高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2017年09月



「津賀ダム平和祈念碑」を建設した担当者から直接「強制連行」という非常に有難い「お言葉」を頂いた訳だし、、

以下全文
(上、中、下の三部・拡大出来ます)

それに関する全ての項目に関して、事実と異なる事を指摘し、再度質問状を作成し、大正地域振興局に再度担当者に送って頂く依頼もしたので(前回、前々回参照)、次の行動に移る事にする。

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しかし、改めて思うが、関連質問⑦の「冬には雪が舞い込んできた」とは、、、、


当時はそれが当たり前だったのだが、、、、

春先の3月に「雪が舞い込んできた」家に住んでいた俺は一体どうすればいいのだ???

しかもテレビの冷蔵庫も洗濯機も電話も洗濯機もガスコンロも(以下略)、もあり、(以下略)で、それより生活環境は遥かに高かったという事か。

しかも平野部ではなく、寒さの厳しい大正村時代の山間部での話だから、よっぽど素晴らしい生活環境だったに違いない。


また工事現場までの道が無かった時代に、工事現場までトラックに乗せられて行ったとの事だが、戦後しばらくしても下道までバスは行かず、手前で転回していたそうで、前記したとうり、下道に繋がったのは昭和27~前後以降の話。

しかも当時は「歩く事」が基本でバスがあっても乗ってるのは爺ちゃん、婆ちゃんばかりで、転勤で学校に赴任する先生はおろか校長先生クラスまで歩きで移動する時代。

そんなご時世に、トラックに乗せられて来たとは、一体どれだけのご身分だったのだろう・・・・

ていうかそもそも「道」が無いし、、


おまけに「日本人労働者は沢山いたが、日本人の死亡者は子供が一人だけ確認されており、工事が原因ではない」

って、これ地元の人が聞いたらマジで切れるで、、、

地元の人全員が日本人と朝鮮人の共同墓地の話している訳だし・・・


ていうか、その内容でいくと、ダムの工事期間中、日本人は、工事関係者以外も含めて、老衰死、病死も含めて死者のいない時期が「5年」(もしくはそれ以上)程続いたという事だから、
一体どんな「歴史にの残る黄金の5年間」だったんだよ・・・・



また共有して頂けるという事であるから、
立場は違えど、私の一回りも二回りも先輩にあたる方々がそのような対応を既にして頂いているという事に対し、私自身が同じくこの内容を共有しないという事は「非常に失礼にあたる」から共有させて頂いているという状況でもある。


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そして本日、平成29年9月15日、北朝鮮がまたミサイルを発射した。

平成17年(2005年)4月12日の高知新聞にもあるように、この件に「北朝鮮」が関連している事が分かる
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そしてそれは、実際に現地にある「朝鮮高級学校」の文字からも明確である
(後ろから四行目)
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朝鮮学校の校長は、朝鮮総連から指名される。
そしてそれは北朝鮮の将軍様からの「任命」だ。

その様なテロ組織の出張所が関連する石碑を、この場所にこれ以上放置しておく訳にはいかないからだ。


そしてこの場所とは、すなわち地元の「多々野小学校」「大正中学校」「四万十高校」の校区である。


そしてこの場所にある「津賀ダム平和祈念碑」に「強制連行されてきた可哀想な同胞の慰霊祭」という名目で、その関係者が「地元の児童達、生徒達の通学路」を使用して毎年、定期的に団体、御一行様で「慰霊」に行き、その場所で、歌ったり、踊ったり、土下座まで
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している訳だ。


これ以上放置しておく訳にはいかないだろう。


そして

仕事や観光、生活のために、「地元の児童生徒達の通学路でもある」381号線、439号線、下道の町道を車で走る事と

「強制連行された可哀想な同胞の慰霊祭」に行くために、「地元の児童生徒達の通学路でもある」381号線、439号線、下道の町道を車で走る事は

根本的に「異質」な事であるのは、まともな日本人であればすぐに理解できる筈だ!

そして万が一、この通学路で事故が発生した場合、

「強制連行された同胞の慰霊祭に行く道中で起きた事故だから、元々の原因はウリ達の同胞を強制連行した日本が原因を作った訳だから、ウリ達は悪くないニダ!!!」

という事になる訳だ。



だからもう回答が来るのに2か月掛かる大正地域振興局、


「日本政府の見解、認識、立場」

と、

「幡多ゼミ、韓国民団、駐広島大韓民国総領事館の見解、認識、立場」


一体どちらが重要であるかの簡単な質問にさえ答えられない同局の回答を待っている訳にはいかない。

現在の状況を

地元の小学校、中学校、高校、県教育委員会、四万十町教育委員会に伝えて判断して頂く事にしよう。


現在までの経緯、状況、そして私と「幡多ゼミ」との質問、回答、それに対する私の指摘、説明は全て大正地域振興局が把握しているのだから、後は遠慮なく同局に問い合わせて頂ければいいだけだ!!!!



北朝鮮がまたミサイルを発射した今日、その北朝鮮の関係する「強制連行」の石碑が四万十町の小学校、中学校の「校区」にあり、その場所に「韓国民団本部」「韓国民団高知」「駐広島大韓民国総領事館」が定期的に「慰霊活動」に訪問し、歌ったり。踊ったり、土下座をし、その「慰霊活動」への「経路」に、その地元の小学生、中学生の使用する「通学路」が使用されている、という第三者からの報告に「無反応」な教育者など存在しないと、そう判断したからだ!!!

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という訳で、まずは四万十町企画課にメールを送信

前回は「担当は大正地域振興局だから」、と逃げていた企画課の反応と、「企画課は無関係だから」と断言していた奴を特定させる目的も含め。
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(以下内容全文)

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今年の7月頃より下道の津賀ダム湖畔の西にある「津賀ダム平和祈念碑」の件について大正地域振興局の山本様を通してお問い合わせをさせて頂いております高知市の廣田です。

先日、山本様を通して、「津賀ダム平和祈念碑」を建設された宿毛市の「幡多ゼミ」の担当の方より、「津賀ダム平和祈念碑は、戦時中の日本による朝鮮人強制連行に基づくもので、それは事実であり四万十町にも理解して貰っていると考えている」という明確な内容の回答を頂きましたが、それは四万十町としても同じ認識であると理解させて頂いてよろしでしょうか??

(なお、頂いた「幡多ゼミ」担当の方からの回答については、多くの内容について日本政府の立場、史実、事実と大きく異なる部分がございましたので、その点を全て指摘させて頂き、山本様を通して「幡多ゼミ」の担当の方に再度、質問、回答依頼をさせて頂いております。)

またこの件に関連する当初の報道より(高知新聞2005年4月12日)、この「津賀ダム平和祈念碑」には「北朝鮮」と関連があり、それは現地で実際に「祈念碑」にある「朝鮮高級学校」の記載からも明確な事です。

そして現在「津賀ダム平和祈念碑」では定期的に「韓国民団」「駐広島大韓民国総領事館」等による「朝鮮人強制連行被害者に対する」「慰霊祭」が行われています。

そしてその場所は「四万十町所有の雑種地」であり、そこまでの経路は四万十町内の「381号線」「439号線」「四万十町の町道」です。

そしてまた本日も「北朝鮮」はミサイルを発射しました。

それもでまだ四万十町さんは「津賀ダム平和祈念碑」を「四万十町所有の雑種地に存在する四万十町民共有の財産」として所有し続けるおつもりですか??


