高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2017年05月

イメージ 1

これだけの学校が廃校になってしまった・・・・

イメージ 2



イメージ 3


立石小学校

布小学校

布中学校

イメージ 4


下ノ加江中学校

イメージ 5


窪津小学校

養老小学校

イメージ 6


足摺岬中学校

松尾小学校

イメージ 7


横道分校

益野小学校

イメージ 8


三崎中学校

イメージ 9


下川口中学校・宗呂小学校

松山分校
松山地区

貝ノ川小学校藤ノ川分校

イメージ 10


出合小学校・中学校

イメージ 11


有永分校

イメージ 12


貝ノ川小学校

貝ノ川中学校

イメージ 13


大津小学校


高知県ランキング

イメージ 3


芳ノ沢小学校
イメージ 1


大月町は素晴らしい木造校舎の残る町

その他にも魅力的な自然環境の沢山ある町

しかし平成21年、中央小学校、樫西小学校、周防形小学校、月灘小学校、姫ノ井小学校、柏島小学校、一切小学校、橘浦小学校、弘見小学校が新設の大月小学校に統合され町内に9校あった小学校が1校のみになってしまったのは非常に残念である。



イメージ 2


竜ヶ迫小学校
芳ノ沢小学校
弘見小学校
弘見中学校
イメージ 4


橘浦小学校・中学校

イメージ 5


安満地小学校
一切小学校・柏島中学校一切分校
中央中学校
中央小学校

イメージ 6


柏島小学校
柏島中学校

イメージ 7


春遠小学校
周防形小学校
姫ノ井小学校

イメージ 8


樫西小学校
月灘中学校
月灘小学校

イメージ 9


小才角小学校


高知県ランキング

イメージ 1


平成21年 新設の大月小学校に統合

イメージ 2


まだまだ現役の小学校に見える
イメージ 3


二ノ宮さん
イメージ 4


そして同21年 その他に、中央小学校、樫西小学校、周防形小学校、月灘小学校、姫ノ井小学校、柏島小学校、一切小学校、橘浦小学校が同じく新設の大月小学校に統合され、大月町の小学校が一校のみになってしまったのは非常に残念だ。

高知県ランキング



イメージ 4
三原村は明治22年、12の村が一つになって出来た村である
イメージ 1
平成29年3月31日の人口は1,627人
昭和40年頃は2,400人を超していたそうである

現在はその後、数回の市町村の合併を繰り返し大きな地方自治体になっている市や町も、もともとは小さな村単位の小さな集落が集まって出来上がったものである。

そして現在のように役所としての立派な箱物やインターネット、それどころか交通手段さえ発達していなかった時代に、日本全国津々浦々隅々まで共通の語源を使い、今共通の文化、常識、概念を日本人が当たり前のように持ち合わせていたかというと、それだけ国家としての体制が整備されていたという事である。

逆に言えば、それだけの国家体制が築き上げられていた!!という事である。

では一体どのようにして国家としての情報を全国津々浦々に伝達していたかというと、「神社」である。
イメージ 2


各省で決められた事項は全国の神社の統括本部みたいな役割をしていた神祇官が全国の神社を通していろんな事項を日本人全員に伝わるようにしていたのである。
いわば「神社」は昔の「役所」のような場所だった。

政治の事を「まつりごと」と呼ぶのは、お祭りも開かれる「神社」から伝わってくる事項だから「まつりごと」と呼ぶのである。


三原尋常小学校の運動会のようす
高等科も合わせると当時の児童生徒の数は500名を超えていた
「幡多の100年」より
イメージ 3


東分校
イメージ 5
西分校
イメージ 6
南分校
イメージ 7
芳井分校

高知県ランキング

イメージ 1


在所橋
イメージ 2


昭和29年架設
イメージ 3

下流側に一代前の橋台が残っている
当時この町内でいろいろと揉め事があり大変だった時に、先代の橋が焼け落ちてしまい、それどころではない、橋の復旧が最優先だ!!という事で全員が一致団結して掛けられた橋。

