高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2017年09月

 福岡市の私立博多高校で男子生徒が授業中に常勤の男性講師(23)を蹴るなど暴行の様子が写った動画がツイッターに投稿されたことが29日、分かった。投稿は削除されたが、インターネット上に動画が拡散。講師にけがはなかったが、精神的ショックで暴行翌日の29日から自宅待機に。警察への被害届提出は見送る方針で「復帰したら時間をかけて生徒を指導したい」と話しているという。

 学校によると、28日の授業中、タブレット端末で動画を見ていた男子生徒を講師が複数回注意したが従わないため、端末を取り上げると生徒が暴力をふるったという。
 動画は約40秒。教室の黒板の前で、白いワイシャツ姿の生徒が後ろから右脚で3回ほど講師の腰の辺りを蹴り、胸ぐらをつかむ様子などが写っている。講師が注意すると生徒は席の方に戻った。他の生徒の笑い声も入っていた。



さあ、日本の本来の美しい姿を取り戻そう!!!!!!

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「いじめ」のない社会、そんなのは無理です、それが「普通」です。
でも「虐め」が原因で本人が自殺したり、殺されたりする社会は「異常」です。
そしてその様な「異常」な状態を脱却し、再びかつてのまともな「普通」の社会を取り戻す事は充分に可能です。


その為に必要な事はただ一つ、児童生徒を含めた日本国民全員に「戦う事」を教える事です。
 時と場合により「戦う」という選択肢があるという事を教える事です。


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ただの「悪ふざけ」ではなく、故意に自分の身体、生命、尊厳を傷つけ、明らかに超えてはいけない一線を越えてくる相手に対しては、あらゆる手段を用いてでも反撃、撃滅し、自分自身の意思、判断、行動で自分の身体、生命、尊厳を守るべきだと教える事です。


自らの意思で、自分の命を絶つ程の勇気、覚悟があるのであれば、その自分の命を奪おうとする相手に対して自分の死を前提としてでも作戦、行動を取る事は簡単な事です。


そしてその事で、自ら自分の命を絶ちたい、とまで思っていた絶望的な状況の横に、そこから自分自身の力で脱出出来る可能性が、0から飛躍的な具体的な数字となった場所が現れます。


多勢に無勢、極悪非道に囲まれた先にあるのは「他殺」か「自殺」かも分からない自分自身の「死」という行き止まりの横に、「虐める奴らに出会う前の楽しかったあの頃」に戻る事の出来る決死の脱出経路が出現します。

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そして、しかしそれでも現在、「虐め」が原因で自殺したり、最後には殺されたりする日本人が存在するのは、社会が、国家が「戦う事」を否定し、それを「悪い事」とし、認めてこなかったからです。


故意に身体を傷つけられ、尊厳を奪われようとも、耐えて耐えて、我慢して我慢して、ひたすら状況が好転、終了するのを祈る事のみを教え、自分の命を奪おうとする意志を持ち、越えてはいけない一線を越えてきた相手に対しては、自分の死を前提としてでもどんな作戦、行動を起こしても構わない、それが正義である!!、いやそれが自然の摂理である!!という最大、最高、最善の選択肢を否定し、それを教えてこなかったからです。

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そしてその「戦う事」を教えるのは、親は当然の事として、地域や社会、そしてなによりも日本という「国家」の役割、責任です。



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では、今現在の日本の姿はどうでしょう?
明らかに敵意を持った外国に、国土を蹂躙され、国民を殺され拉致され、いわれのない誹謗中傷を受けて金品を要求されてもなおその要求を受け入れ、それでも国家の財産、尊厳を守る為に戦い、反撃に出る事を「悪い事」としています。


どんなに耐えて耐えて、我慢して我慢しても絶対に状況が好転したり終了する事は無い事を知っていても、自らの身を守る為に「戦う事」を「悪」とし、否定している訳ですから、そんな国に殺人も含めた悪意を持った「虐め」から善良な国民の命を守る事は出来ません。

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という訳で、今ある変な憲法を却下して、善良で友好的で明るく楽しい日本人の姿は今まで以上のレベルでキープしつつも、越えてはいけない一線を越えて来る相手に対しては、即座にそれを撃退する意思、そして実力を兼ね備えた健全な本来の日本の状態を取り戻しましょう!!!

