高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2017年04月

学校の歴史

明治 6年 須賀神社拝殿を借用して学校を開く 岩改小学校と称す
      野島信義、助手岡林鹿次が無報酬で教育に当たる 
      児童数18名、他に等外生(青壮年)12名

明治10年~13年 岡林鹿次校長

明治20年 岩改尋常小学校と改称

大正13年 教員住宅を新築する

昭和 2年 美良布第二尋常小学校と改称する

昭和36年 大宮小学校に統合



昭和54年の住宅地図の岩改小学校跡周辺
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これが昭和52年度版になると
学校跡地の記載が出てくる
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現地に到着

同時にバスが来て元気な児童が下りてきた

岩改小学校の卒業生数は毎年一桁だったそうだが、今でもこの場所から元気に小学生が登校している

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あの付近だ
もう何もないが、雰囲気だけは残っている
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ここが住宅地図にある岩改小学校跡地
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全景
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災害時避難場所

学校跡地でよくあるケースだ
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バス停もある
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懐かしい校庭の木
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校庭には石碑がある

しかしそれは学校跡地の石碑ではない

日付は昭和15年
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昭和15年

それは皇紀2600年
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さあ皇紀2700年の準備を始めよう!!

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戦後に開設され、10数年後の昭和36年に大宮中学校に統合


地理院地図には記載が無いが

住宅地図 昭和52年度版には「中学校跡」の記載がある
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ここか
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小さな敷地
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隣は消防
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戦後に中学校が開設された場所だ
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部活がどうしていたのだろう・・・
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と余計な心配をしてみる・・・・

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学校の歴史 

明治 5年 学制発布により寺子屋は統合廃止され西川村立の久保川小学校として発足
明治24年 奥西川小学校とし改称

昭和41年 プール完成(7月)
昭和43年 大宮小学校と統合し西川分室と改称



地理院地図「手結」昭和35年

佐藪に学校の記号がある
これが西川小学校
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昭和40年代
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住宅地図 昭和54年度版には小学校跡とプールに記載
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52年度版には小学校跡と中学校跡の記載があったりもする
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プールは現存している
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今は個人宅になっている
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校門の雰囲気が残っているみたい
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プールから学校方面
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昭和41年7月に完成した西川小学校のプールだが、学校は昭和43年に統合

でもまあしかし、このプールはその後も地元の子供達が夏場に通う場所ではあった事だろう。

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学校の歴史

明治 7年 五百蔵の報恩寺の一室を借りて五百蔵小学校を開く
明治15年 報恩寺跡に新しい校舎を建てる 下白川寺床に白川小学校を開く
明治22年 五百蔵小学校が村立の小学校となり白川小学校を統合
明治24年 五百蔵小学校を暁霞小学校と改称し校舎を改築する
明治45年 三学級編成、児童数170名

昭和31年 町村合併により大宮町となり大宮町立暁霞小学校と改称
昭和36年 町村合併により香北町 大宮小学校に統合 
      (昭和36年度の卒業生は28名)

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昭和36年に廃校になった学校だけに殆ど何も期待せずに現地に向かうが


忠霊塔があり一発で学校跡地と分かる絵に描いたような状況
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しかも木造校舎で
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格子窓さえ残っている
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香北では河野小学校がまだ木造校舎として当時の形を残しているが、まさかこんな場所にも普通に平気で存在しているとは思っていなかった
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しかも校庭では学校帰りの児童が遊んでいる
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昭和36年の統合時の卒業生は28名で、児童数は100名を越していたはずだから、市町村合併や交通の便がよくなった事で統合になったのだろう。
大宮小学校はすぐ近くだし。
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なんとも理想的な学校跡地


国旗掲揚台
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しかし昔の学校跡地に国旗掲揚台があり、新しく建てられた学校には国旗掲揚台が無いとはどういう事だ!!!

日本の日本人のための本来の教育の形を取り戻そう!!

