高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2017年08月

四万十町の機関紙「四万十町通信」

ここからも四万十町の実態を垣間見る事が出来る


2006年4月
 
この時はまだ「広報しまんと町」だ。
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そして創刊号からアンニョンハセヨ!!!


第二号も
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カムサハムニダ!!


・・・・一体どこの国の地方自治体の広報なんだよ。。。


そして引き継ぎ

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四万十町役場企画課に赴任とある

前任者の2か月からの交代だから、四万十町に合併以前からこの制度があった事になる。

お仕事は、専ら韓国語の紹介、韓国の紹介。


そして四万十町教育委員会に問い合わせてみると、韓国語教室は18歳以上、四万十町に在住で、通勤、通学が可能な方のみが対象、18歳以下は保護者の承認が必要との事だった。


     


      が、、、、、、、、、、




2007年1月号
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チマチョゴリを着て大奈路小学校に登場!!!


保護者の承認どころか、勝手に学校に行って児童生徒に一方的に韓国を紹介!!!


しかも、この後、児童生徒では飽き足らず、「保育園」にまで行って韓国の紹介をする熱心な活動さえ登場するのだ・・・


次は家地川小学校に
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四万十町役場企画課には韓国人のポストがある
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十川小学校へ・・・
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そしてチマチョゴリを着て再び大奈路小学校へ
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そしてその後大奈路小学校は「廃校」となる・・・

いわゆる「kの法則」発動という事だ。


そして保育園、小学校で積極的な活動
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韓流ブームという韓国人の捏造を信じて、しかも町の機関紙にまで掲載してしまう愚かな四万十町・・・



そしてこの様な交流には「国際交流促進協議会」の存在がある。
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確かに英語圏との交流も並行して存在はするが、児童生徒、いやいや保育園に行ってまで「ウリナラマンセー!!」しているのは韓国人の研修生のみである。

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日韓併合後、日本は朝鮮半島にハングルを普及させた。

しかも、朝鮮半島の有史以降、存在していなかった、いや「概念」さえ存在していなかった「教育制度」から立ち上げてあげて、存在する事すらあり得なかった「校舎」というものを建ててあげて「学校」というものを与えてあげた。

そしてハングルに「漢字」を併用させて使用し、より理解の深い語源として朝鮮人の語源として運用させようとしてあげた。



それが現在のハングルには「漢字」が無い・・・


その理由は「漢字」が読めてしまうと、韓国の過去の歴史を知る事が出来、国が国民に「嘘」「捏造」の歴史を教えている事がバレてしまうからである。

そして現在、嘘を嘘で塗り固め、一歩も後戻り出来ない状態にまでなっている。


そんな劣化に劣化を重ねた「ハングル」を紹介されても「迷惑」以外の何物でもない。


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だからk-popブームなんてねぇから・・・・



それでもここまで強引に韓国の紹介をする「四万十町通信」
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アンニョンハセヨ

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アンニョンハセヨ

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またアンニョンハセヨ
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それでもアンニョンハセヨ
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まあここまで毎回、毎回、同じ事を紹介してる訳でが、はっきり言って全く相手にされていない!!という証明だろ!!
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それでもアンニョンハセヨ

カムサハムニダ・・・・
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引き継ぎ
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間髪入れず「韓国語」の紹介
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週に2、3回も保育園に「韓国」の紹介に行ってんのか・・・
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で、あれ?????

もしかしてこの人、去年の夏に駐広島大韓民国領事館が祈念碑に慰霊に来た時の写真の左の端の人じゃないのか!!!!
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四万十町役場企画課は、「津賀ダム平和祈念碑」は「企画課」には関係ない!!と断言し、大正地域振興局に話を振るが、それは「大嘘」であった事が判明!!


因みに、津賀ダム平和祈念碑の除幕式があった2009年8月9日の事は、高知新聞では
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この様に報道されているが

四万十町通信では
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地元紙に掲載される程の出来事なのに

「全力でスルー」

「華麗にスルー」

「豪快にスルー」


されている事は言うまでもない・・・・・


そしてそこから、この問題が四万十町にとって一体どのような性質のものであるかが解ってしまうというものだ!!!