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高知県の休廃校になった小中学校の訪問を始めてはや二年。

最初に訪問した学校が、室戸の長者野小中学校。
鉄筋コンクリートの校舎しか知らない私のとってそれは、寂しさではなく、懐かしさが込み上げてくるような、そんな感動的な光景だったというのが正直な気持ちだった。

そして「長者野」というからには、そこには広大で豊かな土地で、整備された道路のから見渡す限りの耕作地が広がり、農業で財産を築いた「長者」を輩出した地域で、時代の変遷と共に人々が街に出ていき地元の小学校が廃校にはなったものの、盆正月にはその者達が帰省し、おじいちゃんおばあちゃんの暮らす実家で羽を伸ばす素敵な故郷であると想像していたが、実際はその逆で既に廃家も目立つ道路の整備も昭和の時代で終了した、その地域の時代の最盛期から一気に終焉へと進みつつある集落であった。

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学校が最盛期だった頃の長者野周辺の地図
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でもしかし、当時としては道も改良され、西の川沿いに広がる耕作地の風景が、文字通りこの場所を「長者野」である事を示していたのかもしれない。
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とはいえ、そんな「長者野」で初めて見た小学校の木造校舎跡は、県庁所在地のある行政区画の学校にしか通った事のなかった私にとって、それまでの思い込んでいた私の「日本の教育」に対する概念を足元から覆す程の衝撃的なものであった。

とはいえ、本当のところは、実はそんな事は全く完全な後付けの話で、「え?こんな俺が40年前に廃校になった初めて行く長者野ってとこの小学校跡なんかに辿り着けるんだろうか・・・???」ってのが実際のところだったのである。



平成27年8月29日に訪問した「長者野小中学校」の校舎跡
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それから二年一カ月後
平成29年9月28日 屋根の崩壊が始まっていた

吉良川は晴れなのに、ここは大雨
長者野とはそういう場所でもある。
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もう内部に雨が流れ込む状態だ。
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平成27年8月29日訪問時
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それから二年一カ月後
平成29年9月28日

美しい木造校舎の
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格子窓も少しづつ
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在りし日の長者野小中学校
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雨風から校舎を守っていた銀杏の木もここまで大きくなった!!
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校舎が倒壊するのはもう時間の問題だろう

そして校舎が倒壊した後、懐かしき母校を訪れた卒業生が見て驚くのは、ここまで大きくなった銀杏の木になるのかもしれない!!!

そしてまた、この校舎が今まで自分を雨風から守ってきたこの銀杏の木に迷惑を掛けるような倒れ方をする事はない!!と断言しておこう!!!




釣の口から山越えで日南へ

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学校があり、また山越えの車道さえなかった昭和40年代の地図
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山越えの道は、釣の口から山を越え、橋で東の川を渡り(釣の口には西の川)小学校の前に接続されている。

学校が先にあったにしろ、橋が先にあったにしろ、「小学校」というものはそのような場所に建設されるという事なのである。


そしてその後


かつての徒歩での山越えの道が、重機で新しく造り直され、頂上付近でかつての徒歩道を分断している。


そして現在

昭和の時代に作られた自動車道を通る車ももうごく僅か。

しかしそんな道で、二年前、輝くような美しい女性とすれ違ったのだから、この地域の歴史の奥の深さを感じる!!