まず第一に、なによりも、あの場所は、地元の小学校、中学校、高校の児童達、生徒達の校区です。
そしてその場所への経路は「地元の児童達、生徒達の通学路」です。

これは早急に「町」として対処すべきではありませんか?

前回、企画課に直接お問い合わせをさせて頂いた時は、「担当は大正地域振興局」との事で、7月より山本様にお問い合わせをさせて頂いておりますが、本日も「津賀ダム平和祈念碑」に関係する「北朝鮮」がミサイルを発射した事を考えると、四万十町全体の問題として早急な対応をされるべきだと思うのですが、その点はどの様にお考えでしょうか?

繰り返しますが、あの場所、そこまでの経路は「学校の校区であり、児童、生徒達の通学路」です。

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そして小学校、中学校、高等学校、高知県教育委員会、四万十町教育員会へと報告した。

それぞれ四万十町大正地域振興局に問い合わせをして頂き状況を知って頂き、時間は掛かりそうとの事だが、結果の連絡を頂ける事になっている。

因みに、一人、私の話す内容に火病りながら反応していた非常に分かり易い奴がいて、もしかして彼はあちら側の方ではないかと、、、私の連絡先も聞かずに電話を切ったが、ま、別の方向から学校には連絡が伝わるだろうから炙り出し作戦成功という事で良しとしよう!!!

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で、また来週は

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再調査の結果、この経緯の中に、どうしても辻褄の合わない現象が存在し模もしかして、もう一方参戦して頂けるではないかと、ちょっと期待をしているでのある。


前回予告した、想像を絶する非常に斜め下の奇抜で予想外の壮絶なオチの可能性は、私の単なる勘違いだったが、その結果のその反対側がそれである。



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以下、貴委員会様より御回答頂きました内容について、文部科学省、外務省をはじめとする日本政府の見解、認識、史実、事実と異なる点、その他、私の意見、質問、等ありますので、(●廣田からの意見)という形でお話させて頂きます。


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津賀ダム平和祈念碑についての廣田氏への回答書
元津賀ダム平和祈念碑建設委員会委員長 山本哲資
幡多高校生ゼミナール顧問  山下正寿 上岡橋平
 
四万十町に寄せられた廣田氏よりの質問文は主に津賀ダム平和祈念碑建立の経緯や背景についてであり、7月28日に町より質問文をいただき、私より可能な範囲でお答えいたします。
 
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質問1 【祈念碑建立の経緯や背景を教えてほしい】
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(回答)
    「最初に、祈念碑です。祈りです。 1989年以来約20年間、百数十回の地域調査と地元の方々との信頼を深める交流を積み重ねてきました。その結果、犠牲者の慰霊と今後の日本と韓国・北朝鮮との平和な交流を願って建立しようということになりました。また、韓国釜山の高校生・教員との津賀ダムでの交流も何度か行われ、一緒に作ろうということになりました。」
 
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●廣田からの意見
         祈念碑、祈りですね。その後その様に理解させて頂いております。
修正、訂正させて頂きました。  失礼いたしました。


また、当初勘違いをしていた私がこの様な事を申し上げるのは恐縮するのですが、その後の慰霊活動を報道されている民団新聞、及び、駐広島大韓民国総領事館は現在の記載が「記念」となっております。
これは祈念碑を建立された貴委員会様の本来の目的とは異なる状態だと思いますので、ご対応されたほうがよろしいかと思います。

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関連質問① 【四万十町に登記の日は?】
    
           「町が回答 」
関連質問② 【H21.5.14 は何の日付?】
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(回答)
 「正しくは H21.6.14 です。苔むして見えにくかったようです。地元の方と一緒に幡多ゼミナールの高校生が祈念碑を作成した日付です。」

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●廣田からの意見
ありがとうございます。 より理解が深まりました。

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質問2 【祈念碑に記載されている文章は「事実」か? 】

(回答)
   【百数十回にわたる地域の人たちへの聞き取り調査の結果です。事実だと考えています。】

関連質問③  【四万十町の所有地に存在する建造物として、内容がふさわしいものか、どうか?】
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(回答)
   「長年にわたる聞き取り調査の結果や地域の人たちと信頼関係を築きながらの交流、韓国高校生との調査、
交流の歴史などを踏まえて、四万十町に理解してもらえたのではないか、と考えています。」

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●廣田からの意見

上記の内容、また下記の内容から疑問点、問題点が数多く存在すると思います。
少数の日本国籍の方々と、多数の韓国・朝鮮籍の方々で進行した内容とい点も非常に大きな問題だと思います。

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関連質問④ 【津賀ダムの着工と完成の時期はいつ?】
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(回答)
  「四電で確認しました。工事の着手は1940年2月、発電開始は1944年4月。戦後、残工事のゲート設備などの工事を再開し1951年3月完成、です。幡多高校生ゼミナール編集「渡り川」には正確に記録されていますが、碑文の1941年着工は間違いです。修正します。」
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●廣田からの意見

四国電力、大正町史の記述が正確な内容だと思っています。 また発電開始の(昭和19年)1944年4月の日付は非常に興味深い日付です。

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関連質問⑤  【碑文の「日中戦争が泥沼化」「軍事目的のために」「太平洋戦争」「労働力不足となり」等の言葉 は史実に基づいた正確なことばか?】
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(回答)
  正しいと思っています。
  ご存知と思いますが、朝鮮を「併合」した日本は1910年から1918年にかけて、朝鮮全土で「土地調査事業」を行います。これは日本人警察や役人によって行われ、結果多くの農民が土地を失い、土地は朝鮮総督府の所有となります。土地を失った朝鮮人は生活の糧を求めて日本や中国東北部へ移住しました。
  1937年日中戦争が始まり、戦争の長期化と戦線の拡大に伴い日本から中堅の労働力が戦線に動員され、日本国内の労働力不足が深刻になりました。アメリカとの太平洋戦争が始まるとさらにひどくなりました。自然に流入してくる朝鮮人だけでは足りなくなり、いわゆる強制連行が始まりました。朝鮮人強制連行は3段階で①「募集」(1939~1942)②「官斡旋」(1942~1944)③「徴用」(1944~1945)です。
高知県への朝鮮人の動員は、海軍基地建設や本土決戦用の陣地の構築、ダム建設、発電所、鉱山関係が主で、1944年には四国4県で高知県が最も多い4,374人いたという記録が残っています。本土決戦方針を決定した1945年にはさらに多くの朝鮮人がいたはずで、おそらく1万人近い朝鮮人が高知県の山間部、海岸線に集中していたものと思われます。
津賀ダムには強制連行組を含めて200人位の朝鮮人がいました。下道ではダム本体と道路の付け替え・導水路工事、津賀では発電所と導水路工事、さらに十和北の川から導水路工事をしていました。
津賀ダムの工事は、日本発送電株式会社のもと東京の堀内組が現場監督を行い、さらに下請けに出していました。津賀ダムで作られた電気は愛媛県の新居浜に送られ、戦闘機の機体に使うアルミニウムの製造工場が主にこの電気を利用していました。
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●廣田からの意見