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久しぶりに安芸の畑山に

一つ確認しておきたかった場所
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明治43年の地理院地図では畑山ー正藤は2~3mの幅の道で繋がっていたとの記載がある
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昭和44年の地図にも記載されている道だ

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その道は五位ヶ森への道を右に進んだ
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この道のようで

地元の方に聞くと、やはり昔はここからの道を使って正藤に行っていたそうだ。
(現在は潰えていて使えないそうだが・・・)
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2~3mの幅の広い道があったという話も現実味がある。

そして当時は畑山ー石佛ー中内ー正藤、そして中ノ川は現在では想像も付かない程の強い結びつきがあったという事で、更に「寶賀勝」という鉱山があり、そこにこの畑山の小学校があったという時代さえあったのだ。



集落に戻ると
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その後撤去される事もなく畑山の「最近」の歴史を伝えている
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かつては地元の子供達の姿で溢れかえっていた畑山の繁華街

当時は800人程の人が住んでいたそうだ。
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漆喰の蔵
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移転後の畑山小中学校
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この奥には物部村明改小学校中津尾分校があった
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約1年半ぶりに来る畑山小中学校跡


が正確には現在はその名前では呼ばれていない施設だ
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そしてここが畑山温泉であり、以前に畑山小中学校があった場所
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学校の歴史の刻まれた石碑
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畑山温泉
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今度来てみたい、
というか気まぐれで来て、温泉に入っていきたい場所
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庭にはかなり控えめなワンちゃんがいる
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畑山のバス停
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ここがメインストリートになる
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が、しかし、もうバスは来ないようだ
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アサヒの自販機があった
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周辺で唯一の自販機になるだろう
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集落の橋
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宮ノ木橋
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これは昭和「38」年という事だろうか
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現在の畑山の地図
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水口神社
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畑山小学校の歴史
(石碑より)
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明治11年 創設・上段部落の田岸寺を校舎に充てる
明治25年 元畑山役場を空室を利用する
明治31年 旧校舎(現地)に移転 校舎新築 畑山尋常小学校と称す
明治34年 畑山第二尋常小学校と改称 寶賀勝小学校を本校の分校とする・正藤小学校の前身、大正2年に正藤に移転
明治36年 校舎増築二学級編成となる

大正 6年 運動場を拡張

昭和 8年 高等科を併設する
昭和22年 中学校2学級を併設
昭和24年 中学校3学級となる
昭和26年 二階建て4教室新築(80坪、110万)
昭和27年 増築2教室
昭和29年 増築2教室
昭和33年 学校及び教員住宅に水道設置完了
昭和38年 炊事場拡張 ミルク給食開始
昭和39年 小学校5学級編成となる
昭和40年 小学校6学級編成となる
昭和41年 校舎増築 2教室(東) 小学校5学級編成
昭和42年 運動用具、自転車置き場完成、小学校4学級、中学校2学級
昭和43年 運動場北東部金網完成 中学校3学級
昭和44年 小学校3学級
昭和45年 小学校2学級
昭和47年 教員住宅3戸完成
昭和49年 体育館、校門完成
昭和53年 新水道設置完了(学校、教員住宅)
昭和54年 プール完成
昭和55年 小学校2学級
昭和56年 新校舎完成

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安芸ノ川から宝賀勝へ向かってみる
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寶賀勝への道はこの集落の上にあるそうだ
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上の集落へ
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昭和というより、大正、いや、明治の雰囲気さえ残っている
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時代劇にも出てきそうな風景
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この道を進めば寶賀勝に着く

と、先程の下の民家の方にも教えていただいた
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かつての往来の道
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潰えているとは聞いていたが
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そんなにも悪くはない
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なかなかいい感じの道
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作業道と交差する
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作業道を横切り
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給水ポイントを通過
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稜線上に到着

道は作業道になっていた
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かつての稜線上の山道を期待していたが
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これはこれで歩きやすい

また本来の目的自体がこの道ではない
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この地形で大体の位置を推測
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まだまだ上に登らないといけないから、進路は右
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一気に勾配がきつくなる
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かなり登ってきた
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頂上付近
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これはどういう意味なのだろうか

知っていればもっと自分の位置、状況の判断が出来たはずだ
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寶賀勝へは北の稜線上を進む
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分かり易い地点に到着

林道と破線の道の接続ポイントだろう
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破線の道も作業道に

進むと大崩壊・・・
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なかなかヤバい傾斜
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しかしその先は行き止まり

そしてかつての寶賀勝への道どころか杣道さえ無かった

どうやら道は、この上っぽい・・・

そして引き返しさらに上の道に進むといつしか稜線上を歩いていた

多分、宝賀勝への道はここから下る形で接続していると思う・・
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しかしその先は藪化が激しく時間的にも作戦撤退ラインに

やはり寶賀勝からの道をもっと先に進んでおくべきだった・・・


引き返す


安芸ノ川集落手前

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当時はここに木製の橋があったのかもしれない
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集落に到着
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この安芸ノ川では5人の方にいろいろと話を聞かせて頂いた
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そういえばこの山の向こうに「上田」(じょうでん)という集落があった
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そこへの道を尋ねてみたが