下は
イメージ 4


美良布周辺はほぼ同じ標高に多くの集落があるかのように感じるが、実はかなり高低差のある川で分断されていて結構巨大な橋を渡って隣の集落に移動する事になる。


そして在所橋を渡り、梅久保に渡る橋の先代の橋があった場所
イメージ 5


ここに五在所山神社への道しるべがある
イメージ 6


左へ 一里三丁

一里は36丁(町) 一丁は60間 

1.818m×60=109.08m=一丁

109.08m×39=4.254㎞

イメージ 7

そういえば北川村で地元のおばあちゃんに学校跡地の事を尋ねると「ここから一里先」と教えてもらった事がある。




大屋敷の奥にある大荒の滝

イメージ 8

イメージ 9


林業が盛んで大屋敷の木馬茶屋に休み場があった頃、この周辺も林業に携わる人達の姿が多くあった事だろう
イメージ 10


イメージ 11


でも写真で滝の事をどんなに頑張って表現しても全く何も伝える事が出来ないからやめとこう・・・・

高知県ランキング

イメージ 1


地図ではまるでそこに集落が存在しているかのように記載されているが、実際は半世紀程前に無人になった集落である。

イメージ 2


梅久保から林道で在所山の鳥居に向かう

大久保の集落跡はその鳥居の少し手前にある
イメージ 3

最初は気付かずに通り過ぎてしまっていたが、道路脇には
イメージ 4


また少し西には鳥居が見える
イメージ 5

右の灯篭は帰りに直しておいた
イメージ 6

灯篭の日付は明治42年と43年
イメージ 7



この道を進んでいっても御在所山山頂にある韮生山祇神社に着く
イメージ 8


また林道の脇に石垣跡が見える
イメージ 9


集落跡
イメージ 10


そして民家跡が一軒
イメージ 11


ここの方が大久保最後の住人に方で昭和40年代中盤まで住まれていて、清爪にも住居があり、そこに移っていったそうだ。
イメージ 12


電気も来ていた
イメージ 13


洗濯機
イメージ 14

ナショナル
イメージ 15


洗濯機がありお風呂があり、当時の配置のまま建物が崩壊している
イメージ 16


この民家跡の近くにこの大束では御馴染みのこの石灯篭がある
イメージ 17


日付は昭和6年
イメージ 18


その横にお墓がある
イメージ 19


お墓の灯篭の日付は明治23年
イメージ 20


お墓の日付は明治15年
イメージ 21


更にその奥には嘉永の日付のお墓がある
イメージ 22


お墓のある場所の石垣は周りの石垣より頑丈に造られている
イメージ 23


下の段の民家跡
イメージ 24


コーラ
イメージ 25




イメージ 26

当然今の林道すら無い時代にここまで民家一軒分の瓦を運んでいた

美良布周辺にも当時は瓦製造会社が数多くあったそうだが、交通の便が発達すると次第に数を減らしていったそうだ


イメージ 27


テレビ
イメージ 28


バイク
イメージ 29


自転車
イメージ 30


林道を挟んだ南側にも集落跡が続く
イメージ 31



林道建設で大久保の集落跡が平坦な道路になってしまったのは残念だ

ここも大久保の住居区域
イメージ 32


ガスボンベ
イメージ 33


風呂釜
イメージ 40


手動の洗濯機 これは昭和38年前後のものだ
イメージ 34


こちらもナショナル
イメージ 35


そしてここにも石灯篭がある
イメージ 36


ここだけお賽銭がある
イメージ 37


山祇神社の鳥居の場所にも同じ文字がある
イメージ 38


ここにも民家跡がある

「在所村史」によると大束部落(大久保、大屋敷、権束)は30戸位の小さな部落で文化に恵まれない不便な生活をしていたと記されているが、大屋敷、そしてこの大久保をみた限りではそうは感じない。