私はかなり正確性を欠いた内容になっていると思います。

まず「朝鮮を併合した日本は~日本や中国東北部へ移住しました。」の部分は元東京大学教授の宮嶋博史氏の書かれた「朝鮮土地調査事業史の研究」の記述です。

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有名な資料である事は間違いなく日本の教科書出版会社も一部引用している内容なのですが、宮嶋教授はその後、韓国の成均館大学へ移籍され、アジア学術教授となられています。
普通の日本人は韓国の大学教授になる事はありませんから、この方も元々は朝鮮半島に由来のあった方である事が十分に考えられますし、その様な経歴の方の資料を持ってだけ当時の時代背景を表現する事は内容がさらに偏る事になります。


そして実際は、日韓併合後の朝鮮半島の人口は併合直後の1911年1383万人だったのが1936年には2137万人、終戦前の1944年には2512万0174人と倍増しており、日韓併合により日本となった朝鮮半島の日本国籍となった朝鮮人が、それが原因で以前より苦労したという事実は存在しません。

他にも1911年から1936年を比較すると

(人口1383万人  →  2137万人)
戸数    281万戸 → 401万戸
農地面積 273万町歩 → 450万町歩
米生産量  978万石 → 1941万石
普通学校  173校  → 2417校 (日本でいう小学校の事です)
生徒数  20,121人 → 765,706人
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になっており、そして朝鮮人の平均寿命が併合時はは25歳程だったのが1942年の頃には45歳程になった訳ですから、日韓併合により朝鮮半島が見違えるように豊かで住みすい場所になったのです。

そしてこの内容は当時朝鮮を管轄していた朝鮮総督府自身が作成した資料等から引用したもので、他にも調べれば日韓併合により朝鮮半島が豊になった事を示す証拠はいくらでも出てくる訳ですし、その姿は外国人の目にも当然映っております。


「日中戦争」は史実に基づかない言葉です。
1937年の盧溝橋を発端とする一連の出来事は「支那事変」もしくは「日華事変」「日支事変」等です。

「戦争」ではなく「事変」です。

「戦争」とは「宣戦布告」に始まり「講和」を持って終結するものです。
「事変」とは警察で対応出来ない大きなテロのような出来事を指します。
そして盧溝橋以降の出来事は「事変」です。

理由は「宣戦布告」も「講和」も存在しませんし、なにより当時の日本政府が「支那事変」と呼ぶ事に閣議決定しているからです。

そしてこれは私の意見、考え方ではなく「文部科学省」の認識、「日本政府」の見解です。

頂いた回答の中にも「何より事実に基づく事が大切」と言われてますように、碑文の内容も史実、事実に基づく内容にされるべきだと思います。
その事が碑文の信憑性を高める事に繋がりますし、逆に「文部科学省」「日本政府」の認識、見解と異なる記述される事はその存在自体の信憑性を貶める事になります。


勿論、確かに「日中戦争」という言葉は戦後の「造語」といして存在していますが、それは表現の自由の範囲内の言葉で、また学校の教科書にも記されている言葉ではありますが、それはページ数、行数の限られた教科書の記述内容に対して、文部科学省がある程度の「幅」を持たせているだけで、あくまでも認識は「事変」であり「戦争」ではありません。

そして当然「支那事変」という記述の教科書も、朝鮮総督府の関連資料を使用した教科書も、それと同等、同様の内容を示す外国人の著書も多く存在します。


同様にして「太平洋戦争」も不正確な言葉です。
インドでイギリス軍と戦っています。
「太平洋戦争」では「サンフランシスコ講和条約」が成立しません。
史実に基づいた言葉ではありません、史実に基づいた正確な言葉を使用すべきです。


また、それでも支那大陸に日本軍がいた事を「侵略」と言う風潮も存在はしますが、当時日本軍が支那大陸にいた理由は、1900年の義和団の乱の結果として結ばれた国際条約の結果に基づくもので、軍隊が駐留する理由は国際条約に基づき合法的に支那に居留する自国民を護るためで、当時の支那(清朝)が義和団の乱で合法的に居留する外国人の安全を守る事が出来なかったという当然の原因から来るもので、それは日本だけではなく、イギリス、フランス、ロシア等、当時の欧米列強も全く同じです。

「戦線の拡大」も不正確な記述です。
日本軍は清朝崩壊後の軍閥の一人「蒋介石」と戦闘があっただけです。
盧溝橋事件の後の「北京」、南京攻略後の「南京」にはそれぞれ別の軍閥が地方政府を作り、その後「汪兆銘政権」が樹立されており、その政府は「親日」です。
つまり当時の清朝崩壊後の支那大陸は「北京」「南京」を含む広い範囲が「親日政権」だった訳で、日本軍が戦っていたのは、その奥地の「重慶」の「蒋介石」で、さらにそこから逃げ回っていたのが戦後現在の「中華人民共和国」を樹立した「毛沢東の共産党」です。



日本が朝鮮人を「強制連行」した事実は存在しません。

「昭和35年2月発行・外務省発表集10号」
によると、
終戦時、日本本土には200万人の朝鮮人がいて、翌年昭和21年3月までに政府の配船、個別引き揚げ、連合軍の指令に基づく朝鮮引き揚げ計画等で150万人が帰還しており、その他は自由意志で日本に残り、その中で「徴用」で日本に来た朝鮮人は「245名」だけでした。

つまり当時の調査で朝鮮人自身が、「強制連行」が無かった事を証明するどころか、「強制連行」という言葉さえ存在していなかったのです。


また最近では高市早苗衆議院議員が平成22年3月10日の衆議院外務会議でその外務省発表を示し、「強制連行」があったという民主党の意見は却下されています。


日本の外務省発表の内容とは根本的な部分で大きな隔たりがあり、衆議院外務会議で即座に「却下」される「朝鮮人強制連行」という言葉に基づいて建設された「津賀ダム平和祈念碑」は、「文部科学省」「外務省」すなわち「日本政府」の見解、認識、立場を完全に無視した、しかも史実、事実に基づかない「祈念碑」という事になってしまいます。


そしてまた、その事は高知県高岡郡四万十町、及び四万十町民に多大な迷惑を掛ける事になりませんか???



