高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2016年10月

小学校の教科書なんて滅多に見る機会はないと思いますが、子供達の未来を守るという意味においてでも、大人、特に父兄、保護者の方はしっかりとその内容を監視すべきです。
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え?? 戦前の小学校が「男女別学」だったって??

嘘をつくな、嘘を。

現在の小学校は、1クラス30人前後の編成で、大きな地方自治体の、大きな市町村立の学校ですが、戦前の小学校は、昭和、平成の市町村の大合併以前の小さな地方自治体の小学校でした。
運営はその授業料で行われていて、校舎もその校下民が協力して建築するケースもあった程です。

そして、現在のように都市部に人口が集中している街の巨大な小学校より、山間部、海岸線沿いの漁村にある小さな町や村にある50~70人前後(地域差あり)の児童数の小学校が圧倒的に多かった訳です。
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え・・・??じゃあ、一緒に登校してきた児童が、同じ校門から学校に入り別々の教室に入っていったという事なのか??

1クラスだけの単級学校とか、1~3年、4~6年の複式学級の学校が殆どだった時代なのに一体何を言っているのだ、最近の教科書出版会社は・・・!!

大体、明治23年頃は、日本全国の小学校数は約2万6千校。
それに対して教員数は6万2千人程。
無理やん・・・・男女別学て。
それに教室の数も全く足りない・・・!!
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確かに都市部の巨大な小学校では男子と女子の教室が別々だったという話も聞くが、それはあくまでも特定の都市部での話で、それ以外の地域では普通に男女共学でした。

実際に私も、高知県下の小学校跡地を回ってきて、終戦前後に小学校、尋常高等小学校を卒業された地元の方、もしくはそれ以上の年配の方の話も聞いていますが、皆様男女共学だったと言われていますし、中には児童が増えすぎて教室に入れ切れず廊下に出てまで授業を受けていた時代もあったという話さえも聞いています。

そしてそれは、当たり前の話過ぎて、いちいち「男女共学でしたか??」と確認しながらの話ではなく、会話そのものが、男女が仲良く同じ教室で勉強していたという前提の話であったという事でもあります。

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とにかく、あまりにも現状との乖離が激し過ぎるので教科書出版会社に問い合わせてみた。

そして、出版会社も何やらよく分かってらっしゃらないご様子で・・・

ようやく、編集部から明治23年の「学級編成に関する規則」で、日本の小学校は男女別学になったとの回答。

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で、とりあえずその「学級編成に関する規則」をネットで調べてみる事に。

怪しい、怪しい、怪し過ぎる、、、教科書出版会社はこんなガセネタ掴まされて、日本に小学生に嘘の情報を発信しているのか・・・

しかも「儒教の影響」て、それ朝鮮じゃん、朝鮮wwwwww

(そして後日調べた「学制50年史」の中には出てこない「男女別学」とい文字さえある。
つまり【捏造】なのである。そして【捏造】と言えば・・・・wwww)

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だとすると、その明治23年の「学級編成に関する規則」とは一体どのような内容なのか???

大正10年文部省発行の「学制50年史」で調べてみた。

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ここが明治23年の「学級編成に関する規則」の部分です。
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(赤ペは私ではありません・・・)

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内容を簡単に書きますと。

●一学級の学校を単級学校、二学級以上の学校を多級学校とする。
(まあ、この時点で男女共学という、改めて言うまでもない、いちいち表現するのも面倒くさい、大前提がある訳です。)
●二学級以上に編成する場合は児童の学力、年齢を考慮する事。
●児童70人未満を一学級とし正科正教員一人。
●70人以上140人未満は二学級とし、正科正教員一人、本科准教員一人。
●それでも、70人以上100人未満の場合は一学級でも可。
●140人を超える場合は、一学級50人から70人未満で学級編成可能。

そして
●同学年の女児の数が一学級を組織するに足りる時は当学年の男女を分かつべきものとした。(1,2年を省く)

