高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2017年08月

広くなり快適に走れるようになった国道439号線を通り郷小中学校跡に到着

当時は学校には300人を超す児童生徒で活気に溢れていて、

が、しかしそれは朝7時のバスに乗り、須崎に到着するのが昼過ぎだった頃の話である。

学校前の昔ながらの街並み!!
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校門
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校舎はもう解体されている
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学校の石碑
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学校の歴史
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小学校は龍泉寺を利用し開校


標高
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卒業生の皆様

ここまで大きくなりました。
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全景
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校舎の跡には
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土日開店の地元のおしゃれな料理店!!
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現在は18名の児童がここから中央小学校に通学しているそうだ。
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そう、もう少し児童数が回復すれば、この農家食堂を小学校に利用すればいいのだ!!

体育館もリフォーム済!!
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439号線を挟んでプールがある。
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閉校にはなったものの、ちょっとした事がきっかけで、また小学校が新規開設されてもおかしくはない環境で、いろいろと条件も整っているように感じる。

例えば、日本は食料自給率の回復に力を入れる事になれば、真っ先に小学校新規開校になりそうな、そんな場所。


学校の裏には神社があり
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昔の石碑が並んでいる
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明治維新以降の日本の国難に立ち向かった男達の名前が刻まれた石碑
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それは「犠牲者」でも「被害者」でもなく、国難に立ち向かった「男」の名前なのである!!
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支那事変
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時系列的に「日中戦争」という言葉が使用されてはいるが、史実として「日中戦争」とうい出来事は存在しない。


そしてなにより、その「日中戦争」とやらに出征した日本人など、日本全国何処を探しても一人もいないのだ。

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また宣戦布告に始まり、講和を持って終結する、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争と、ただの発砲事件が発端になって始まったとされている支那事変呼ばれている出来事とを同系列に扱う事自体が愚かな事なのである。

日本軍が当時の支那に駐留していたのは1900年の義和団の乱の結果として結ばれた当時の清朝との国際条約に基づくもので、それはイギリス、フランスを始めとする欧米列強も同じで、その目的は支那に居留する自国民の保護のためである。


当時の支那に国際条約に基づき、合法的に居留する外国人が支那の内乱に巻き込まれ被害に遭う。
つまり当時の清朝はもう条約に基づき清国に居留する外国人の安全を守るという国家としての最低限のお付き合いの資質も無い、と見なされた訳だ。


「だったらお前んとこに、俺達の軍隊を置くからな!!文句あるか!!」

という事になるのである。




在りし日の郷小中学校
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航空写真で見る、在りし日の郷小中学校
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校庭の木が見える
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昭和14年度の東津野村の児童生徒数
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昭和37年度の東津野村の児童生徒数
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郷小学校 児童数 247名
郷中学校 生徒数 114名


そして現在の過疎化、学校の廃校、閉校、休校も時代の流れの一部に過ぎない。

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国道沿いから見える伊与喜小学校
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伊与喜中学校は
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この小学校の体育館の場所に校舎があったそうだ
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学校の歴史

昭和29年 伊与喜中学校、拳ノ川中学校、佐賀中学校から分離独立
昭和42年 両校佐賀中に統合 10月に統合中学校校舎落成

またちょと昔(昭和28年)の地理院地図には
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学校の場所が少し北にある

もしかして、そこから移転するタイミングで中学校も開設されたのかも

またの機会に調べてみたい


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もしかして伊与喜小学校の児童達は全員「一輪車の使い手」かもしれない!!

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荷稲から山越えで鈴に到着
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鈴小学校

到着寸前まで学校で遊ぶ子供達の姿があった
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玄関前の石碑
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やさしく たくましく
(真ん中は、強く、それとも、清く??)

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おもいやり
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学校の授業以前の、日本人の心の事である


人影はまばらだが、やたらと車の台数が多い
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学校前の公衆電話と自販機
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酒屋さんは営業中
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ここでも学校前の通りがメインストリート
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昭和40年代の地理院地地図「伊与喜」

荷稲と道路で繋がったのは「最近」の話
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昭和28年度の地理院地地図

当然、この頃は山道のみ

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かと思えば、鈴から西の峠に向けて1~2mの幅の道路がある。

もしかして、この道は昔からあった広い道だったのかもしれない


また、だからと言って、この「鈴」が陸の孤島であったかというと、それは自動車で移動するという習慣ち車で行けない場所は「不便な場所」という自己中心的な価値観を持つ現在の日本人が勝手に個人的な狭い視野で判断する思い込み以外の何物でもなく、そもそも日本は周りを海に囲まれた海洋国家であり、当時は海上交通が盛んだった訳で、それは日本全国津々浦々という言葉からも判るように、現在の日本人が高速道路を飛ばして隣町に移動するのと同じように、当時は海上を全開でノリノリでカッ飛んでいたのだ!!