また「徴用」に関してお話させて頂きますと

当時、日本本土も台湾も、そして朝鮮半島もすべて「日本」でした。
そして確かに昭和19年に朝鮮半島で「徴用」が開始されています。

間違いなく「事実」です!!!!

しかし、それより5年以上前の昭和14年から、日本本土、台湾では「徴用」が実施さ
れています。

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ですから、津賀ダムの建設現場では最初から「日本人」「台湾人」が「徴用」で働いていており、その中に「募集」や「官斡旋」の個人の積極的な就職活動による自由意志で働きに来た朝鮮人が働いていた訳です。

それが日本人や台湾人より5年遅れて昭和19年に朝鮮半島も「徴用」の対象になった事の一体何処が問題になるのでしょうか???


また四万十町史、四国電力さんの資料にもあるように、津賀ダムの発電開始は昭和19年4月という事です。

そして朝鮮半島の「徴用実施」は昭和19年9月以降の話ですから、少なくとも「徴用」で「津賀ダムの隧道工事」に関わった朝鮮人は全く存在していない事になります。

そして「徴用」において「津賀ダムの隧道工事」で犠牲になったのは「日本人」「台湾人」のみで、朝鮮人には全く関係の無い話にはなりませんか????

それどころか朝鮮半島での「徴用実施」はダムの発電開始の5か月後に始まった訳ですから、既に殆どの工事は終了しており、「徴用」で津賀ダムの工事現場に働きに来た朝鮮人は存在しなかった可能性のほうか非常に大きいです。



当時四国にいた朝鮮人の数字を示されていますが、当時であればそれは当たり前の話です。


そして電力がそのような使われ方をしていたのも当時の時代背景からすると当然の話であります。


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関連質問⑥【「過去を省みて平和な未来を築き・・・」の過去を省みるのは「誰」で、一体どのような気持ち、姿勢で「過去」を省みるべきなのか?】
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(回答)

我々日本人のことで、反省すべきは反省しないといけないと考えます。加害の歴史を反省することで、未来に対して前向きになることができると思います。

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●廣田からの意見

上記の内容からして、「強制連行」は存在しません。

そしてそれは私の意見、考え、調査などに基づくものではなく、「日本政府」の認識です。

それどころか、「徴用」においてされ朝鮮人労働者は隧道工事には関わっておらず、「徴用」における隧道工事の犠牲者は「日本人」と「台湾人」のみの可能性大です。

そしてその実際に「徴用」において「隧道工事」で犠牲になったであろう「日本人」「台湾人」から「文句」の一つも無いのは何故でしょうか。


また当時の朝鮮人の方にも立派な軍人さんも多数いましたよ。

朝鮮名を語り日本名の日本の兵隊を指揮されていた方もいらっしゃいます。


「戦死」を前提に、戦場で命懸けの戦闘をする「軍人」と

「安全第一」を前提に現場で作業する「職人」と


貴方方は一体どちらの仕事が危険であると考えておるのですか???????



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関連質問⑦【「ふるさとの朝鮮半島に帰れなかった犠牲者のことを・・・」その根拠は?「帰れなかった」の は事実か?その理由、原因は?】
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(回答)

 犠牲者は津賀ダム近くの山中に眠る十数人の朝鮮人無縁仏のことです。石が置かれており、地域の方々の証言により判明しました。死亡原因は事故や病気などです。また、日本人の労働者もたくさんいましたが、日本人の死亡者は子どもが一人だけ確認されています。工事が原因ではありません。
津賀ダムに来た朝鮮人の多くは出稼ぎで、家族連れもいました。しかし、住む所でいえば、日本人は民間人の家に民泊し、朝鮮人は飯場に集められました。飯場の住居は粗末で、土間にむしろを敷き、周りを板で打ちつけただけで、冬には雪が舞い込んできたといいます。そのうえ、危険で過酷な労働に従事していたのに給料は日本人の半分位だったというのが現実です。日本人と朝鮮人の労働や生活環境には雲泥の差がありました。
また、山奥側に厳重に管理された区域があり、20人ほどの朝鮮人青年が番号で呼ばれていて、その近くには見張り所が設置され、増えていく逃亡者を追跡し捕まえたという証言もあります。逃亡に失敗して捕まえられ、棕櫚(シュロ)の皮で作ったロープを水につけて硬くし、それで殴られる場面を見たとの複数の証言があります。この青年たちの中に、李洋一さんの父親がいました。李さんの父は腰にサーベルを吊るした日本の軍人に強制連行され船で八幡浜に、そこからトラックに乗せられて津賀ダム工事現場に連れてこられました。その後、李さんは母親と一緒に強制連行された父親を追うように大正の山奥に連れてこられましたが、終戦まで父親に会うことはできませんでした。同じように、何組かの妻子が連れてこられていて、逃亡を防ぐためだろうと思われます。
この青年たちは強制連行により連れてこられた人たちで、先に移住してきた家族と区別してみるべきだと思います。

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●廣田からの意見

私も下道周辺で地元の方にお話しは伺っております。

その中で昭和地区の方からは、近くにある墓地には朝鮮人労働者のお墓が3つあり、その他は日本人労働者でその数は20~30ぐらいだったと聞いています。

ですので日本人労働者のダム工事での犠牲者は、朝鮮人労働者の、少なく見ても5倍、多くて10倍前後の割合であったのでないかと推定しています。

「日本人の労働者もたくさんいましたが、日本人の死亡者は子どもが一人だけ確認されています。工事が原因ではありません。」

という証言は貴委員会様と私を省く第三者が訪問しても確認出来る内容なのでしょうか??

また「津賀ダム平和祈念碑」の中には、ダムが完成する前に渡し舟で対岸に飲みに行って、帰りに酔っ払って船から落ちて溺れて亡くなられた朝鮮人労働者の墓石と思われる石も入っているそうですが、その事も「祈念碑建設」の意義に含まれる事なのでしょうか。


そして20人程の朝鮮人青年の話に関してですが、

地元の方に伺った話では、ダム建設当時は、まだダムまでの道路は無く、ダムの場所までの道が完成しバスが来るようになったのは昭和27~前後以降の話だと聞いております。
その証言をされている方は一体どの様な経路を辿って津賀ダム工事現場までトラック
に乗せられて来たのでしょうか?
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証言としては非常に貴重で重大な内容で、もっと詳しく知りたい部分がありますが、その点において非常に信憑性を欠いております。



また給料についてですが、最近話題になっている「軍艦島」での炭鉱労働者の賃金は当時の花形産業であった事もあり好待遇で、兵隊や軍曹の給料の3倍~4倍程で、それは日本人も朝鮮人も台湾人も全く同じであったという証拠も多数判明しております。

給料が半分程であったという事であれば具体的にはどの様な金額だったのでしょうか?