まあ私の推測ですが、もしかして↑↑↑の部分を誰かが間違って男女別学と解釈してしまったのかもしれませんが、それはかなり悪意のある間違いですね。

また、当時は女子児童には男子児童にはない『裁縫』という授業がありましたので、人数が多い特定の都市部の小学校の場合はあらかじめ男女のクラスを分けていたのかもしれません。

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というか、男女同じ学校に通っていた時点で「男女共学」だろ!!!!ww


ていうか、男女別々の教室で勉強していたとしても、同じ校舎で勉強している訳だから「男女共学」だろう!!!www


つーーか、そもそも日本語が成立していないだろう!!!wwwww



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でまた、、別の教科書では、こんな内容になっていたりする訳ですし!!!

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あらららららら~~、男女仲良く共学してるじゃないですか!!www
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まあとにかく、、、

日本の歴史以前に、日本の文化、伝統、風習を全くご理解されていない何やら素晴らしい肩書をお持ちの先生方が、日本の小学校の教科書の作成に関与されているようですね!!!

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清王から321号線の上を跨ぐ道に入り春遠に向かう。

地図では主要道路に見えても、実際は幅が狭く少し暗い曲がりくねった山道。

やがて土地が開けてきて春遠に到着。
小学校らしき建物がある。
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地域の老人ホームとして賑わっているが
ここが春遠小学校跡だ。
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春遠小学校の開設は不明だが、明治24年には春遠簡易小学校の記録があるとの事。
(大月町史)

平成3年に休校になり、姫ノ井小学校に統合された。

校舎は昭和62年に落成したのもで、その4年後に閉校、統合。
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この写真は昭和62年以前の校舎の写真だろうか??

いずれにせよ、小学校の校舎を老人ホームに改築したということになる。
入居者は地元の方、それも春遠小学校の卒業生なのだから、心境は複雑だろう!

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それにしても賑わっている。
児童、生徒の姿がないだけで、なにやら賑わっている。
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春遠の繁華街、野村商店前
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かつては春遠の児童、生徒で賑わっていたであろう場所。
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郵便局は稼働中
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321号への新しい道が完成し、当時は近代的に見えていた清王の立体交差も、もはや薄暗く、狭く、曲がりくねった昔の山道への入り口になってしまっている。

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姫ノ井小学校は月灘中学校のトンネルを北に抜けるとすぐ見えてくる。
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姫ノ井小学校
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校門
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開校100年の記念碑
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裏には学校の歴史が刻まれている
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が、「大月町史」によると、この姫ノ井小学校の歴史は明治6年の私立学校「姫ノ井学舎」の開設にまで遡れる。
そしてそれは日本という国家が、組織的に国民に教育を施す「校舎」のある「学校」という概念の範囲においてでの話で、「教育」という概念においては、もっともっと、ずっとずっと昔に遡れる事になる。


屋内運動場には照明がついている
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校庭
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平成21年に大月町の11校あった小学校は、大月小学校の1校に統合された。

いやでも、柏島方面、月灘方面にそれぞれ1校ずつ存続させておいても良かったのではないか??なんて思ったりもするのだが・・・
だって、小学校がない地域に、これからの子育て世代の若い夫婦は積極的に住もうとしないだろうし。
過疎化が進み学校が休校、廃校になるのは分かるが、休校、廃校がさらなる過疎化、そして最終的に廃村への道を決定的なものにするという事も考えなくてはいけないと思う。
勿論それを十分に承知の上での統合だったはずなのだが!!!

明治23年、日本には約2万6千校の小学校があり、6万2千人程の教員がいたそうだ。
現在、平成28年。日本には約2万校の小学校があり、約40万人の教員がいるそうだ。

時代背景が全く違うから一概には言えないが、考えさせられる数字である。

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樫西小学校から樫ノ浦を過ぎ、海岸線沿いを走り周防形小学校に向かう。

その区間はもう完全に「観光」だ!!!!