平成19年(2007年)閉校の日南小学校

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二年前に来た時はこれはなかった
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ここも学校の掲示板だったのか
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そして学校に児童が通っていた頃の面影を探してみる
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学校跡の南に公民館があり校庭の遊具の置き場になっている

こういう場所が、以前は保育園、託児所だったりもする
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そしてその南に集落唯一の、しかも長者野にはない「自動販売機」があり
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そこは商店跡だった。
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地元の「酒屋」さんだろう。

ここで地元の子供達がジュースやアイスクリームを買い、もしかしてジャンプやコロコロコミック等の漫画も売られていたのかもしれない。

そしてその南にも
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薬局かな??
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今では小学校も閉校になり人影まばらなこの日南も、かつては多くの児童が地元の小学校に元気に通うとても活気のある地域だった。
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そしてそれは、長い歴史の中の遠い過去の話ではなく、つい最近の話で、
その日南の子供達の影が一気に減少し、小学校が閉校になったもの、つい最近の話。



そして昭和40年代、まだ長者野小中学校、日南小学校の校庭が賑やかだった頃、私は室戸市室津の保育園に通っていました。
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懐かしい場所
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が、しかし
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他人事ではなく、初めて受ける「母校の廃校」である
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そういえば当時は皆、親の付き添い無しで自力で登園するのが普通だった。
勿論年長組あたりの話だが

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少し遠回りして、この前を歩いたものだ
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そしてここは当時「スイング」という喫茶店であった。


そして住んでいた教員住宅のあった場所

そこには当時の木造平屋建ての宿舎を立て替えた二階建ての建物が建っていた。
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そして現在はそこに住んでいる人はいない。





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しかし、その裏にある神社は当時のままなのである!!!!!


航空写真で見る長者野周辺と長者野小中学校
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学校
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うーん、長者野は、やはり「長者野」だったのである!!


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まあぶっちゃけのところ、実際は「核兵器」にこだわらくてもいいんですけどね。


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 要は相手が「核兵器」を持っている以上、それに対抗する同等以上の軍事力をこちらが保有していないと話にならないというだけで、「核兵器反対派」が騒ぐのであれば、「核兵器」ではない、それ以外の「相手の核兵器を凌駕する強力な軍事力」を日本が保有すればいいのです。


北朝鮮が日本が持っていない「核」を持っているから調子に乗っているだけで、日本が軍事的に立場を逆転させる体制になればいいだけなのです。

「ガンダム」でも「マジンガーℤ」でも「宇宙戦艦ヤマト」でも、なんでもいいんですが、現在のところ一番現実的で手っ取り早いのが「核兵器」というだけで、日本の科学技術で「核武装」すればそれだけで北朝鮮とは立場が逆転してしまいます。
まあ「核兵器」を沢山持ってる友達と仲良くするのもいいのですが、日本は日本で自分の国は自分の力で領土、領海、領空、生命、財産を守れる国になりましょう!!



そして日本人が一番勘違いしている事!!

それは「戦争」は「してはいけない事」ではなく、「国家」が国家の主権、国民の生命、財産、領土、領海、領空、平和、尊厳、未来を守るための「対話」の延長線上にある「外交」であるという事。

国家に「軍隊」「軍事費」が存在し、戦争に関する「国際条約」が存在し、国家と国家の間に「国境」が存在するのはそのためです。


そして「国家」が「国際条約」に基づき確定させた「国境」を越えて、相手国の領空、領海、領土を侵犯すれば一体どういう事になるのか、そして相手の国家、国民に危害を加えてしまえば一体どういう事になるのか。


隣人が勝手に自分の家の中に入ってきて盗みを働き、家族に危害を加えるという事は、日本国内においては「犯罪者」という特殊な存在を省いては本来あり得ない話であり、対犯罪者対策として強力な武器を家庭内に保有しておくという発想は、日本国内の一般家庭には馴染みの無い話ではあるのですが、相手が「国際条約」に基づき確定させた「国境」の向こうの「外国」であれば話は全く別です。


何故なら、そこに住んでいるのは「日本人」ではなく、我々と言葉、文化、歴史、風習、習慣、常識、の異なる、文字通り「外国人」であり、明治以来、お互いに「共有出来る価値観、概念、常識」を頼りに交流を始めてまだ150年程しか経っていないからです。