また「日本人と朝鮮人の労働や生活環境には雲泥の差がありました。 」
との事ですが、結論から申しますと、当時の時代背景、世界情勢に照らし合わせて考えると、それは「当然」の話です。

当時の日本人と朝鮮人との間に格差が無い事が世界的に見れば「非常に異常」な事で、格差がある事が世界的に見れば「普通の正常」な事です。

それは「国家」「国力」「国民」の違いです。

1897年からの朝鮮半島である「大韓帝国」以前の「李氏朝鮮」は支那の「清朝」の属国でした。
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1871年(明治4年)、日本はその「清朝」と対等な「日清修好通商条規」を結びます。

その5年後の1876年(明治9年)、日本は次に「李氏朝鮮」と完全に不平等条約となる「日朝修好条規」を結びます。
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何故「不平等条約」を結んだかというと、日本が「清朝の属国である李氏朝鮮」と平等な条約を結んでしまうと「清朝の属国である李氏朝鮮」と「清朝」が対等な関係になってしまうからです。

そんな事は日本と対等の立場で条約を結んだ「清朝」に致命的なご迷惑をお掛けするだけなく、その他の関係する諸外国にも非常に迷惑な事になるので、当時の国際的な国家間のご事情により「朝鮮」とは「不平等条約」にしただけの話です。
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そして1894年、日清戦争が始まり日本が勝利し、下関条約でまず「朝鮮を清朝の属国」から解放します。
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日清戦争が、清朝と日本の戦争であるのに、朝鮮半島を舞台に戦闘し、その事に対して「李氏朝鮮」が全く文句の一つも言えなかった訳ですから、当時の朝鮮半島が「日本」「清朝」と比較し一体どれだけ格下の国家であったかは想像がつくはずです。

更にその後の1900年の義和団の乱の結果として結ばれた「北京議定書」は、日本、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ等の欧米列強が「清朝」と結んだ完璧な不平等条約です。


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そして1902年には当時の一等国であるイギリスと「日英同盟」を結び名実ともに「世界の一等国」の地位を獲得した訳です。
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そして更に1905年には世界最強と謳われていたロシアとの日露戦争に勝利しました。
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そして更に、1911年にはかつての「李氏朝鮮」の「宗主国」であった「清朝」は崩壊した訳ですから、当時の「日本」と「朝鮮」の間に「雲泥の差」がある事は、逆に言えば「絶対に必要な事」であり、無い事が国際的に見れば「想像を絶する程の異常な事」になる訳です。
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でもしかし、実際にその実態はどうだったのでしょうか。
貴委員会様も地元の方への調査において、朝鮮人の子供も日本人の子供も同じく下道の小学校(正確には大奈路尋常小学校の分校ですか)で仲良く席を並べて勉強していたという話も聞かれておる筈です。
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しかも日韓併合前の朝鮮は貴族、両班の特権階級以外の人々は学校に通っていませんでした。(正確には日本の影響力で併合前に学校は造られましたが。)
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つまり併合当時、以前の朝鮮半島の児童の就学率は0%だった訳です。
いや「児童」という言葉も存在していません。


厳しい言い方をすれば、学校が無かったというより、「教育」そのものが存在していなかった訳です。
学校が無かった訳ですか「医学」そのものが存在せず、当時の朝鮮には朝鮮人の「病院」は存在せず、外国人の「病院」だけがあったという事実は、日本だけでなく、当時の世界各国の共通、共有する史実です。
その朝鮮に医学を持ち込み「病院」を建設し「伝染病」を防いだのが「日本」です。
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ですから日韓併合により日本が朝鮮半島の人口を倍増させた事は、農地を倍増させ、収穫量を増やしただけでなく、医学を持ち込み、有史以来、朝鮮半島に蔓延していた「伝染病」を防いで平均寿命を25歳から45歳に延ばした事も大きな要因となります。


そして日本が日本人のお金で朝鮮半島に学校を建設し教育制度を敷いた結果、津賀ダム建設当時の朝鮮半島の就学率は6割を超えるようになりました。

その朝鮮半島から、既に日韓併合以前より就学率が四捨五入すれば100%になる日本に家族を連れて働きに来て、子供達が日本本土の日本人の子供達と全く同じ環境で学校に通っていた訳ですから、その一方でその朝鮮人の児童の親が、自分の子供と正反対の酷く過酷な環境下に置かれていたという事はあり得るのでしょうか??


環境に違いがあったとすれば、それは朝鮮半島の朝鮮人と、日本本土の日本人との長い歴史の中の「国家」「国力」「国民」の違いによる生活レベル、生活環境、生活習慣に起因する事が原因だったのではないでしょうか。
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例えば、ロシア人が新宿に来て、いきなり日本人と全く同じ生活が出来るでしょうか?お互いの生活様式に合わせた異なった環境があっただけの話ではないでしょうか?

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また「冬には雪が舞い込んできたといいます。」との事ですが、その様な建物は現代でも山間部に行けばあります。
それでも当時の朝鮮と日本の間には「圧倒的な国力の差」が存在していた訳ですから、まともな屋根材、構造躯体、建具さえ無かった朝鮮での生活環境より、量産型の屋根材、構造躯体、外壁材、建具が日韓併合の遥か以前より存在していた日本での生活環境は働きに来る前の朝鮮半島での生活環境と相対的に比較しても安全で快適だった筈です。


なにせ「お風呂」と「便所」があった訳ですから!!!!!!!!
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  関連質問⑧【現在も日本国籍を持たない朝鮮、韓国籍の方が祖国に帰らないのはなぜか?】
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(回答)
 現在、朝鮮、韓国籍の方が祖国へ帰らないのは、各自それなりの理由があるのではないですか。
言うまでもなく、終戦直後は朝鮮半島へ帰るため九州北部や山陰の港に集められました。しかし、朝鮮人を本国へ送り届けよと命令された日本人現場監督は、仕返しを恐れてそこで姿を消してしまいます。さらに、日本政府が用意した帰国船はあまりに少なく、朝鮮人は金を出し合い漁船をチャーターし現在の難民船のように朝鮮海峡を渡ったといいます。定員をはるかにオーバーした漁船は突風が吹くとひとたまりもなく難破し、大量の水死者が北九州から山陰の海岸線に漂着したそうです。順番を待っている間に金を使い果たし日本に残ることを決意した朝鮮人が多く出たといいます。また、朝鮮戦争が始まると帰るどころではなくなりました。そういう人たちが在日韓国・朝鮮人の始まりではないでしょうか。

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●廣田からの意見

昭和21年3月には終戦時200万人いた朝鮮人のうち150万人が帰国しています。

帰りたい方が帰り、残りたい方が残っただけです。



日本人は北朝鮮に拉致された日本人被害者を「返せ」と北朝鮮に言っています。

韓国が日本に「強制連行された朝鮮人」を「返せ」と要求してこないのは何故なのでしょうか??

そして朝鮮人自身が終戦以来70年以上、一度も「祖国に帰りたい」と訴えなかったのは何故でしょうか???