漁港に着いた。
土佐清水の大津小学校も小才角小学校も集落の奥にあったので、ここでも同じような場所に向かってみる。

到着
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その下には「尋常小学校」時代の文字があるはずだ。
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昭和12年
「支那事変」の始まった年だ。
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校舎は平成3年に建てられたもの
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ここにも閉校の石碑がある
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下には「校歌」が刻まれている
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裏には学校の歴史
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平成21年、周防形小学校は大月小学校に統合されるが
同じ年に、中央小学校、樫西小学校、月灘小学校、姫ノ井小学校、柏島小学校、一切小学校、橘浦小学校、弘見小学校、安満地小学校(平成20年)、も大月小学校に統合され、大月町に11校あった小学校が、一気に1校のみになってしまった。

校庭
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計画的に植えられた桜の木は日本の小学校の特徴であり、日本の象徴かな・・!!

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321号線から樫西海岸に向かう!!

学校だ!!!
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樫西小学校だ!!!
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校門
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校舎
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閉校の碑
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その裏には学校の歴史が刻まれている
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石碑には明治8年公立小学校開設とあるが、
「大月町史」には、明治6年「樫浦学舎」という私立学校から始まったという記載がある。
そしてそれはここだけではなく、お隣の姫ノ井では「姫ノ井学舎」、小才角では「小才角学舎」と、同じく明治6年に私立学校が開設され、後の公立学校に繋がっている。
当時から既にこの地域に教育の基盤がしっかりと成り立っていて、その土壌の上に公立小学校が創立されたという事だろう。
そしてその教育の基盤というものは、江戸、もしくはそれ以前の時代にまで遡れそうだ!!

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渡り廊下
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全景
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道路を挟んで保育所がある
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樫ノ浦の集落
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と、樫ノ浦の漁港
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と、美しい海岸線沿い
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と、、、これ以降は現地で・・・・(笑)

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学校の歴史
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平成13年  大月中学校に統合

大月側から月灘方面に向かうと全く分からなかったが、反対側に戻るとトンネルの手前の巨大な校舎が見えてくる。

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月灘中学校
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まさか大月町でこれだけの規模の校舎を見るとは思ってもいなかった・・・
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自分達が「体育館」と呼ぶ建物は、この界隈では「屋内運動場」と呼ぶらしい!!
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今となっては児童、生徒の影さえ見当たらないこの界隈だが、
そう遠くない「昭和」の時代、この場所から「月灘中学校御一行様」と書かれた数台の大きな観光バスが出発し、日本各地に修学旅行に行っていたようだ!!!

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学校の歴史

明治 8年 才角小学校設立
昭和 4年 校舎全焼 神社等を仮校舎として授業
昭和11年 新校舎新築落成
昭和32年 町村合併 月灘村立から大月町立へ
昭和49年 現校舎完成
昭和60年 屋内運動場完成
平成20年 大月小学校に統合

この321号線沿いには沢山の小学校がある。
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が、そのほとんどの校庭にはこのような石碑がある。
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石碑の裏側には学校の歴史が刻まれている!
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これは開校80周年を記念したもの。
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学校前のバス停は、現在の稼働している「月灘」郵便局前になっているが・・・
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その裏側は、
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川を渡って、小学校に行く児童専用の橋には
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明治 6年 「小才角学舎」私立小学校として開校
平成 2年  現校舎落成
平成13年  姫ノ井小学校に統合

入り江があり、漁港があり、集落があり、神社があり、小学校があり、そんな歴史が100年以上続き、いやそれ以前からずーと、ずーと続いてきていた訳だったのが平成に入って遂にその形が完全に崩れてしまった・・・・


学校は集落の北側にある。
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石碑  開校100周年記念
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その裏側
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校舎は平成2年に建てられたもの
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校庭
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学校跡地訪問を始めて1年4か月。
まさかこの規模、こんな状態の木造平屋建て瓦葺校舎(昭和27年築)
が現存しているとは思っていなかった!!!!
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地図にある、航空写真にある学校跡地らしき場所に向かう。

そしてやはりそこは芳の沢小学校だった。
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しっかりと築き上げらた石垣の上に学校は建てられている。
校門の右側の門柱には
「芳の沢小学校」の表札がある
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巨大な「この木なんの木、気になる木」と昭和27年に建てられた木造平屋建て瓦葺校舎。
歴史を感じる壮大な風景だと思う!!!