「国際条約」に基づき確定された「国境」の外側の人々は、我々日本人と同じ「人類」である事は間違いないのですが、決して我々日本人と同じ、常識、概念、習慣を持っている人々とは限らないのです。

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外務省情報文化局(国立国会図書館・35.5.28)より複写


平成22年3月10日 衆議院外務委員会にて高市早苗議員が「外国人参政権付与問題」に関する「朝鮮人強制連行説」は事実に基づかない間違いであると論破した時に使用した資料。

(三)アジア 豪州関係
1.在日朝鮮人の渡来 および引き揚げに関する経緯 
  とくに戦時中の徴用労務者について
(以下、拡大でフルスクリーン)
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●また日本の外務省(03-3580-3311)東北アジア課の見解、認識も

・基本的には日韓基本条約において全て解決済み
・とした上で、日本と韓国の間にそのような歴史認識の違いがある事は知っている
・しかし、そのような事実は確認出来ない

という事なのである。

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以下 

表紙、まえがき、目次(1ページ~14ページ)

上記を含む(50ページ~65ページ)

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またこれに付随する内容をを見てみると、【李承晩ライン】において

・昭和34年7月22日 日本の漁船が拿捕される(乗組員12名は海上保安庁が接収)

・昭和34年8月21日 日本の漁船2隻と乗組員4名が拿捕、連行される

・昭和34年9月3日  前年に連行された日本人の病人2名の帰還

・昭和34年9月30日 漁船1隻と乗組員35名が拿捕、連行される

と、この短期間にこれだけの事件があり、「強制連行」されたのは朝鮮人ではなく「日本人」である事が良く解る。



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その後も、日本政府は朝鮮人の朝鮮半島への帰還の門戸を常に開いております。

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という事なのである。

大事な事だからも一度言おう!!
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なのである。

故意であるのか、過失であるのかは分からないが・・・・・


四万十町発足と同時に発刊された新しい「大正町史」
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当然、その中には「津賀ダム」に関する記述もある

何故か、既にどこかで見た事があるような内容である・・・・・
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266ページ
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「募集」の名目のもとに「強制連行」されって意味不明なのだが



267ページ
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昭和14年に日本国にいた朝鮮人は約100万人
それが終戦頃には200万人になっていましたが、増加100万人中70万人は自ら職を求めて内地に来た個別渡航と出生による自然増加。
残りの30万人は鉱工業、土木事業等による募集に応じて自由契約に基づき渡来してきた人で、昭和19年9月から実施されて朝鮮半島の徴用で日本本土に来た人はごく僅かでした。
(外務省発表)

そしてその朝鮮人の人数が分かるのならダム工事全体で働いていた人数、総数が分かるはずなんだが。
日本人はどれだけ働いていたのかな??

あの規模の工事を4年少々で完了するには相当数の人役が必要なのだが!!


って、え???
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え??
「県朝鮮人強制連行真相調査団」???


んな組織、高知県にあったっけ???????

という訳で県に問い合わせ、最終的には戦後の処理を担当する地域福祉政策課にいろいろと調べて貰ったが、無いし、その様な調査団は高知県の行政の中には確認出来ないとの事。



で、大正町史編集会議委員長はこの方!!
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つまり平成17年(2005年)4月12日の「人口照査表」が発見され「強制連行」に関する資料と騒いでいた記事の、
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この方ではないか!!!!!!
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そしてここに
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ご丁寧に
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在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)県本部が「県朝鮮人強制連行真相調査団」
と書いているではないか!!!!

ついでに「平和団体」とは、当然あの方々も一緒という事か!!



国交があるけど日本の領土である「竹島」を不法占拠し、ある事ない事24時間365日難癖付けて来る、日本にとって非常に重要な隣国である
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韓国を差し置いて



国交が無いどころか、日本人を拉致し
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日本の同盟国であるアメリカの現職大統領に世界の舞台でこの言葉を言わし、
日本に向けてミサイルを撃ってきている「北朝鮮」かよ!!