日本政府は常に朝鮮人の帰国への道を開いております。
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質問3 【慰霊碑でなく「平和祈念碑」なのはなぜ?】
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(回答)
 
 慰霊が基本ですが、それに留まらず、過去を踏まえて平和な未来を願ってのことです。
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●廣田からの意見

私の知る限りでは、ダム工事での日本人犠牲者の数は最低でも朝鮮人の5倍以上はあるようです。

しかも「強制連行」は存在していませんし、朝鮮半島からの「徴用」は発電開始から5か月以上先の話ですから、逆に5年以上前から「徴用」でダム工事で働いていた「台湾人」「日本人」の事も調査され、「募集」「斡旋」も含め、ダム工事で犠牲になられた労働者の方々のおかげで電力の供給がある事に対する感謝の気持ちは必要ですね。
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関連質問⑫【この祈念碑は、誤ったメッセージの発信となるのでは?】
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(回答)
   上記したように、20年間、百数十回にわたる地域調査と地域の方々との交流、韓国釜山の高校生、教員との交流を積み重ねて事実を明らかにしてきました。こういう碑文は何より事実に基づくことが大切だと考えます。そして、地域の方々の気持ちを汲んだ上で文言は書かれています。
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●廣田からの意見

「文部科学省」「外務省」つまり「日本政府」の認識、見解とは根本的な部分で大きく異なる記述が多く含まれております。

それは日本国民、高知県民、四万十町民の「民意」に反する事にはなりませんか??

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【他の数字について、説明します。】
 ・隧道の長さ:5,663メートル  これで正しい。直線ではなく、折れ曲がっています。
 ・ダムと発電所との高低さ:963メートル  96.3メートルが正しい。「 .」が見えずらくなっているのか、
抜けているように見えます。「 .」を入れ修正いたします。
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●廣田からの意見

隧道は折れ曲がっていますね。私も現地の方に話を伺い、横穴の事も教えていただきました。 勉強になりました。ありがとうございます。


963メートルはに入れる小数点は数字の「963」ではなく、漢字の「九六三」に入れるので「.」ではなく「・」ではありませんか??

修正したとしてもかなり不自然な状態になりそうなのですが、、ダム、水力発電、周辺地域の事を本当に理解されておられる方が書かれた内容であるかどうか、非常に疑問です。

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感想文(抜粋)紹介:当時、祈念碑建設に関わった高校生とその記録を読んだジャーナリストの感想文を一部ですがご紹介いたします。
 
 
1  高1男子
(前略)
 慰霊碑建設は20年近く掛かって、今年やっと実現したものです。故郷に帰ることができないまま日本で亡く なった方々が数多くいることを知ってとても悲しいことだと思いました。現在の僕たちに罪はないと思いますが、 果たすべき責任の重さを感じます。これからはこのような事がない平和な世の中にしなければなりません。
 慰霊碑は当時の作業現場から僕たちが運んできた石で作られています。そして、僕たち高校生は慰霊碑のそば にすえる「お地蔵様」を彫りました。日本式と韓国式の2体です。柏島の海に行き丸い石を拾ってきて、皆で金 づちとノミでガンガン彫りました。石は思ったよりよりも硬く大変な作業でしたが、歴史を作る行事に関わって
いると思うと全く苦ではありませんでした。
この作業の他には慰霊碑建設現場に行き、石を運んだり木を植えたり、朝鮮人の方のお墓を供養しました。数 ヶ所に点在する無名墓の土を小さな骨つぼにとり、慰霊碑の下部に安置するのも僕たち高校生の大事な仕事でした。中に金本菊子ときちんと名前が刻まれ、日本人と同じように奉られたお墓がありました。地域の方によると、こんなお墓は日本でも珍しいとのことでした。石が一つだけ置かれていて名前も分からないお墓がたくさんあるということです。だから、すごく良い事だと思いました。
 様々な準備をして、今年の夏休みに、高知県大正の津賀ダムで慰霊碑の除幕式を行いました。除幕式は地元の人たちや韓国釜山の高校生38人を招いて日韓交流を兼ねて行いました。
 除幕式当日は大雨だったけれど、韓国で大雨は「歓迎の涙」と言われるくらいなので大雨の中決行しました。120人もの参加でとても立派な、そしてとても感動した式になりました。韓国の人たちが涙を流しながら供養の民族踊りを踊りました。演技の涙ではないとすぐに分かったし、犠牲者へのものすごく強い深い思いがあったのだと思いました。
   (中略)
 良い経験になりました。そして、改めて平和ということがどんなに幸せか実感できました。来年は僕たち日本人が韓国に行く予定なので、今回出会った人たちとの再会を期待して、それまでしっかり勉強しておきたいと思いました。
 
2  高3女子
(前略)
式典後、韓国の学生と式典の感想を言い合った時に、中には涙が出たと言っている人もいました。私はそれ を聞いて、韓国の人たちは日本が思っている以上に過去にあったことを重く受け止めているんだ、日本は本当にひどい事をしたんだなあ・・・と改めて思いました。(後略)
 
3  高2男子
(前略)
ここで亡くなった朝鮮人労働者の他にも日本には悲しい過去がたくさん在ります。今は平和なのがあたりま えの時代です。ですが、過去にあったことを学び伝える事も、平和な時代にいる僕たちの役割なのだと思います。
 
4  岩垂弘(ジャーナリスト)
(前略)
日韓両国がこれから先互いに共存し友好関係を深めていくためには、両国民の相互理解が不可欠だ。津賀ダ ム平和祈念碑の建立は、両国の未来を担う青少年の間で相互理解への努力が着実に根付きつつあることの表れとみていいのではないか。
 
〇この祈念碑は、高校生や地域の方々、韓国高校生・教員、その他支援して下さる多くの人が長年の調査と交流 の積み重ねでやっと完成したものです。大変な苦労がありました。いわば、地域の良心、日本の誇りと思います。
いろいろご意見があろうかと思いますが、温かく見守っていただければ幸いです。
 
〇また、私とか特定の団体だけがこの碑を建設したものではありません。津賀ダム建設委員会に集まった人たち に廣田氏の質問文、および私の回答書を見てもらい、学習し意見を頂戴します。みんなで共有することが大切だ と考えています。ご了承ください。
 
以上です。


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●廣田より

共有して頂けるようでしたら、是非ともお願い致します。
よろしければ、その学習の場からのご意見等も頂きたいです。

度々お手数をお掛け致しますが御回答頂ければと思います。

宜しくお願い致します。



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かつては酷道、そしてヨサクと呼ばれたいた国道439号線

トンネルが開通して便利になったが、少し旧道に入ると
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温泉発見
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でもやっていいるのか!!
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やってては欲しいが、、
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やってるみたいだ
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やりゆうろうか、ほんまに!!!
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「やってるよ!!!!!」
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こういう時のためにバイクに格納している「マイ温泉セット」を持ってきて、
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入る
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食事も出来るのだろうか?
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ここで500円払う
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まだ客はいないみたい
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いい感じ、建物は古いがとにかく綺麗で整理整頓されている

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カラオケ
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脱衣所
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シャンプー、ボディソープ完備
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水風呂は、いやサウナが無いから、子供用かな。
でもサウナ無くても全く問題なし
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ここでこんな温泉に入れる事が素晴らしい
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ヌルヌル温泉なんだけど、出たらスベスベ!!!!!
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しばらくすると、地元方だろうか、常連さんらしき二人組が来た!!