昭和37年の鈴小学校
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この頃は鈴には500人程の住人がいて、学校は30~40人の児童で賑わっていた。


学校の歴史

明治12年 拳ノ川小学校の分教場として巡回授業が行われていた
     (明治6年・佐賀小、伊与喜小 明治8年拳ノ川小開設)

大正13年 鈴小学校が設置される

昭和45年 新校舎完成

平成17年 休校


黒潮町の小学校の児童数の推移
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明治時代、日本の人口た4~5千万程だった頃、小学校の数は3万校を突破していた時期もあった。

現代の日本の人口はその倍以上の1億2千7百万人
小学校の数は2万校程である

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学校の記号は、上川口小学校・白田川中学校・伊田小学校
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この海岸線沿いの土地が白田川中学校のあった場所

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学校の歴史
昭和22年 5月1日学改により上川口国民高等学校を廃して、白田川村立白田川中学校を新設(上川口小学校敷地内に仮校舎)同日、白田川村立青年学校併設

昭和23年 9月1日 新校舎に移転

昭和30年 9月6日 大方町と合併 大方町立白田川中学校

昭和36年 増築

昭和46年 大方中学校と合併 



現在この土地は売りに出てるようだ
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既に学校跡地を思わせるものはないが・・・
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一つの鉄棒だけが、まだここに昔、学校があった事を物語っていた!!
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在りし日の白田川中学校
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航空写真で見る、在りし日の白田川中学校
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生徒達が駆け回ったグランドの跡も残っている!!

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平成26年から休校

黒潮町の小学校児童数の推移(平成7年~)

伊田小学校休校前の平成25年度の児童数は8人(平成7年度は68人)
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校門

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校舎
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校庭
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体育館

奥にある時計はまだ正確に時を刻んでいる
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100年に一度の大災害に備えよう

そしてその大災害を皆で協力し乗り越えてきたからこそ現在の日本人がいる!!
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閉校の碑
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隣には学校の歴史
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開校明治6年

当時がいかに活気があり、財力があり、人材にも恵まれ、教育に関する意識が高かった事か!!
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でもここでの開設は「小学校」ではなく「小学」という意味
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「大方町史」には

明治19年頃 伊田、有井川、上川口の小学校が合併して有井川に学校を設置した事がある

明治22年 8月創立・伊田尋常小学校

明治27年 有井川尋常小学校分離

大正 8年 4月移転改築・伊田尋常小学校(伊田、有井川の両尋常小学校合併)

となっている。


そして有井川尋常小学校は
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白田川中学校跡の場所が分からず、地元の方に教えて貰っている途中に見つける事が出来た
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商店の横が、明治27年から大正8年まで存在していた有井川尋常小学校跡
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こんな場所にも小学校が!!と驚き気味の私に
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地元の方は、「いやいや、小学校があったというより、そこに集会場があり、そこで授業をしていたから、そこを小学校と呼んでいただけ!!」

と冷静に教えてくれた。



その後の集会場の移転先
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もしかして、ここにも小学校があった時期が存在するかもしれない
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現在の日本に存在する小学校の形態は、現代になって築かれたもので、明治5年の学制発布以来、様々な経緯を経て現代に至っているのである。

そして、それ以前から、その後の教育を築き上げるしっかっりとした教育の基盤、土壌が成熟していたという大前提が存在していたという訳である。

突然、学校を作りましょうと「学制」を発布したから、現在の小学校の歴史が存在しているというそんな簡単なものではないのである。

だから先人達の知恵、勇気、努力に感謝しましょう!!!


そして、だからこそその日本の教育機関の内部に侵入し、日本人に成りすまして「大嘘」を教える奴らが許せないのである。


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現在 休校中の伊田小学校

まだその明治6年からの歴史は続いているのである!!!