いやまあ、地元の方には自分の卒業した小学校の校舎が廃校になって30年以上経っても現存しているという普通の風景かもしれないが、部外者にはそうではない!!
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室戸の長者野小学校、吾北村の清水第二小学校のように、敷地の限られた山間部の学校とはまた趣が異なっている。
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講堂
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学校の石碑  開校100年を記念するもの!!
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その裏には学校の歴史が刻まれている
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明治10年 開校
昭和58年 弘見小学校に統合

そして扉が開いていて中に入れる。
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玄関のわりには、そう広くない。靴箱のスペースがなく土間だ。
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やくそく
1.「はい」というへんじをわすれない。
2.さいごまで、はっきりいう。
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そして、初めて見る光景。
教室前まで土間が続いており、上り框に靴を脱いで廊下に上がり、それぞれの教室に入る構造だ!!!

入って東向き
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西向き
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東の端から西側
こんなに長い木造平屋建て校舎の廊下は初めてだ。
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西の端から東
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この校舎の間取りを簡単に書いてみた
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西から
家庭科室
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一学級
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格子窓からの景色も美しい
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これは映画の撮影ではない!!
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二学級
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正面玄関を挟み、職員室
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職員室にある表彰状の日付はいずれも昭和40年代、30年代
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時間表
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調理室

もしかしてここで給食を作っていたのかも・・・
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図書室
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書籍を保護するためにカーテンがあったのだと思うが、そのカーテンも紫外線と、何よりも、その年数の蓄積によってこんな状態になっている
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格子窓はいつ見ても絵になる
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理科室
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音楽室
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オルガン
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音楽室の格子窓
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講堂へ向かう

開口部に向けて土間を広げている
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みんなの大好きな「渡り廊下」
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そこにトイレがある
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講堂の中
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自分が鉄筋コンクリート3階建ての小学校に通っていた時代に、この木造平屋建て瓦葺校舎に通っていた同世代の児童がいたとは、なんかちょとこの芳の沢小学校の児童が羨ましい気もする・・・・!!!

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それにしても巨大な「この木なんの木、気になる木」だ!!!
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この木は、昭和40年代の航空写真でも確認できる大きさなのだ。
ましてや、その後成長し、現在の航空写真となれば尚更の話。

昭和40年代の航空写真
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現在
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撮影の季節が違っているという事もあるだろうが、大して耕作地の面積が減っているという訳ではないが、西側のほうは確実に耕作地が自然に還ろうとしている。

また今度来てみよう。
321号線のあそこを曲がり、あの交差点を右折し、あそこで左折してすぐに右手に見えてくる、この芳の沢小学校にまた来てみよう!!!

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地理院地図の学校の記号がある付近の道路脇
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坂を登ると茂みの向こうに学校跡があった。
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中央中学校
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廃校から15年。
もはやここを訪ねてくる人も限られているのか・・・・
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学校の石碑さえ樹木に隠れている状態
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開校50周年の記念碑
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平成9年までに1887名の卒業生を送り出した。
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そして平成13年 月灘中学校、柏島中学校、橘浦中学校、弘見中学校と共に大月中学校に統合


グラウンドも荒れ放題

廃校後も地域の子供達のスポーツの練習、試合、その他の行事等で賑わう学校の校庭をいくつも見てきたので尚更感じる。
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平成5年度の大月町の学校の児童、生徒数
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平成9年で1887名の卒業生だから、廃校までに1900名強の卒業生を送り出した事になりそうだ!!!

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