食事の準備していたから、聞いてみたら宿泊客の夕食で、食堂はやってないとの事。

うーん、別に腹減っていた訳ではないが、1000円超えてもいいから、なにか食べたかったぜ!!!
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大正からの帰りの定番となりそうだ!!!

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その後も下道に訪問し、地元の方の話を聞いてきた。

まあほぼ全員が「いや~、昔あのダムで朝鮮人の強制連行があってねぇ~・・・」
とは言うが、皆様それ以上の事は全く知らないようで、その事ならこの下道の長老的な存在の人がいるから、その人なら色々知っているから、という事で家を教えてもらい訪問。


声を掛けると気さくに話をしてくれて、その後お茶やお菓子を頂きながら祈念碑の事、また当時の事を教えて頂いた。


でまあ、なんと、この祈念碑には・・・・・・・

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ダムが完成する前の話で、対岸にある飲み屋に渡し舟に乗って飲みに行き、帰りの渡し舟で酔っ払って川に落ちて溺れて死んだ朝鮮人のお墓の石も入っているとの事。
(なにせ朝鮮人は泳げないからね)



自分の意思で朝鮮半島から日本に働きに来て

飲みに行った帰りに、渡し舟から落ちて溺れて死んだ朝鮮人のお墓の石を入れて
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津賀ダム平和祈念碑とはねぇ・・・・・・・・


しかも関連する、人物、団体はこれ
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強制連行されたニダ、強制徴用されたニダ!!と言ってはいるが、実際戦前、戦時中の徴兵、徴用の制度はこのようのものだった。
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当時は日本本土、そして台湾、朝鮮も日本であった

まずはその中で、本家の日本本土の日本人男子が徴兵という形で戦場に出征していった。

台湾、朝鮮には昭和13年(1938年)から陸軍特別志願兵制度、昭和18年(1943年)から海軍特別志願兵制度が敷かれ、日本本土と同じ「徴兵制度」になったのは終戦の約1年前の昭和19年9月から。

また、志願兵制度の倍率は極めて高く、特に海軍特別志願兵制度の第一回目は3,000名の募集に対して316,097名と、100倍を超える倍率だった。
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     (ウイキより)


また条件は違っていたが、日本兵と台湾兵が如何に勇敢に戦ったか、数字で分かる!!
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東京裁判の結果も
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当時は台湾の朝鮮も同じ日本であったのに、何故、朝鮮人だけが未だに文句を垂れているのだろうか??

下道の地元の方でその質問に答えれる方はいなかった・・・・・




彼らは、朝鮮半島から日本に連れて来られて、ダムや隧道の現場、炭鉱等でスコップやツルハシを持たされて過酷な労働を強いられた!!

と主張するのだが、では何故、当時の日本が台湾や朝鮮半島に労働力を求めていたかというと、それは日本本土の日本人男子は「徴兵」に応じて戦地に赴き、武器を手に取り敵の軍隊と戦っていたからである。

日本本土と同じく、当時の台湾も朝鮮も、同じ日本であったが、「徴兵」には日本本土の日本人男子のみが対象となっていたのだ。


そんな状況の中で、日本本土で労働力が不足し、朝鮮半島に募集を掛け、条件に合うう朝鮮人が日本に働きに来ていた訳だ。



特に炭鉱は当時の花形産業で、日本軍の軍曹が30円前後の給料の時代に100円を超す給料を貰っていた。
だから多分、ダム工事、隧道工事もそれに準ずる給料だった事だろう。



「徴兵」で戦地に赴き、武器を手に取り敵の軍隊、しかも国土も人口も日本より広く多く、資源の乏しい日本に対して資源の豊かな国、アメリカ、そして工業生産能力も総合的な国力も日本のそれを大きく凌ぐアメリカと戦場で戦う事、弾丸が飛び交い、いつ何処から爆弾が降ってくるかわからない戦場で、戦死する事を前提に日清戦争、日露戦争の相手を凌ぐかつてない強大な敵「アメリカ軍」と戦う事と、、、



国が戦時中にも関わらず戦場には御呼びでは無く、日本本土の男子が「徴兵」で戦地に出征しているため、日本本土に労働力不足が発生し、その不足分を補うため、本来であれば朝鮮半島には来るはずの無かった日本本土への「就職」の機会が訪れ、大喜びで募集に応じ、憧れの日本本土で、日本人男子が戦場で武器を手に取りアメリカ軍と戦っている最中に、アメリカ軍のいない安全な日本本土で、スコップやツルハシを持って衣食住が確保された職場で、しかも戦場で命懸けで戦う日本兵より高い給料を貰いながら、ダム、隧道の工事現場、炭鉱で働く事、、


一体どちらが過酷な事なのか。

当の日本人自身が平和ボケでその事をよく理解出来ていない事にも問題があるが・・




でも、これは「極論」で説明すべき事なのだ。



つまり、【そういう民族!!!!!】


という事であるのだ!!!!


だから【そういう民族!!!!】


と関わってはいけない、という事なのだ!!



そして【そういう民族!!!!】


と関わりを持ってしまい、その先にお約束の末路しかないので


関わった全ての者、個人、団体、国家までが行きつくお約束の末路しかないので


もう関わってしまったオッサン連中はどうでもいいが、地元の子供達を巻き込む事は絶対に無いように四万十町から韓国、朝鮮人を排除しよとしているのである。




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高知県高岡郡四万十町下道にある「津賀ダム平和祈念碑」
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ではこの祈念碑にはどのような方々、団体が関連しているのか見てみよう!!