また昭和23年、農地増加、農家の分戸対策で大束に5町歩の開拓部落が出来たそうで、それはこの場所からもう少し東の場所で現在は消滅してしまっているそうだ。

またこの大久保の西にも東にもマンガンの採掘場があり、地元の方は開拓団とはそのマンガンの採掘に来ていた人の事ではないかとも言われていた。

いずれにせよ大屋敷は「王屋敷」、大久保(大公方)で平家ゆかりの地名があり、先の時代から明治、大正、昭和と引き継がれていった石灯篭をみると質の高い伝統的な暮らしをしていたのではと想像してしまう。
イメージ 39


そして索道がある
イメージ 41


最初は林業関係の設備でそれに合わせて生活物資を運ぶ事にも利用されていたのでは、と思っていたが、林業は全く関係なく、この大久保の生活物資を運ぶ為の専用の索道との事だった。
イメージ 42


だとするとこの索道で、テレビ、冷蔵庫、洗濯機等が運ばれてきた、という事になるだろう


そして先程の民家の瓦はこの索道の一代前の索道で運ばれてきたという事になるのだろうか
イメージ 43



動力室
イメージ 44


という事はこのエンジンも先代の索道を使って運ばれてきたものになるのだろうか

この索道の先代の索道があったという確たる証拠はないが、大久保の集落では昔から索道を利用していたと考えるほうがいろいろと辻褄が合う
イメージ 45




子供用の靴が落ちている

ここの児童達は当然ここから清爪小学校に通っていた
イメージ 46

行きはいいとして、帰りは結構時間が掛かった事だろう

私が大屋敷から御在所山山頂まで1時間掛からずに登れたから清爪から大久保までは2時間程は掛かっていたかもしれない

でも今のゆとり世代と比べ昔の子供はタフだったから平成の時代の感覚で考える程大変だった訳でななかっただろう


だって当時は綺麗な山道で、四季折々の楽しみがあり、道には地元の人々の往来があり、通学路の先々で畑で仕事をしているお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんがいたから。