もう道も無く植林で何もないよ
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と、じょうでん、からこの安芸ノ川に来られた方が言われていた
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そして寶賀勝から安芸ノ川に抜ける道を確認すべく、雨の合間を縫って再度行ってみる

滝のある川辺にも炭焼きの窯跡がある

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昔はこの場所に吊り橋が掛かっていた
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しかし安芸ノ川の爺さんの話では

「わしはそんな吊り橋は知らん!!」

と言っていた


どうやら吊り橋は、かなりその後に掛けられてもののようだ


そしてかれこれ一時間、道を進むが
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確かに道はあるが、藪化が凄まじい
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この目印を付けてなければ迷子になってしまう!!
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さすがにこのまま先に進み続けるのは危険と判断して撤退する事に
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結局、道の接続は確認出来なかったが、地形的には等高線が緩やかになり稜線上に近づいていたので、おそらく藪化した道の先が安芸ノ川からの道に繋がると思う・・・

それにしても、かつての往来の道があの状態で続く先に、ここまで藪化した場所があるとは

当たり前の話にはなるが、宝賀勝ー安芸ノ川の山道は人が歩かなくなって相当の年月が経っているようだ!!


前回の寶賀勝からの道の修正版
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これからの季節、あの場所を進むのは厳し過ぎる・・・・


再度挑戦するとすればまた冬場に

そしてその時は、鉱山跡に残されたダイナマイト探しも一緒に!!!

安芸の川






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かつて鉱山のあった宝賀勝

そしてその先のは安芸ノ川鉱山があり安芸ノ川の集落につながっていた
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行ってみよう!!

再び宝賀勝へ

今日はユンボがない
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またあの崖を直降りか、、と思っていたがカーブミラーの袂に杣道があり、降りていくと吊り橋跡がある
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簡単に川岸の降りる事が出来た
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その後も誰かが足を運び道を造っていったようだ


目の前には「寶賀勝滝」
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今回は杣道を使って簡単に降りれたし、滝の近くにも来れたが、良い事ばかりではない。
最近雨が降ったせいもあるが、ここは川が前回の場所より深い。

長靴で渡るのは無理なので裸足で渡る。

そして対岸の吊り橋跡付近からの杣道を登り宝賀勝へ
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気になっていたあの広場の石は
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こんな形であった!!
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なにか意味のある石だろう
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実は前回の帰り際に横目に見えた対岸の石垣が気になっていた
さすがに崩落している部分もある・・

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対岸の石垣
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三椏の花が咲いている

鉱山閉山後の寶賀勝では三椏の栽培が行われていたのかもしれない
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もしかしてこの先に安芸ノ川に向かう地理院地図の道があると思っていたのだが、あったのは道ではなく「滝壺」
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寶賀勝の滝はいくつかの滝壺を経て張川に水を落下させているようだ。

場所が場所なら「観光地」になれるポテンシャルは充分に秘めているが
だからといってこの場所がそう簡単に俗化してしまう事にも抵抗がある
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道がこの先ではないという事は、この上か

と少し登るとワイヤーが落ちていて
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道が出現
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そして迂回しながら高度を上げ複雑な地形を克服し、道は南進し稜線上に出る
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この道が正しく、この場所がその稜線上なら道は右だ
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小さな沢にはかなり古い時期の、つまり寶賀勝の鉱山が稼働していた明治後期、大正時代のものかと思われる程の古い時期の石積みがある
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この道はその後出来た杣道ではなく、宝賀勝と安芸ノ川を繋いでいた道に違いない!!
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この稜線上で場所を確認する

その先に杣道が続く

また地理院地図にはこの付近に建物があった事を示す記号があるが、それを100年後に確認する事は不可能に近い。
それでも手がかりになりそうなものはないかと気にかけながら進むが、何も無い。


しかしその先を安芸ノ川方面に少し進むと若干等高線の緩やかな場所があり
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炭焼きの窯跡がある
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しかも二連

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当時は寶賀勝も含めこの付近、また伊尾木川沿いには大小多数の鉱山があったそうだ。

そしてその鉱山では製錬用の薪が必要だった訳で、小さな鉱山でも一日20~30俵の薪を使っていたそうだ。
その薪を作るための鉱山側から人を出していた場合もあった程で、鉱山と炭焼きは連動してた。

