広くなり快適に走れるようになった国道439号線を通り郷小中学校跡に到着
当時は学校には300人を超す児童生徒で活気に溢れていて、
が、しかしそれは朝7時のバスに乗り、須崎に到着するのが昼過ぎだった頃の話である。
学校前の昔ながらの街並み!!
校門
校舎はもう解体されている
学校の石碑
学校の歴史
小学校は龍泉寺を利用し開校
標高
卒業生の皆様
ここまで大きくなりました。
全景
校舎の跡には
土日開店の地元のおしゃれな料理店!!
現在は18名の児童がここから中央小学校に通学しているそうだ。
そう、もう少し児童数が回復すれば、この農家食堂を小学校に利用すればいいのだ!!
体育館もリフォーム済!!
439号線を挟んでプールがある。
閉校にはなったものの、ちょっとした事がきっかけで、また小学校が新規開設されてもおかしくはない環境で、いろいろと条件も整っているように感じる。
例えば、日本は食料自給率の回復に力を入れる事になれば、真っ先に小学校新規開校になりそうな、そんな場所。
学校の裏には神社があり
昔の石碑が並んでいる
明治維新以降の日本の国難に立ち向かった男達の名前が刻まれた石碑
それは「犠牲者」でも「被害者」でもなく、国難に立ち向かった「男」の名前なのである!!
支那事変
時系列的に「日中戦争」という言葉が使用されてはいるが、史実として「日中戦争」とうい出来事は存在しない。
そしてなにより、その「日中戦争」とやらに出征した日本人など、日本全国何処を探しても一人もいないのだ。
また宣戦布告に始まり、講和を持って終結する、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争と、ただの発砲事件が発端になって始まったとされている支那事変呼ばれている出来事とを同系列に扱う事自体が愚かな事なのである。
日本軍が当時の支那に駐留していたのは1900年の義和団の乱の結果として結ばれた当時の清朝との国際条約に基づくもので、それはイギリス、フランスを始めとする欧米列強も同じで、その目的は支那に居留する自国民の保護のためである。
当時の支那に国際条約に基づき、合法的に居留する外国人が支那の内乱に巻き込まれ被害に遭う。
つまり当時の清朝はもう条約に基づき清国に居留する外国人の安全を守るという国家としての最低限のお付き合いの資質も無い、と見なされた訳だ。
「だったらお前んとこに、俺達の軍隊を置くからな!!文句あるか!!」
という事になるのである。
在りし日の郷小中学校
航空写真で見る、在りし日の郷小中学校
校庭の木が見える
昭和14年度の東津野村の児童生徒数
昭和37年度の東津野村の児童生徒数
郷小学校 児童数 247名
郷中学校 生徒数 114名
そして現在の過疎化、学校の廃校、閉校、休校も時代の流れの一部に過ぎない。
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