イメージ 47


集落跡にある大きな岩の上にある石灯篭

この集落の時代の長さ、歴史の深さを感じてしまう

もしかして1千年近く人々が住み続けてきた場所で、その歴史の長さから比べると人が住まなくなってからはまだちょっとしか経ってない状態かもしれない。

高知県ランキング


そして登山モードで「木馬茶屋」に到着


イメージ 1

奥の建物の屋根には今日もエンジンが載っている
イメージ 2


登り口
往復3時間とはあるが1時間程で登る事が出来た
イメージ 3

登り口には給水ポイントがある
イメージ 4



平坦な道を少し進む

右手に石灯篭がある

この灯篭はこの先各地で目にする事になる
イメージ 5


日付は明治24年

また明治時代の旧11月とは一体どういう事なのだろうか
イメージ 6


大屋敷の文字がある
明治時代には既に「王屋敷」から「大屋敷」になっていたという事か
イメージ 7

平坦な山道はすぐに終わり勾配のきつい山道が始まる

大正時代の道案内
イメージ 8

16丁30間

一丁は60間で約109m  約1.8キロの山道


給水ポイント

茶屋からは3カ所目だ
イメージ 9


そして林道に交差する
イメージ 10


ここに韮生山祇神社の鳥居がある
イメージ 11


日付は大正13年
イメージ 15
ここにもこの石灯篭
イメージ 12


こちらの日付は昭和9年
イメージ 13


これも別の場所でも見る事になる
イメージ 14


少し登ると

イメージ 16


時代は慶應のものとなってくる
イメージ 17

イメージ 18


イメージ 19


イメージ 20


イメージ 21

イメージ 22


山祇神社
イメージ 23


イメージ 24


四カ所目の給水ポイントは
イメージ 25


植林になる前は水量も豊だったそうだ
イメージ 26


時代は文政のもの
イメージ 27


奥には石仏が置かれている
イメージ 28


尻見坂
イメージ 29


入山安全祈願
イメージ 30


もうすぐだ
イメージ 31


イメージ 32


日付は文久3年
イメージ 33


イメージ 34


梅久保村

当時から存在していた村だ

イメージ 35


イメージ 36


イメージ 37



着いたようだ
イメージ 38


イメージ 39

イメージ 40


ここで地元の方に合う事ができ、いろいろと話を聞かせていただいた
イメージ 41


イメージ 42


在所村史によると韮生山祇神社の建立は宝暦2年10月とある

また歴史年表では寛延1年(1748年)となっている




帰り道

梅久保の集落

ここでにも同じ石灯篭がある
イメージ 43


登る前に御在所山に登った人のブログを見たが、登山の道中で一人歩きの綺麗な女性とすれ違ったそうな。

そういえば私も登り口付近で、行き、帰りの二回、凛として美しい女性とすれ違っていた。


偶然にしてはあまりにも出来過ぎた話である。

高知県ランキング


美良布から物部川を渡り大屋敷に向かう

イメージ 1


梅久保の周辺案内図

もう「大屋敷」の地名はない

そのかわりに「木馬茶屋」の文字がある

イメージ 2


集落手前の橋
イメージ 3

橋の左の橋の名前が書かれていたであろう部分は欠落している

住宅地図では「大束橋」となっている

そういえば電柱の表記は「オーツカ」だった
イメージ 4

昭和38年に架設されたもの
イメージ 5


そしてすぐに「大屋敷」に到着
イメージ 6

「木馬茶屋」
イメージ 7


平家の郷 

またこの「大屋敷」も平家ゆかりの地名で「王屋敷」から変化したものらしい
イメージ 8


そしてまた戦前、戦後にかけて林業が盛んだった頃も歴史の1ページである
イメージ 9

在所山の水
イメージ 10

トイレも完備
イメージ 11

ここは在所山の登り口でもある
イメージ 12


集落を登ってみる

鳥居がある
イメージ 13


降りる
イメージ 14

神社の名前は分からないが「王屋敷」を訪ねて高知市から来た事を伝えてきた
イメージ 15


奥には民家跡
イメージ 16

倒壊したのは最近の事だろう
イメージ 17

セメント屋根
イメージ 18

更に上に登る

綺麗に手入れされた集落の小道
イメージ 19


集落としては既に無人で「大屋敷」という当時の呼称すら消えてはいるが、まだまだ地元の方々が頻繁に足を運ぶ場所ではある

イメージ 20


ブルーの屋根の民家
イメージ 21


更にその上にの登ると
イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24


「平家観音像ノ碑」
イメージ 25


イメージ 26


イメージ 27

奥には民家跡があり
イメージ 29


茅葺き屋根にトタンを乗せて保護している貴重な建築物でもある
イメージ 30
そしてここから「在所山登山道」が始まる
イメージ 28


まあ、御在所山に登らずして、「大屋敷」「大久保」の事は語れまい!!!

高知県ランキング


永野商店街

イメージ 1


かつて美良布に山田高校美良布分校があった頃
イメージ 2


だから当然、美良布商店街が賑わっていた頃
イメージ 3


永野にも小学校があった


永野商店街は学校跡地の前の道
イメージ 4


商店街時代の面影
イメージ 5


ここで「肉まん」を売っていた可能性大
イメージ 6


ガソリンスタンド跡地
イメージ 7




現在、学校跡は
イメージ 8


学校の卒業生も多い事だろう
イメージ 9


学校の歴史
イメージ 10


開校 明治 7年
閉校 昭和46年



学校跡地の北には
イメージ 11


吉野ダム完成に伴い子供の適当な水泳場を失ったので校下父兄有志が相謀り前田千雄を会長に村首脳部を顧問として永野プール建設期成同盟会をつくり、工費80万円出夫八百人を以て永野校の北30mの位置に短水路プールを昭和28年10月に建設して県下でも稀な夏季体育施設が出来上がった。
《在所村史》より