ーーーーーーーーーーーーー

その後の四万十町地域振興局からの回答は無し。

現在回答のあった具体的な内容は、あの雑種地が四万十町に登記された日付の事のみ。

碑が建立されているのに、具体的な事は何も解らない・・・

これがこの「津賀ダム平和祈念碑」の実態なのだ。

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あと、四国電力の本社にも問い合わせをしておいた。

事の経緯を説明し、

「そういう訳で、祈念碑建立にも協力され、除幕式等にも参加されたのですから、やっぱりあったんですよね、朝鮮人の強制連行!!!!」

「日本政府も否定している朝鮮人の強制連行ですが、四国の代表的な大企業の四国電力さんが、そこまで言われるなら是非教えて欲しい、一体どんな事があったのですか??」

「あったから祈念碑建立に協力され、除幕式にも参加されたんですよね」と!!





そろそろ一週間が経つぜ!!!!


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戦争は「宣戦布告」で始まり「講和」を持って終結するものです。


だから軍隊は、自国が有利な条件で「講和」を持ち込めるように、国運を賭けて戦局を有利な展開に運ぼうとします。
だから、負けると分かっている戦争や、勝てるはずのない無謀な戦争というものは存在しません。


「戦争」は、非常に積極的な究極の「外交」です。


そのために国家に「軍事費」と「軍隊」が存在し、戦争に関する国際条約、国際ルールが存在します。


また、通常の「外交」では解決できない国際問題の延長線上に「宣戦布告」が存在し、武力衝突の結果を「講和」に反映させる訳ですから、お互いの国家にそれ相応の大義と動機と覚悟がある訳で、軍人が命を懸けて戦うのは、そこに「命を懸けて戦う価値」があるからです。



そして先の大戦の呼称は「大東亜戦争」で、アメリカ軍との戦闘は、戦争目的遂行の手段の一つで、その動機、大義、目的はアジアの欧米列強による植民地支配を終わらせる事でした。
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1911年のアジアの地図、開戦後の1942年、そして現在の世界地図が「大東亜戦争」の結果を示してくれています。

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【「日中戦争」という言葉が日本の国益を大きく損ねている】
まず「日中戦争」なんて言ってると、あの「通州事件」ですら、交戦中の敵国に、母国に引き揚げる事もなく無防備無警戒でいた日本人が敵国の軍隊に虐殺されただけの話になってしまいます。

大体、戦争中なのに、その後の出来事がいちいち「事件」になってしまう、そんな「戦争」はありません。
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また発砲事件が発端で始まったあの出来事を、「宣戦布告」で始まり「講和」を持って終結した「日清戦争」「日露戦争」「大東亜戦争」と同系列に「戦争」と呼ぶのは、史実とは異なる話です。


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あれは、盧溝橋事件の後、すぐに停戦協定が結ばれ、それでも約束を守らずに支那がテロを繰り返したから事が大きくなっただけです。

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また相手は支那の地方軍閥の一つの蒋介石の国民党で、北京にも通州にも国民党とは異なる地方政権が存在し、当時は国民党から逃げ回っていて戦後アメリカ、ソ連等のご都合により中華人民共和国を樹立する事になった支那共産党の方々も含め、皆様、清朝崩壊後のそれぞれの生活をしていました。

そして当時日本軍が支那にいた理由は、清朝崩壊10年前の義和団の乱の結果として結ばれた国際条約に基づくもので、その目的は支那に合法的に居留する日本人の保護のためで、それはイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等の当時の列強国も同じです。
支那を「侵略」に行ったのではなく、合法的に居留する日本人を守る為に合法的に日本軍が「駐留」していただけで、それも、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア等の当時の列強国も同じです。

条約に基づき支那に居留する外国人を「支那」政府が、その生命、財産を守れない訳ですか「だったら自国民を守る為に俺達の軍隊を駐留させるからな!!文句あるか!!」という当然の結果になっただけです。

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ですので「日中戦争」という言葉は戦後の造語で、正確には「支那事変」であり「(日中)戦争」ではありません。

そしてその後、警察では対応出来ない規模のテロが支那で発生して軍隊が対応し、それを閣議決定で「支那事変」と呼ぶ事に決めたのです。

それを、その「支那事変」を我々日本人自身が「日中戦争」という史実に基づかない言葉を使って表現しているから話がややこしくなっているのです。

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「南京大虐殺ガー」も、実際の当事者ではない中華人民共和国に対して、日本人自身が「日中戦争」という史実に基づかない歴史認識の上で反論しているから解決の糸口さえ見つからないのです。