繰り返そう!!!!
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という事だ。

全く「大正地域振興局」「四万十町役場」は一体何をやっているのだ。

そして四万十町民が情けなくて、仕方ない・・・・・

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せっかくなので267ページの内容について指摘しておこう!!!

『石を担いで運んだり、トンネルの発破作業を行うなど「きつい」「汚い」「危険」な仕事を主としてた』

とあるが、私は土木工事の専門家ではないが、それでもこれは工事の事をよく知らない素人が書いた文章だという事がすぐわかる。


まず、現在でも世界各地でトンネル工事、隧道工事は行われている。

そしてその現場の最先端部分で働いている労働者は、過酷な労働を強いられている可哀想な労働者ではなく、世界屈指の最新技術を活用する超好待遇の選び抜かれたスペシャリスト達であるという事だ。


大体、あの時代の隧道工事は、まあ少しは「石を担ぐ事」ぐらいはあったかもしれないが、基本は「ベルトコンベヤー」ですから・・・


そしてその事は、地元の方の当時の話では普通の話だし、それを大前提に当時の隧道工事の話もしている訳だから、それを知らないという事は、つまりそういう事なんだろう・・


ましてや「発破作業」を「募集」で「朝鮮半島」から働きにきた「朝鮮人」に任せてしまうと大変な事になってしまう。
何故なら、技術が無いから「隧道」が直線にならないからだ!!

しかも5.6キロの隧道に対して高低差は96m。
100mの距離に対して1.7mの勾配である。
100m走のゴール地点にいる170㎝の人間の頭の位置との差。
真ん中に行けば少し深くなっているプールの底程の勾配だ。

それをまだ大正村の民家にさえ電気が来ていなかった時代に、隧道の最先端の暗闇を最新技術で明るく照らし、硬い岩盤の中を5.6キロ先の目標地点に向かって正確に進んでいった訳だ。


せめてそこだけは「熟練の技術者」が担当していたぐらいは言って貰わないと、もう全く信憑性が無いのである。




しかも日韓併合前の朝鮮半島は
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水車を作る事も出来ず、二階建ての建物が無かったというより、

二階建ての建物を知らなかったのである

しかも上の写真は、それでも日本に影響力下にある状況で

日本の影響力が半島に及ぶ前の1876年(日朝修好条規)前後は
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こんな状態でしたから。


それでも高麗時代までは車輪があった。

何故ならそれ以前の朝鮮半島の一部は日本であったり、世界最大帝国の「元」の一部であった(いや属国か)時代もあった訳だし。


それが「李氏朝鮮」になってから「仏教」から「儒教」に代わってしまい、頭を使って考える人が偉く、体を使って働く人は卑しい身分となってしまい、技術者の地位が著しく低下してしまったのだ。


そしてその民族性ゆえに、車輪があるとその跡を辿って敵が攻めて来るという日本人には到底理解不能な理由で車輪を使うのを止めてしまったのである。

同様に橋があると、それを渡って敵が攻めてくるから、橋を壊し、橋を造らないし、車輪も造らないし、作るにも職人の地位は最低だから作る意欲も湧かない。

そして閉鎖的で限定的な環境の中で、強者が弱者を虐げながら、しかしてその強者も更なる強者の出現に怯えながら500年の時間を過ごしてきたのであるから、現在の日本人と韓国人が全く理解し合えないのは当然の話である。

また、併合前の朝鮮の耕作地は荒れ放題、というより「耕作地」という概念さえ無かったのである。

堤防を作り治水工事をすると効率が上がり収穫量が増える事を教えると、「そんな事をすると奪っていく奴らの奪っていく量が増えるだけだ」という答えが返ってきたのだから、日本人にとって、いや当時の諸外国にとっても「朝鮮半島」は恐ろしい程非常に斜め下の「異次元」であったのだ。

そういうご事情の場所から、当時から世界の一等国だった日本に働きに来ていきなり最前線で仕事を任せられるはずもなく。

土木工事そのものが存在せず、土木工事の経験どころか、技術、知識さえ存在していなかった、いやいや土木工事という言葉、概念さえ存在していなかった朝鮮半島の朝鮮人がそのような場所で働けるはずもないのだ。

何故なら「土木工事」という言葉、概念から教えないといけなかったからだ!!!