つまりこの付近にある炭焼きの窯跡は周辺集落の生活必需品としての炭を造っていたのではなく鉱山の製錬用の炭を大量に生産していた跡という事になるだろう。


そしてその後、鉱山が閉山した後もこの場所に明確な訪れる人がいたようだ

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それもごくごく最近までの話
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林業関係者がくるのは当然の事ではあるが
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地籍調査のテープ
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ここまでの寶賀勝ー安芸ノ川への道は局地的な崩落を除いてはほぼ明瞭に存在している
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確かにその後、林業関係者、地籍調査等、最低限の人の出入りはあっただろうが、それは100年前の道を改めて踏み固める程のものでもなかっただろう。
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等高線の緩やかな場所にトタンや、ワイヤー、一升瓶が落ちて居たりもする
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眼下に見えていた林道、作業道はまたいつの間にか視界から消えていた

道は確実に高度を上げながら安芸ノ川に向かっているようだ。

が、今日はここまでのしよう。
この状況で単独行動でこれ以上の深入りは危険かもしれない・・・

また実際に、本当に安芸ノ川に向かっているという証拠はない

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引き返す事に

所々に三椏の花が咲いている
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何年前なか??
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安芸ノ川からは寶賀勝を見下ろしながら降りてくる事になる

こうみると宝賀勝は集落跡というより大きな石垣跡と言ったほうがより正確な表現になるのかもしれない
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本来であれば人が住み着くはずがない場所に鉱山を発見したために石垣のお城を作ったという感じだ
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金属だ

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もしかしてこの金属の産地はここ「寶賀勝」かも
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陶器も落ちていた
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帰り道

中ノ川方面への道を探してみようと杣道に進まず、そのまま高度を下げずに少しだけ進むと

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石垣跡が丁度吊り橋から見上げる場所にある

しかもその性能、機能以上に、そも美観面を重視した形だ
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炭焼きの窯跡には見えない

またあの石垣跡から離れてわざわざここに住居を構える必要性も有りそうに思えない・・・
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でも、、もしかしてこの場所に宝賀勝を訪れる人に対するシンボルマーク的な建物があったのかもしれない・・・と考えると妙に納得できそうなである!!!


寶賀勝付近の状況
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宝賀勝から先の安芸ノ川方面への状況
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やなり次回は安芸ノ川方面から宝賀勝への接続を確認すべきだろう!!

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安芸市竹ヶ峯
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高知市内からは2時間半以上の距離

時間的に言えば土佐清水、宿毛なみに遠い場所である。

そこには昭和55年まで小中学校があり、昭和40年頃までは森林軌道が走り多くの人々で賑わっていた場所


地図上では、まだ人が住んでいるかのように記載もされているが
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実際は既に無人になった集落である
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前回訪問時は竹ヶ峯への道が発見出来ず、この山の中の何処に集落があるか分からなかったが、最新の住宅地図にはさすがに民家跡の記載はないが当時からの「道」がまだ記載されている。

この地図を頼りに竹ヶ峯に向かう
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と言っても、既にその道自体が消滅していて、完全に平成の時代とは切り離された場所になっている

その道跡を頼りに竹ヶ峯に向かう

別役小中学校跡の北の四又路をそのまま北に登ると

電柱が
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かなり古い電柱だ
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そしてすぐにかつての往来の道があり集落に到着

祠がある
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そして石垣が現れ
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竹ヶ峯の耕作地跡だ
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民家の跡
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地図には3軒の民家の記載があったが、現地では4軒確認できた

と言ってもかなり古い民家跡も入れてだが
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ガラスの破片が落ちている

ここがくろもじさんの言っていたガラスの入った二階建ての家なのだろうか・・・
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屋根の板金
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トタン葺きの屋根だったようだ
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ヤカンが落ちている
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民家跡3件目
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風呂釜
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当時は石垣で綺麗に区画された見晴らしの良い集落だったに違いない
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その先には
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まだ民家が現存している
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立派な家だ
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お風呂は風呂釜のみになってしまっている
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もしかして植林に囲まれる事により逆に雨風を凌ぐ事になり損傷を軽減されているのだろうか
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二階に上がれるようだ
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二階
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集落の最後は電気のある時代だったようだ

ここの夜の明かりは天ノ郷からも見えていただろうし、ここからも天ノ郷の明かりが見えていたのではないだろうか
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電柱を切った跡
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炊飯器なんかより巻きで炊くご飯のほうが断然旨かった事だろう
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尿瓶がおちている