だって日本人自身が間違った歴史認識を持って、当時の出来事に全く関係の無かった方々の「想像」「空想」「妄想」に全力で付き合っている訳ですから。

「南京大虐殺ガー」に対しては史実に基づき「いや、俺たち、お前らとは戦争してなから!!!」でいいのです。

また大東亜戦争開戦の翌日、昭和16年12月9日に蒋介石は日本に宣戦布告していますし、支那には汪兆銘の親日政権が存在し、その後欧米列強に宣戦布告もしている訳ですからその事も正確に記すべきです。

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まあ、日本の悪い侵略から人民を開放してあげた!!という事が自分達の正統性主張の根拠になっている支那共産党にとっては非常に都合の悪い話になってしまうと思いますが。

そこで日本人自身が「日中戦争」という言葉を捨て、「支那事変」という正確な認識を持って現在の中華人民共和国と向きあうと、それだけで彼らの主張は「瀕死」状態になり、朝鮮半島の主張に至っては「即死」です。

現在、日本国内に「日中戦争」という言葉が氾濫していますが、日本政府の認識はあくまでも「戦争」ではなく「事変」で、それは「戦争」とは「宣戦布告」に始まり「講和」を持って終結するものだからという国際的にも当然な理由からです。

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教科書に「日中戦争」という言葉は多く使用されていますが、文部科学省の認識もあくまで「事変」で、戦後、蒋介石が「日本」という漢字に対して、「支」「那」は侮蔑だ!!という事で、「中華」の「華」を使って「日華事変」と呼んでいます。

そしてそれでも教科書に「日中戦争」という言葉が存在するのは、戦後、教科書が国定教科書から検定教科書に変わり、各社が限られたページ数でその時代を表現しなくてはいけないので、「検定」にもある程度の「幅」を持たせているという、ちょっと無責任な理由からです。


それでも、国家が「支那(日華)事変」と認識している出来事を、現在の日本人が史実とは異なる「日中戦争」という無責任な言葉で表現していると、国家に対して悪影響を及ぼすだけではなく、特亜の主張に対して、いつまでも平行線であるどころか、その「日中戦争」という言葉がそのまま既成事実化してしまい、未来の日本人が現在の「中華人民共和国」と「戦争」をしたという捏造の「歴史」の延長線上に、未来を築かなくてはいけなくなります。

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あの出来事は、あくまで「支那事変」であり「戦争」ではありません。
戦闘はありましたが、あくまで相手は蒋介石の国民党であり、当時逃げ回っていて、戦後にアメリカ、ソ連等のご事情により中華人民共和国を建国する事になった支那共産党ではありません。

侵略に行った訳ではないですし、当事者でもない中華人民共和国の主張を真面目に受け入れる筋合いはありませんし、朝鮮半島の主張に至っては論外です。

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史実に基づいた日本の歴史を取り戻し、本来の日本のあるべき姿を取り戻しましょう。

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先日、津賀ダム平和祈念碑について四万十町に質問させて頂いた内容に対しての回答を頂いた。

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(要所を抜粋)↑ ↑

・祈念碑のある場所が四万十町の雑種地として登記されたのは平成21年8月12日との事。
つまり土地が四国電力所有の時代に切り通しのあったあの場所の造成が始まり、祈念碑が建立され、8月9日に除幕式が行われた後に、四万十町所有の土地へと登記された。


・ダムの工期は(大正町史より)
(大正町史より)『昭和十五(一九四〇)年になって日本発送電株式会社(現四国電力株式会社)に対し、県からの許可が下り、』「同十九年四月二十日に運転開始」「その後、未完成のまま終戦を迎え、昭和二十年九月に工事は中止」「再開されたが、数回の台風により工事が遅れ、昭和二十六年三月に完了、」
との事。

これと私が四国電力に直接聞いた内容と合わせると。

昭和14年 着工
昭和15年 県から許可が下りる
昭和19年 竣工 4月20日運転開始 
     (一部運行・10門のゲートは未完成)
昭和20年 9月 工事中止
昭和21年 10門のゲート完成
昭和26年 3月 完成

という事になる。
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 昭和19年にゲートなしで運転が開始され、21年に取り付けられ、昭和26年に一体何が完成したのか気になる所ではある。

そして祈念碑建立の発端、経緯、具体的な内容については「元津賀ダム平和記念碑建立実行委員会」に回答を依頼してくれていて、その返答待ち。


ーーーーーーーーーーーーーー

でも現在、四万十町さんが祈念碑について

「検証、事実確認をする立場にない、と考えている」

と主張されながら

「祈念碑の近くに町としての注釈を添える事は検討する」

...............