イメージ 12


現 香美市になる前の香北町、の前の
在所村時代の話である


学校がこの場所来たのは明治25年

永野部落氏神様の東方で医師谷内徳馬氏が寺子屋を開いていたが、明治5年学制の発布により小学校設置の議が高まり、氏神様の西方に学校を建て明治7年永野小学校と称して義務教育を始めた。

その後、梅之久保部落、次いで朴ノ木部落がこれに加わった。

昭和29年2月3日、不慮の火災で校舎校具全てを失ったそうだ。



因みに昭和3年当時、学校は赤いセメント屋根の山間部には珍しい近代的な建築だったそうな!!

高知県ランキング

元禄13年の古地図によると、猪野々、清爪、日浦込(古味)・・・と現在地名のある集落そのものが、それぞれの独立した村であったようだ。
イメージ 1


永野は以前は「長野」だったようだ
一体いつ、どのような理由で変わったのか知りたいところである
イメージ 2


周辺に「橋」が掛かるまでは高知市内からのかなり時間的に遠い場所

イメージ 3


非常に綺麗に手入れが行き届いている学校跡地
イメージ 4


現在は
イメージ 5



在所村立清爪小学校
イメージ 6


明治11年から昭和44年までの歴史
イメージ 7


香北町史には

明治11年 清爪字東ノ岡に二間半に4間の茅葺き校舎を設け浜田庄吉・岩谷徳隣・中沢正顕・立仙繁之助らが相次いで生徒を教えた

明治18年 清爪簡易小学校と称す
明治26年 校舎を新築し清爪尋常小学校と称す
明治36年 在所村第4尋常小学校と称す
明治41年 校舎を改築 児童数45人

昭和30年 8月 新校舎落成 9月から新校舎で授業開始 児童数33名
昭和41年 児童数 男子14名 女子9名
昭和42年 新入生一人が入学
昭和43年 児童数 男子10名 女子8名
昭和44年 大宮小学校に統合

    とある


手入れをされてるのは、やはり卒業生の方だろうか
イメージ 8


校庭のタイヤ
イメージ 9

廃校から半世紀になるが
遊具も定期的に塗装をかけ当時のままの姿でいる
イメージ 10



校庭からの風景
イメージ 11


近くの小高い場所にある神社からの清爪の集落と小学校
イメージ 12


かつては多くの人々が住んでいた山々の集落の学校が廃校になり、住む人の数もここまで減ってしまった。

「過疎化」だからねぇ~~、とそこで思考停止してしまってはいけない。

確かに多岐にわたる原因があり問題は複雑ではあるが、

これらの現象は、早い話が戦後からの「国内食料自給率」の低下が原因なのである。


そしてその「国内食料自給率」の低下の原因は何かというと

「敗戦」である


しかしその「敗戦」という言葉も、「第二次世界大戦」「太平洋戦争」等の戦後に作られた言葉の中では確かに適当な言葉かもしれないが「大東亜戦争」という本来の、あの戦争の呼称、そしてその本来の「目的」からすれば全く持って相応しくない言葉になってしまうのである。

戦後の現代を生きる日本人は、本来の、本当の日本の歴史の中に生きていない。


戦争とは「宣戦布告」で始まり「講和」を持って終結するもので、その講和があんな内容だったから仕方のない部分はあるが、いい加減気付こうぜ。

未だに真珠湾攻撃が卑怯なだまし討ちと思っているのは、当の日本人ぐらいのもんだぜ!

「日本国憲法」なんて、あれは戦後GHQが作った憲法なんだぜ。

憲法9条なんて、アメリカ人にとっては「え????日本人て未だにあれを真面目に受け止めて真剣に実行してるの???マジかよ・・・・・・」と、思っていると思うぜ!!!


早く日本人の日本の本来の本当の歴史を取り戻そう!!!



高知県ランキング

↑このページのトップヘ