しかしこれは現代の病人のネガティブなイメージのあるものではなく
ただ単に、特に冬場なんか夜中に外のトイレなんて寒すぎて尿瓶で済ましていたという事に違いない。

現代の老人と比べて、当時の山に住んでいた老人は数段以上逞しいですから!!!
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柿の木
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せっかくなので竹ヶ峯の上に登ってみよう

きっと植林の先に原生林があるはずだ
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別役小学校に広い運動場はなかったが

この大自然は街中の立派な校舎のある小学校にあるどこの運動場よりも素晴らしい天然の運動場だった事だろう

そしてここで学べる事は、街中にある学校の運動場の比ではない。
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今日はここまでにしよう
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中ノ川の緩やかな等高線に広がる水源の豊かな耕作地跡に比べ、この竹ヶ峯は決して条件の良い場所ではない

僅か数十年で下の集落との道が消滅してしまう程等高線の厳しい場所の上にあるし、耕作地の水の確保も簡単ではなかったはずだ。

また標高は天ノ郷より若干低いが、天ノ郷で江戸時代から数回稲作が試されたが全て冷害のために失敗に終わったそうだから、この竹ヶ峯も決して恵まれた環境だった訳ではなかっただろう。

この竹ヶ峯、そしてその南に見えていたであろう天ノ郷
それでも昭和の時代の電気のある時代を迎える事が出来たのは、それだけここに住んでいた人々が逞しく、この場所で生活していくための多くの知恵を持っていたという事だろう。

伊尾木川沿いには平家の落人の話があるが、厳しい環境でありながらお互いの場所が確認し合える場所に存在する竹ヶ峯と天ノ郷。

きっと大いに関係のある話に違いない!!!

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安芸の別役小中学校跡は既に訪問済みである。


しかしそこは戦後に移転してきた場所で、明治33年に開校された場所ではない。


最初はそこより北の竹ヶ峯にあったそうだ。
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くろもじさんにいろいろと教えてもらったので、その更に昔の小学校跡地を探しに行こう!!

別役橋を渡りまずは別役小中学校跡地に向かう。

昔はここに2階建ての家が建っていたそうだ。
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久しぶりに来た別役小中学校跡地

その後もいろいろと活用されているようで、まだまだ現役の場所に見える。
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その奥に学校の開校記念碑がある
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裏には昭和24年の文字が刻まれている。

という事は移転してきたのは昭和27年ではなく昭和24年という事になる。
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竹ヶ峯の四又路に向かう

ここは地理院地図にも記載されている1~2mの道で当時はこの規格の道が更に昔の学校前を通り土居方面に繋がっていたようだ
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そしてトンネルの上

下の小屋から登れば実はここが四又路という事が分かる
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かつては自転車も走れる道だったようだが、等高線が厳しいだけでなく植林の影響も大きいだろう、、、歩くのがやっとの場所さえある。
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かつての幹線道路の面影
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そして左手に石垣があり
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しかしここはどう見ても民家跡だ。
最初はここが学校跡地とも思っていたが、地理院地図の場所とも開きがあり過ぎる。

1/50000の地理院地図にその場所のそこまでの正確性を期待している訳ではないが、学校跡地の雰囲気が全く感じられないし、何よりくろもじさんの言っていた、最初はそこから新しい学校が見えていたという条件が当てはまりそうにない・・
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とは言いつつ、もしかしてここかもね・・・・なんて思いながら先に進む・・
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そしてその先の耕作地跡

前回引き返した場所だ
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更に進むと上に民家跡がある
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そして自転車がある。

此処まで歩いてきた道は当時は自転車で走れる道だったのだ
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学校までは5分ぐらいだったかも・・・
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携帯電話を使う現代人に「これ」は作れるのだろうか・・
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民家跡

建築基準法が出来る前の造りだ
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というかこの場所での昔ながらの家の建て方だったのかもしれない
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安芸の山間部で冬は平野部と比べ一段と寒さの厳しい場所で現在の住宅に比べ隙間だらけの構造ではあるが、炭火はさぞかし暖かかった事だろう!!!