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とういうか、そんな事より、自分の生れ育った「郷土」の歴史を綴った「大正町史」に「朝鮮総連」の資料を使うなんぞ、「四万十町民」は一体何をやってるんだ。


って、「四万十町民」現在1万9千人程いて、誰一人としてこの事に気付いてないのか、、、もしかして・・・??




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平成18年3月20日 高岡郡窪川町、幡多郡大正町、幡多郡十和村が合併

四万十町となる。

そして「大正町」の歴史をまとめた「大正町史」も同年3月に刊行。
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発刊のことば・当時の町長さん
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監修にあたって
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大正町史編集会議委員長
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編集会議委員会、事務局の方々
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四万十町発足の同年3月に発行
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この中に大正村から大正町時代の歴史年表がある

318-319
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319ページが津賀ダム着工の昭和15年前後
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●昭和12年

前年に大正村村内に電灯がともり、この年に下道周辺にも電気が来る事になる。

安芸の伊尾木川沿い中流から上流にかけて、電気が来たのは昭和30年代後半以降。
道路が開通したのは「伊尾木林用軌道」が廃線となり、その軌道跡を道路に転用した昭和40年前後の事だから、この地域が比較的恵まれた環境にあった事が分かる。

1年、2年早かったのではなく、10年、20年以上早かったのである。


●昭和13年

国家総動員法発布
 
支那事変(日華事変)の翌年で、南京攻略の翌年でもある訳だが、同年3月に南京に日本の支援の元に「梁鴻志」を元首とする『中華民国維新政府』が樹立されている。

南京事件というのは大嘘で、そこから戦線が拡大したというのも大嘘なのである。

●昭和14年

国民徴用令施行

正確には7月からで、朝鮮半島に「徴用」が実施される5年以上前の話である。
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●昭和15年

この年になって村内発の沈下橋が轟崎に完成

そんな時代に八幡浜からトラックで津賀ダムの工事現場まで強制連行されてきたとはねぇ・・

そして津賀ダムの工事起工


ページをめくると

320-321
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321ページが昭和25年前後となるが
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●昭和19年4月 津賀ダム発電開始

同年  9月 朝鮮半島で「徴用実施」


つまり、朝鮮人の「徴用」は津賀ダムの工事には間に合わなかったのである・・・

そして津賀ダムで「徴用」で働いていたのは「日本本土の日本人」と「台湾の日本人である台湾人」で、「朝鮮半島の日本人である朝鮮人」は該当しない訳である。

そして、当事者である日本人、台湾人が全く文句の一つも言わないのに、全く関係の無かった朝鮮人が騒いでいるという話なのだ。



●昭和25年

この年になってやっと下道にバスが来る事になる。

前年に車両が左側通行として対面交通となったそんな時代に、終戦前のダムの工事現場まで八幡浜からトラックで強制連行されてきたという「証言」が本当であるのか、嘘であるのか、私が何も言わなくとも大正地域振興局自身がよーーーく理解しているはずだ。






そもそも「強制連行」自体が【大嘘】で、その事は

「外務省発表資料」
『昭和35年2月発行・外務省発表集10号』でも明確に証明されている。
(拡大して見てください)
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また最近では平成22年3月10日衆議院外務会議において高市早苗議員がこの資料を用いて、外国人参政権付与の根拠とする民主党の主張を却下している。



で、先日、高知県教育委員会からの回答が来た訳だが、「だから朝鮮人の強制連行はあったのですか???」「外務省の発表でも無かったて言ってますよ」


と再三再四お伺いを立ててみると!!!!!