まずは朝鮮人強制連行の資料が発見されたという内容の高知新聞の2005年4月12日の記事から。
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右半分
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左半分
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出てくるのは

●平和団体

●在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)県本部が結成した
「県朝鮮人強制連行真相調査団」

●幡多高校生ゼミナール

●韓国政府が2004年に結成した
「日帝強占下強制動員被害真相究明委員会」

●と同会↑との連携を模索している「幡多高校生ゼミナール」
顧問の山下正寿さん



いきなり日本と国交の無い、しかも日本人を拉致している北朝鮮が登場


そして幡多ゼミナールとはこういう団体
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北朝鮮と韓国の意見を、日本の幡多ゼミナールでワンクッション置き、その内容を高知新聞が掲載しているという形に見える、というのが普通の感覚だろう。


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2007年2月25日の釜山日報
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●幡多ゼミナール

●韓国人の霊を賛える
「四万十平和の塔・都賀ダム朝鮮人犠牲者慰霊碑建設委員会」


●釜山地域の八つの高等学校の生徒30名で構成された
歴史サークル「共生の旅」

●釜山に行ってきた幡多ゼミの指導者、山下さん、上岡さん

●釜山電子工業高校のカン-チェロ教師
(韓国の鎮魂クッ)



2007年2月28日 民団新聞
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●昭和地区在住の清水さん(75、当時)

●釜山の高校生16人と幡多ゼミ生24人の計40名


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日本での出来事なのに、日本の新聞では報道が無く、韓国の新聞でしっかりと報道されている

つまり「津賀ダム平和祈念碑」とは


そのような「性質」であるという事だ

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2009年8月10日(除幕式の翌日) 高知新聞
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●幡多ゼミナール

●韓国の高校生、大学生約40名(大学生チェ・イェスルさん)

●津賀ダム平和記念碑建設委員会
山本哲資建設委員長

●町内の労働者遺族

●前田哲生四万十町長


(高知新聞では出席者は120名との事だが)



2009年8月15日 民団新聞
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こちらでは早速 出席者160名と、高知新聞の120名より33%の増量だ!!


●幡多ゼミ

●釜山の高校生グループ「共生の旅」

●民団中央本部の朴生活局長

●父親を津賀ダムに強制徴用されたという
民団高知本部の李団長

●前田哲生四万十町長

●韓国演技団の「クッ」


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【民団が出席しているのに報道せず、韓国の高校生、大学生が来てましたとアピールする高知新聞】

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因みに四万十町の機関紙
「四万十町通信」では
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地元紙である「高知新聞」だけでなく、お隣の韓国の新聞にさえ掲載された出来事なのに全力でスルー!!!!


出来れば四万十町民には知られたく無い案件なのかな???


そしてこの後にも先にも、四万十町通信に「津賀ダム平和祈念碑」の事が掲載された事は一度も無い!!





2016年8月29日 駐広島大韓民国総領事館
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↑の左端の人は四万十町役場企画課の人(しかも韓国人)
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そして去年は

朝鮮総連  韓国民団に加え

●駐広島大韓民国総領事館



対する四万十町は

●中尾博憲町長

●町議会、職員、企画課



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という訳でまとめてみた!!

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これを見れば一目瞭然!!!


この「津賀ダム平和祈念碑」というものが


一体どの様な「性質」のものか良く解る!!!

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四国電力からの回答が来た。

祈念碑を建てた側からとしては「幡多の電力会社」という事になるらしいが・・・



一度目の回答が
「祈念碑建立は土地が四国電力所有から四万十町に移転してからの話なので、直接は四国電力には関係の無い話です」

との事だったので

四万十町からの回答にもあったように
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四万十町の土地に登記されたのは平成21年(2009年)8月9日の3日後の8月12日ですから、祈念碑建立は四国電力が土地を所有されていた時期での話ではないですか??
と、改めて再確認をお願いした。



そして


二度目の連絡があり


「確かに登記自体は祈念碑建立式典のあった2009年8月9日の後の8月12日だが、土地の契約はそれ以前に行われており、契約日は契約書の内容に関わる事だから公開できないが、やはり祈念碑建立は四国電力から四万十町へと土地の所有権を移転する契約をした後の事だから、四国電力には直接関係の無い話です」

という一見するとなんとも味気ない回答ではあった。


がしかし、

物事にはそこに至るまでの背景、経緯があり、四国電力さんも状況を知っている訳だから、いやいや、その状況を知らない筈はない訳だから、祈念碑建立が土地を四万十町に譲渡する契約を済ませた後の話だとしても、朝鮮人強制連行の祈念碑建立用の土地を提供したのは四国電力さん自身ですよね!!!


という言葉をぶつけると、「祈念碑建立は契約後の事だから四国電力の時代の話ではなく四万十町の時代の話」という担当者としての立場としても絶対に引いてはならない線を保持しながらも、その担当者としての立場、権限の中で可能な限りの最大限の話をしてくれたと思う。

この話は社内でも共有される事になるかもしれない。



という訳で、この祈念碑の建立されている土地の謄本を取ってきた!!!!

四万十町からの回答で「平成21年7月6日を目途に現状有姿のまま不動産無償譲渡され平成21年8月12日登記」とあるように
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確かに2009年8月9日の津賀ダム平和祈念碑建立式典の後の8月12日に登記されている。

また四国電力の前の所有者は地元の方の言われていたTさんで、

そして四国電力さんの言われるように、6月30日の「寄付」が原因で、8月12日に高岡郡四万十町の土地として登記されている。



そうか、8月9日の40日程前の6月30日か・・・・・・


そうか、そうか、6月30日か・・・・・・・・



て、、、、、え″え″え″、え″え″、、え″~~~~~~~~~!!!!


6月30にちぃぃ~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!



確か、確か、四万十うぉっちんぐさんの情報では
6月13日に日韓友好モニュメントが完成したて書いているぞ。
8月9日に完成式とあるから、祈念碑の事だろう。
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だから今回の四国電力の主張が正しいという事であれば、寄付が6月30日としても、契約日は6月13日以前の、完成までの工事期間を含めたそれ以前の日付でなくてはいけない事になる。



しかも祈念碑の土台自体には
H21.5.14と
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これはこの土台が平成21年5月14日に造られた事を示すものだろう。



寄付は謄本から21年の6月30日という事が分かったが

四国電力が主張する、祈念碑建立は四万十町に譲渡する契約以降の事だから四国電力には関係は無い、という立場を保持するには、この土台に刻まれている日付の5月14日以前で、その契約日が更に寄付の日付からは45日以上遡った、登記の日付からは3か月以上遡った平成21年5月13日以前でなくてはならない事になる。


土地の寄付が契約日から45日以上後に実行されたり

土地の登記が契約日から3か月以上後に実行される、という事はあり得るのだろうか!!!


しかも更に、その前の3月には、祈念碑に使用する墓地周辺の石を運搬し始めたと、
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祈念碑を建立する側の立場にある釜山日報が報道しているのだから、祈念碑建立が開始されたのは平成21年の春先であるとも考えられる。

津賀ダム平和祈念碑の除幕式が8月9日。

工事はその半年程前から始まっていた、という事にもなりそうだ。


この件は、また他にもいろいろと調べる事があり、その後、四国電力に再確認する事にしよう。



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そしてこの件、他にもいろいろと調べているが

もしかして、もしかしてだが、、、、、

ひょとして、ひょっとしてだが、、、

想像の遥か斜め下の予想外、想定外の奇想天外な場所で

壮大で、強烈で、豪快な、壮絶なオチを迎えてしまう可能性が出てきた・・・



「という訳で、また下道へ行ってくる!!!!」

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