仮に電気が来ていてファンヒーターがあったとしてもそんなものは役に立たない。
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段々畑が広がる。

更にこの上にももう一軒民家跡があったようだ。

行けていけばもう少し分かる事があったかもしれない・・・
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その先の耕作地は植林になっている
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ワイヤーがある

索道があって、生活物資を引き上げていたのだろう。
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更に進む

そして丁度 地理院地図の学校の記号がある場所付近に耕作地跡が広がっていて
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その一番上の段が下の耕作地の石垣より大きな石を使った石垣になっていて
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民家跡かもしれないが学校の石垣にも見える石段がある

くろもじさんの話では学校そのものが12~16帖程の小さな建物だったそうなので、建物の大きさで判断するのは難しそうだ。
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しかし、ここが明治33年に開校した別役小学校跡地だと思う。

まず最初の理由が、ここが地理院地図に記載された学校の場所であるという事。

そして昭和24年に学校が移転した理由は、この場所では中学校併設は無理だし、運動場も作れないから。

そして最大の理由が、その後の移転後の小学校の校舎の使われ方だ。

当時は伊尾木林用軌道が稼働し林業が盛んだった頃。
他の学校跡地でも多く見てきたが、学校跡地は必ずと言っていい程地域の施設として活用される。
そしてこの場合はお約束の林業関係だ。

その雰囲気がこの場所には残っている。

移転した後の校舎はその後も営林署関係の建物として利用され、林業の衰退と共に人が去り、やがて自然の中に溶け込んでいったのだろう。
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「ここ以外にはなかな考えられない」という少々乱暴な根拠もあるが・・・
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当然小学校に風呂は無いから風呂釜はその後営林署が設置したという事になるだろう。

全景
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別役小学校跡地(明治33年開校・昭和24年移転)
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またこの場所であればくろもじさんの言っていた「最初は新しい学校が見えた」という条件も満たせる。

その先に進む。

この先にも民家跡があるはずだ。


そして電柱が横たわっていた。
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その下には
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木造平屋建て切り妻トタン葺き屋根の民家跡
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正面
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お風呂
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五右衛門風呂から現在のユニットバスが開発される段階の途中に存在した「試作型」の一つだ。
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家電製品があるが型式、年代を特定できるものは無かった
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テレビも不明
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ポストがあるが、それは赤く塗装された金属でしかない

手持ちの住宅地図から分かる事は、ここが195番地という事だけ。
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耕作地跡に広がる民家跡の裏に横たわる電柱

それはこの地域の最後の民家への電気の供給が停止され、この集落への送電が完全に終了したという事だ。


ここで移転前の別役小学校も場所を聞く事が出来ていれば確実で更にいろいろと詳し話を聞かせて頂く事が出来たはずなのだが・・・・・

来るのが相当遅すぎたようだ・・・・・・



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くくばはし

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大井にあった大井小学校小学校の閉校は昭和50年

かつては病院すらあった集落だ。

地理院地図・昭和11年発行
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林用軌道が稼働していた時期は大井の長い歴史の中の最盛期だった事だろう。


そんな大井にはドライブインもあった。
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「ドライブハウス・清流」

昭和50年代の住宅地図に記載されている。


いつ閉店したかは分からないが、うみおさんによると、まだ建物は残っていて、メニューの塩ラーメンなんかはインスタントだったそうだ!!!



久しぶりに大井に来てみた!!

どうやらこれがドライブイン跡のようだ!!
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大井集落遠景
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大井の林用軌道跡は集落の中を走っている
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伊尾木ダム以北の道は林用軌道跡を車道に転用しているが、伊尾木ダムまでは伊尾木ダムを造るために造られた道路である。
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林用軌道が稼働していた時期はさぞかし賑わっていた事だろう
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これが「ドライブハウス・清流」跡
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西側を見ると個人住宅としては規模の大きい設備がある
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トイレという事だ!!
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出入口
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窓のカーテンは閉められているが
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少し中が見えそうだ
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おおおおお!!当時のままだ!!
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ここでインスタントの塩ラーメンが食えたのか!!
カレーはボンカレーだったに違いない!!!

でも一味違う旨さだったに違いない!!!
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当時は駒瀬隧道を抜けて徳島に行く人も多かった事だろう!!
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そして当時はこの場所自体が高知市内からは3時間以上かかる遠い場所だった事だろう!!





竹ヶ峯に向かう!!!

目的は竹ヶ峯の集落跡と別役小中学校の移転前の跡地探しだ!!



そして訃報である・・・

なんと古井簡易郵便局横の自動販売機が無くなっているのである・・

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写真は販売機があった頃の写真

伊尾木林用軌道跡調査時にここで飲むホットのブラックコーヒーを毎回楽しみにしていたのだが・・・・


これにより伊尾木川沿いには入河内以北自動販売機が無い状態になってしまった!!

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