「その事は知りませんでした。 貴方はよくお勉強されていますね。」
「その様なご意見があった事は委員会として受け止めさせて頂きます」


と、高知県教育委員会様が申されたので



「いやいやいやいやいや、あんたそれ『俺の意見』じゃなくて『外務省の発表』だから、あんたら高知県教育委員会様は一体いつから外務省より偉くなったんだよ???

え??文部科学省の学習指導要領を仰ぐ高知県教育委員会様の管轄下に「外務省」がある訳??だったら「外務省」の発表は「その様なご意見」の一つになるけど。

大体、あんたら公務員だろう。あんたらが既に知っていて、市民である俺に教えてくれるのが普通なのに、あんたらが何も知らなくて、俺が教えてあげて、なおかつそのあんたらが知っていて当然の「外務省発表」を「その様なご意見・・・」て、あんたら、一体・・・・



と、何処まで言ったかはもう覚えてないが、


前々回⑮「教育委員会からの回答」の高知県教育委員会との50分程の会話の後半は、殆ど私の高知県教育委員会に対する「説教」だったのである。


興味がある人は是非、高知県教育委員会に問い合わせてみてください!!!!





で、まだまだ出てくる、あんな事、そんな事、こんな事・・・・・・・







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平成19年(2007年)1月8日の高知新聞の朝刊に祈念碑建設以前の朝鮮人の墓地の記事が掲載されている。
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私の投稿を見て頂いている方には、私がこの程度の事を調べる事は普通の当たり前の事で、別に特別な事でもなく、別にこの「津賀ダム」の事に関して打ち込んでしまっているという訳でもない事は普通に理解して頂けると思う。

で、現在このシリーズが⑯となっていて、実はまだまだ終わりそうにないのは、調べれば調べる程、次から次へと辻褄の合わない話が、右から左から、上から下から、前から後ろから、時には次元を超えて出現してくるので、止めたくても止めれない状況に陥ってしまっているからである・・・・・・・


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で、私はこの清水さんとも直接会って話を伺っている。

そして確かに、朝鮮人の無縁墓地が3つあった話は聞いたが、その大前提として、工事で犠牲になった労働者の共同墓地がこの昭和地区周辺にも多数あり、その中の一つの大きな共同墓地の話であるという事がある。

そしてその3つの朝鮮人の無名墓地は、20~30程の日本人の墓地の中にあったという事。


ダム工事、隧道工事で遺体の収容出来なかった労働者のお墓を、日本人も朝鮮人も区別なく、同じ共同墓地に造っていたという事。

また収容出来た遺体も、当時は火葬がなく土葬だったから遺骨のあったお墓もあったらしい。

確かに、日本人のお墓は立派なものが多く、朝鮮人のお墓は石を三段積んだだけという違いのあった話は聞いたが、終戦後、日本人の労働者遺族がこの場所にお墓詣りに来ることは出来ても、日本国籍を離れる事になった朝鮮人がこの共同墓地にお墓詣りに来ることが出来なかった事を考えると、日本人と朝鮮人のお墓に「違い」があった事は当然の話で、その「違い」も当初からあったものではなく、その後発生したものと考えるほうが自然な話だろう。

また、日本人労働者のお墓の石は、その後遺族の方が本家のお墓に持ち帰ったものも多かったが、朝鮮人のお墓はそのままだったという話もあるが、終戦により「日韓併合」が解消され、その後の昭和48年に「大韓民国」が建国され、再び朝鮮人が正式に日本本土に足を踏み入れる事が出来るようになったのは、昭和40年(1965年)の日韓基本条約以降の話である事からしても、当然の当たり前の話なのである。


この内容は2月28日の民団新聞にも掲載されている
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また2009年2月25日の釜山日報にも関連した内容がある。
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「強制徴用」っていうけど

朝鮮半島での「徴用実施」は昭和19年9月からですから・・

そして津賀ダムは昭和19年4月に発電を開始していますが・・・・・

そしてその5年以上前から「日本本土の日本人」は「徴用」で働いています。
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で、この記事は平成17年(2005年)4月12日の当時の大正村の「人口照査表」の発見を発端とした(本当はもっと前からだけど)調査によるものだとの事だが、
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右半分
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左半分
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その翌年の平成18年(2006年)
大正町は合併により四万十町になり、同年「大正町史」が発刊されている
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四万十町合併に合わせて発刊されたものだろうか!!
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そして「大正町史編集会議委員長」
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え????もしかして?????

