵しっかりと閉め、セキュリティシステムまで導入しなくてはいけない社会になってしまったのは、じつはごくごく最近の話です。


それもこれも、全ては、その根源は「日本国憲法」にあるのです。



そしてそれはGHQが

・日本の一部の軍国主義者が植民地獲得を企み戦争を始める
・日本国民を犠牲にして自分達の野望を達成しようとする
・残虐行為を繰り返しアジアに迷惑を掛ける
・ナチスと組んで世界征服を企む
・自由と平和を愛する民主主義の国「アメリカ」の正義の力の前に屈服し、日本は新しい時代を迎える

というアメリカが勝手に作った自分達に都合の良い宣伝に基づいて作られた憲法だからです。

捏造された歴史のに基づいた憲法が「日本国憲法」な訳ですから、国が傾くのも当然の話です。

戦後の黒塗りの教科書の話は皆様、聞かれた事はあると思います。

そしてその後、戦前の国民学校で使用されていた教科書はGHQに回収され(昭和20年12月)地理、国史、修身の授業は一時的に禁止となりました。
そして、昭和21年4月から新しい教科書を使っての歴史の授業が始まる事となるのですが、その教科書は日本の本来の歴史の書かれた教科書ではなく、戦時国際法違反の大量無差別民間人虐殺である東京大空襲、広島、長崎への原子爆弾を投下したアメリカに都合の良い内容の教科書になっていたのです。

だからと言って、私はアメリカの先の大戦における行為を批判しているのではありません。

昭和16年12月8日の「宣戦布告」で始まった「大東亜戦争」は昭和20年8月15日に日本がポツダム宣言を受けいれ戦闘中止となり、9月2日に「停戦協定」が結ばれ、サンフランシスコ講和条約を持って昭和27年、日本はアメリカ軍の統治下から独立し主権国家として再び世界の舞台に躍り出たのですから、占領下の時代にあった憲法は破棄し、新しく日本人が日本人のために作った日本の憲法を作成しよう!! と言っているのです。

未来の子供達、日本人のために!!!!!!
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「椎山」
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椎山へは寺内の北の橋を渡った左手から入る

いきなり入り口から土砂崩れ
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左側から土佐ジローの鳴き声を聞きながら進む

この先に川を渡る橋があるそうだが・・・・・
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台風で山崩れがあったそうで

その橋は倒木の下
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倒木を乗り越えながら先に進む

倒木の下には道があり、川沿いには道の石垣が確認出来る

倒木の区間は限定的ですぐに終わるが、この先この倒木が撤去され、道が復旧される事が有るのか無いのか、それ以前にその必要が有るのか無いのか・・・。

多くの人々にとっては、もうその場所、地名さえも知らない場所での出来事ではあるのだが、現地を訪れた私にとってはとても他人事とは思えないのである。

何故ならそこはだれかの「ふるさと」だから。

沢を渡り、再び沢の右手に
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沢を渡ったものの対岸には石垣のあるかつての道が並走している

どうや今自分が歩いている道は、本来の「道」に派生した「山道」のようだ。
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そして人が歩く事によって踏み固められ「道」となった「山道」は、再び土木工事により造成された石垣の「道」に合流する。
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石垣の耕作地が出現

椎山はすぐそこだ
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椎山に到着

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もう人が住まなくなって半世紀以上になるらしい
昭和40年代の地図には4軒の民家が確認出来る
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かつては「天空の里」が大自然と同化しようとしている。

がしかし、奥に民家跡が見える!!
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築100年と言っても、当たらずとも遠からず、だろう!!


しかし、ここは石ではなくコンクリート
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昔ながらの構造
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瓦の刻印
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一段下に小屋がある
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集落の小道を歩くと
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石段を上がり
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民家跡がある

3軒ほど並んでいたのかもしれない
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ダイドーのコーヒー
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ポット
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ヤカン

ガスではなく薪で沸かしていた事だろう

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と言いつつ、ガスボンベもあったりするが、しかしこの「椎山」で生活していた者にとっては、下からガスボンベを運んでるより、自分で火を起こして薪で沸かしたほうが手っ取り早かったはずだ。



歴史的な価値は高い
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かつてこの土地を耕した者達の遺構
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さらにその上に石段があり
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椎山の神様がいる
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近くには墓地があり
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ごく最近、お墓詣りに来られていたようだ
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そこから更に山手に進むと石垣があり水脈がある
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ここしばらく雨は降っていないが、植林に囲まれた状況で水は枯れていない

この椎山では水に困る事はあまり無かったのではと想像する

いや、だからこそ椎山が椎山であり続けたという事だろう。



かつての「天空の里・椎山」を後にする


帰りはこの石垣の道を行ってみよう。
もしかして、椎山の南にある小高い場所の耕作地跡、民家跡に辿り着けるかもしれない
「地理院地図 昭和11年発行」
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もう地図にも載っていない椎山からの先の道は
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石垣の道だった
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しかもその先には橋の跡が
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これは林用軌道の橋の架台に匹敵する
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片方は崩壊してしまっているが、この環境、状況の中で、この状態で現存している事が凄い

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そしてこの事で分かる事が多くある

まずここは山の谷の部分はなく、そして沢でもなく「川」であったという事。

そして往路でここまで歩いてきた道は、この「橋」を通る「道」に派生する山道で、かつての椎山への道は倒木を乗り越えた後に沢を渡った道ではなく、渡らずに対岸に続いていた石垣造りの道であったという事。

そして勾配のきつい近道にもなる「道」から派生した「山道」ではなく本来の道は、勾配もゆるく巾も充分に確保されており、それは牛や馬が歩けるように、大きな荷物も運べるように設計されていて、もしかして椎山から自転車で畑山に行けていたかもしれないし、郵便屋さんはカブでこの道を通って椎山に郵便物を届けていたかもしれない!!という事。


また、ここが川でなくなった理由は、原生林から植林となり山の保水力が一気に低下し、更に大雨では大量の雨水が一気に流れる事となり橋台の片側を崩壊させ周辺の地形まで変えてしまったという事。



残念ながら南の小高い場所の耕作地跡に繋がる道は発見できなかった・・!!




倒木区間に到着
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帰りは反対側を通る事にする

すると
しっかりと道が踏み固められていた
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これからはこの道が椎山への道となるのだろうか!!




帰りに畑山に寄ってみる
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水口神社の歴史は800年を超える
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そう、この畑山の歴史は800年を超える非常に長いもので

過疎化、廃村、休校、廃校等という事はそれ一つを見れば我々には出来れば避けたいネガティブな要素を含んだ出来事で、100年生きる事の殆どない人間にとっては絶望的とも言える出来事になってしまうかもしれないが、悠久の長い歴史の中の大きな流れの中では、普通に有りがちな必然の出来事なのかもしれない。

だからこそ、地方自治体、行政がどの様な手を打っても止める事の出来ない時代の流れなのだろう。


もしかして廃村、廃校に対する感情というものは満開になった桜の花が散るのを惜しむ気持ちに似ているかもしれない。

ただ花の場合は毎年その一部始終を見る事が出来るが、集落や学校というものは人間の人生に対して、そのサイクルが数倍以上あるため一部始終を確認する事が出来ず、その起承転結の局面しか見る事が出来ず、内容が内容なだけに素直に受け入れる事は難しとは思うのだが。



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