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地理院地図「土佐佐賀」昭和44年
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学校が見えてきた

とても廃校になった小学校があるとは思えない雰囲気
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校門
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とても20年前に廃校になった小学校には見えない
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校舎
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校庭
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遊具は一カ所にまとめられている
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今までで見た中で一番大きな100周年記念碑
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学校の改革史
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写りが良くない・・・・
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「大方町史」によると

明治 8年 開校 
明治20年頃まで入野小学校の分教場
明治23年 蜷川簡易小学校
明治26年 上川口尋常小学校蜷川分教場
明治31年 6月、蜷川尋常小学校

平成11年 上川口小学校に統合


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学校前の通りは、そのままその地区のメインストリートなのである!!

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地理院地図「土佐佐賀」昭和44年
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一旦集落が切れ、再び集落が現れ湊川小学校に到着
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卒業生も同じように随分と大きくなった事だろう。
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校門
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ここにも国旗掲揚台
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小学校教育は国家基盤
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そこから国旗を排除しようとする意識は、決して日本人の意識ではなく、特定の外国人の意識なのである
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国旗掲揚、国歌斉唱は教育の基本中の基本
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美しい日本の本来の姿を取り戻そう
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卒業生の作品かな
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現在はふれあいセンター
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学校の石碑
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学校の歴史
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「大方町史」によると
最初は入野小学校の分教場で、その後、奥湊川簡易小学校、奥湊川尋常小学校となったようである。


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明治8年 開校 入野小学校の分教場として(泉福寺)
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「大方村史」より


明治20年 加持尋常小学校

(同20年、北郷小学校の前身は「加持川尋常小学校」と改称)

明治24年 小北山に移転

昭和59年 入野小学校へ統合



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校門
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ピンぼけになってしまった
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敷地内には蕨岡小学校伊才原分校にあったものと同じ国旗掲揚台がある
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正面
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裏面
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上部
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正面には
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「皇太子殿下御降誕記念」と記されている
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これだけで、昭和の時代の「教育」と平成の時代の「教育」が、すっかりと姿を変えてしまっているという事が分かる。

また昭和59年に廃校になったこの小学校の国旗掲揚台が30年以上経った今もそのまま保存されている事にも意味があるのだ。



校舎

と言うより、体育館かな

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鉄棒
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面影の残る校門付近
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全景
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周辺の学校
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私の小学校時代(高知市内・昭和50年代)だけど、当時はこの大方町のほうが、ずっとずっと児童も多く活気に溢れていたんじゃないかと思う。

そういや、甲子園に出場した「大方高校」を応援していた記憶がある。


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地理院地図「蕨岡」昭和46年
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馬荷小学校から山越えで到着
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こちらにも自販機が設置されていて、更には温泉まであるようだ
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現在は集落活動センター
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校舎の建築は昭和41年
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学校の歴史
明治 8年 開校
明治20年 加持川尋常小学校
明治24年 加持川850に改築移転

昭和26年 昭和33年 校地拡張 増築

平成 2年 休校
平成13年 廃校


校舎
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校庭は現在ヘリポート

学校の石碑
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開校100周年は休校になった翌翌年の事。

それでも100年以上の歴史を誇る地域の活力の中心となってきた学校だ!!

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蕨岡から県道337号の山越えで馬荷小学校に到着
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学校前には自販機があり、なにやら子供達の元気な声と先生の声が聞こえる

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え??もしかして休校と勘違いして現役の学校に来てしまったのか??

でも、小学校の玄関に自販機があるのもおかしいが・・
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校庭
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と、とりあえず写真だけ撮って帰ってきたが
改めて確認してみると、やはり平成18年(2006年)に休校となっている。

でも、出来れば先程のように、元気な子供達の声が響き渡る場所に戻ってもらいたいものだ。


学校の歴史「大方村史」より
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明治20年 馬荷尋常小学校となる

昭和10年 移転改築



学校を後にし北郷小学校に向かう
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そして中馬荷集落センターのの横に
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以前の学校跡を示す石碑があった
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我ながらほんの一瞬の風景を見逃さなかった自分に納得している!!
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そういえば、地理院地図「蕨岡」昭和46年も
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学校の場所はここになっている
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となると、気になってくるのが、昭和10年に以前の場所に移転してくる前の学校跡が何処にあったのか、という点。

大正時代の学校跡の石碑も見てきたし、明治時代の学校跡も発見出来たから、地元の方に聞けば案外簡単に分かる気がする!!

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