この方になるのかな!!
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そしてこの記事の
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ここ
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この「朝鮮人強制連行真相調査団」
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これがまた、とんでもない話なのである。

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国際関係とは、慈善事業でなければ、ボランティアでもなければ、お互いの国家の親切心に基づいたお付き合いでもありません。

お互いの国家が、自国の国益を最優先に考えた、そして国家の存亡さえ掛けた真剣勝負の場所です。

それはそれは、その時の国際情勢、お互いの国の国力、立場によって上下関係であったり、均衡した関係であったり、それが逆転する場合さえあります。
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そして現在、現役のアメリカの大統領が、日本の「拉致問題」に関して国際舞台で言及する。

その言葉に至るまでの経緯、そして発言、その後の展開、それらを含めたものが現在の「日米関係」です!!


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因みに

憲法9条は、

日本人を拉致している「北朝鮮」
尖閣諸島を侵略する「中華人民共和国」
竹島を不法占拠している「韓国」

にとって非常に好都合な日本の「憲法」なのです。


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本日、早速、四万十町教育員会、高知県教育員会からの回答がきた。

そして内容は想定範囲内の最低限の内容であった。

「要約」すると、どちらの委員会も「うちは関係ありません」
ただ文部科学省の「学習指導要領」に基づき仕事をしていますとの事だった。

通学する児童、生徒、そしてその保護者の事に関しても無関心、その事には触れたくない様子。

電話で四万十町教育員会とは15分程、高知県教育委員会とは50分程の会話。

北朝鮮がミサイルを撃ってきた事にも無関心で「学習指導要領」に「行動」「言葉」を制限された「愛国心のかけらも持たない普通の大人の集団」という事がよく分かった。


ま、そういう環境の中においても、まだまだ多くの「教育者としての使命」に燃えている教員が多数いる事も私は知ってはいるのだが。


問題はその教育界がこのような「状況」に陥ってしまっているという事。


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現在、四万十町大正地域振興局には以下の内容の質問をさせて頂いている。

7月12日送信
(以下 拡大できます)
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8月3日、大正地域振興局より

回答は登記の日付とダムの歴史についてのみ

祈念碑の事は完全に「幡多ゼミ」に依頼し、四万十町としての立場はノーコメントという回答
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8月6日

それについての私の送信内容
(上と下の二部)
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9月8日 大正地域振興局より

「幡多ゼミ」からの回答が来たので添付して送っていただくが、その他の件には全く触れず
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9月12日 大正地域振興局へ送信
(上と下の二部)

その「幡多ゼミ」からの回答に対しての私の、意見、指摘、質問は、12「回答書が来た、13「回答書への意見、指摘、質問」、14、にある通り。


そしてもう一部、大正地域の方、そこの地元の方への質問として、

当時、工事現場までの道があったのか?
トラックで行ける事が出来たのか??

地域の方は全員、日本人と朝鮮人の共同墓地の話をしているのに、「幡多ゼミ」の日本人の犠牲者はいなかったという調査内容!!

等は本当に大正村の歴史として正しいものなのか??
という内容の質問をさせて頂いた。
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「津賀ダム平和祈念碑」は四万十町所有の「雑種地」にある「四万十町民共有の財産」なのである。

「祈念碑」の内容については完全に「幡多ゼミ」に丸投げ。

そしてその他の四万十町大正地域振興局としての「義務」に関しては完全にノーコメント。



大正地域振興局は、このような町を、そして歴史を、未来の子供達に残していきたいのか?????????

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