という事なので、

「検証、事実確認もしていないのに、する立場にさえないと考えているのに、一体何を基準として『町としての注釈を添え事は検討』されるのか? 現在、四万十町はその祈念碑に対して一体どのような認識を持っているですか?」

という質問と


(民団新聞7月26日)
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今年も、8月8日11時に、民団の方が慰霊活動に来られるようなので
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今年も四万十町として慰霊活動に参加されるのですか?

という質問をさせて頂き、元津賀ダム平和祈念碑建立実行委員会からの祈念碑の発端、経緯、具体的な内容と合わせて回答待ちの状態なのである。



現在四万十町役場には
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国旗が揚げられている


ゆういんぐ四万十にも
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地元の建設会社にも
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大正地域振興局のあるメインストリートにも
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地元の方も
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国旗を揚げている
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それなのに大正地域振興局ときたら・・・・
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まさか民団の方々に配慮されてる訳でもあるまい・・・



私はただ純粋に、あの平和祈念碑が四万十町民の共有の財産として相応しいものであるかどうか?
その判断を四万十町さん自身に直接お伺いしてるだけなのである。


そして四万十町の子供達が間違った歴史認識を刷り込まれ
その事が原因で、心に不必要な「負い目」を背負わされ

行動が制限されたり、自由を束縛されたり、「夢」を諦めさせられたり、無限であるはずの未来に対する可能性が蝕まれたりする事の無いように、

負い目を負わせた側からの、本来であれば要求出来るはずも、受け入れる必要もない、一方的な要求を呑み込まされたり、する事の無いよう

史実に基づかない「歴史の捏造」と、その既成事実化を阻止したいだけなのである。



ていうか、、四万十町民は一体何をやっているのだ!!!!

平成18年 窪川町、大正町、十和村が合併し現在の四万十町が誕生した。

そしてその礎を築き上げた先人達に対して「朝鮮人の強制連行」という汚名を着せるつもりなのか。


そしてそれは、その上に現在の自分達の現在の「生活」「地位」「給料」、そして「未来」を築く事になるのだ。

しっかりしろよ、四万十町民!!!!!!!!

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地理院地図「新田」昭和43年
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校舎は木造平屋瓦葺切妻(もしかして2階建て??)
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通学路
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体育館
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校門
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敷地内には幼稚園も併設されていた
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学校の石碑が並んでいる
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そしてほぼ完璧な状態で二宮金次郎像がある
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地元の方も、この学校跡の、この二ノ宮金次郎像がここの自慢だとの事だ。
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そしてそれに全く異論はない!!
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100年を超す歴史を誇る地域の小学校が閉校になるという事は、それ以前から地域に存在した寺子屋、私塾を含む教育基盤そのものの歴史を閉じる事になるので、相当の痛手だ。

しかしそれは、当時と比べて地域の体質その物が変わってしまった結果という事にもなる。

そしてその原因は、その地域自体に存在する話でもない。

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学校の石碑
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開校100年の石碑
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学校の歴史
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明治 5年 開校 (金光寺)
明治31年 現地に移転 新築

昭和36年 新築 
昭和48年 桑ケ市小学校統合
昭和54年 新築 船戸幼稚園併設

平成22年 閉校 卒業生2299名
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中学校は、昭和47年、高野、郷、と共に東津野中学校に統合

卒業生にとっては複雑な心境になってしまう光景だ
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広い運動場がありプールもある
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体育館
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ここにも電子基準点
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安芸の畑山小学校 四万十市の勝間小学校のも同じものがある


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街並み
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電話番号が4桁の時代もあった
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学校横の石灯篭
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角度を変えて
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これは街灯だろうか?
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ロウソクを入れて夜道を照らしていたのか
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それとも電源があって電球で照らしていたのか

うーん、ロウソクでは暗すぎると思う

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昭和14年度の東津野村の児童数
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昭和37年度の東津野村の児童、生徒数
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昔は1500名程いた児童生徒も
現在は中央小学校93名、東津野中学校46名


でも日本の人口は戦後7千万人程だったのが、現在は1億2千7百万人

日本国内で極端とも言える程の人口分布の変化があったという事だ。


まあ、それについてはここで簡単に語れる話でもないか・・

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地理院地図「新田」昭和43年
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学校跡は国道沿いのこの付近らしい
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学校への登り坂にも見える

学校の石垣
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現在は会社になっている
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そしてその先の横に
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大正小学校跡の石碑

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大正小学校は最初は鳥出川小学校という名前で、この場所に来たのは明治31~2年の頃らしい。
(はっきりとした開校時期は??)
その後大正9年に大正小学校と改称

昭和47年に中央小学校の統合となり廃校
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在りし日の大正小学校
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でも、学校が廃校になったのは私が小学校に入る以前の話で

またあの数のトンネルが完成するずっと以前の話になる。

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地理院地図「檮原」昭和43年
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場所的にはこの辺りになるのであるが
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当時とはすっかり土地の形が変わっている
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その一角に
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学校跡の石碑がある
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石碑の裏
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学校の歴史
開校明治9年(民家)
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昭和47年 中学校 東津野中学校に統合
昭和57年 小学校 中央小学校に統合


もう学校の面影は残ってないと思っていたが

一段下の場所には学校の石垣らしきものが残っている
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在りし日の高野小中学校
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そして航空写真で見る
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在りし日の高野小中学校
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そしてかつての野越隧道は
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新野越トンネルの時代に移ろうとしている
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工事の進捗状況
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なんと、今年ではないか
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ここから須崎側の当別隧道が完成したのは昭和38年2月
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その後昭和末期から平成の時代にかけて多くのトンネルが完成した
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もうすぐ新野越トンネルが完成

8校あった小学校、4校あった中学校が、それぞれ1校ずつにはなってしまったのだが・・・・
(´;ω;`)ウゥゥ




じゃなくて!!!


こんなに便利になったんだし、また郷小学校あたりが新規開校しないかな!!

あそこに小学校があっても全然不思議じゃないじゃん!!!

とポジティブな発想を持っている私なのである!!!
(^^)/(^^)/(^^)/

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地理院地図「新田」昭和43年
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もうすぐ到着
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学校跡に到着
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桜の木の間を通って校舎に入る造り
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現在は
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もしかしてこの道路は
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学校の校庭を大きく横切っているのだろうか
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学校の歴史

大正 7年 開校
昭和47年 中央小学校に統合


そして学校開校の経緯は
明治41年義務教育の延長に伴い学校の整理統合
(教育期間が4年から6年になるので、当然児童数が1.5倍になる)
北川にあった尋常小学校を新田に移し高等小学校と合併し東津野尋常高等小学校とした。

そのため北川尋常小学校の校区であった木桑、宮谷の両部落は通学距離が二里になる家もあり問題になる。

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そのため大正7年 宮谷分教場設置、4年までの教育を行った。

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地理院地図「新田」昭和43年
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明治 9年 開校(願成寺)
昭和47年 中央小学校に統合



郷小学校から向かう
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ここにも木造校舎が現存している
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懐かしい木造平屋切妻瓦葺校舎
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校門 

現在は会社のようになっている
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在りし日の芳生野小学校
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航空写真

宮木小学校 中央小学校(移転前) 東津野中学校 芳生野小学校

当時はトンネルもなく、道がクネクネと走っていた。

天忠トンネルの完成は平成3年

それまでは宮木小学校 高野小学校中学校へは川沿いを大回りする道のりだった
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地理院地図「新田」昭和43年
(中央小学校移転前)

新しい中央小学校は大きく土地を造成した場所に建てられたようだ
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移転前の中央小学校のあった場所
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その後は保育園
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航空写真で見る在りし日の芳生野小学校
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そして東津野周辺のトンネルの完成年度
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殆どが平成の時代になってから造られたもの。


それまでは
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クネクネと、こんな感じだった



勿論、それは東津野村時代に小学校が8校、中学校が4校があり
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1500名近くの児童、生徒が学校に通学していた時代の話ではあるが。


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地理院地図
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船戸から桑ケ市へ。

当時とは随分と道が変わっている。

到着
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その後、複合施設として利用されていたようだ。
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学校の面影らしきものも見当たらない

校庭の桜の木も樹齢からすれば、その植えられたものに見える。
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学校の石碑がある
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桑ケ市学校跡
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全文

明治 7年 戸田彦稲氏が私学的に小学校を開校
   8年 宝寿寺跡に移転 簡易小学校として発足
  42年 船戸校と合併 船戸小学校桑ケ市分教場

昭和16年 国民学校と改称 
  23年 小学校と改称
  28年 分教場から独立
  47年 船戸小学校に合併 廃校
  49年 複合施設へ



桑ケ市の風景
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昭和37年度の児童数は
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男子17名
女子10名 

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