高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2016年08月

イメージ 1


吾北村は昭和31年、小川(こがわ)村・清水(きよみず)村・上八川村・下八川村が合併して発足。
平成16年(2004年)、土佐郡本川村、吾川郡伊野町と合併し、吾川郡いの町が発足。

合併前の2000年度の人口は3358人

・学校統合の流れ。
イメージ 2

児童数・生徒数の推移
イメージ 4


イメージ 5


イメージ 6

昭和43年には1200名を超す児童生徒がいた!!

それが現在では1/10程になってしまっている。





こんな美しい木造校舎も現存しています!!!
イメージ 3

清水第一小学校
清水第二小学校
三水小学校
上西小学校
上東小学校
中央小学校
上八川小学校
東谷小学校
西谷小学校
柳野小学校
小川小学校
下八川小学校
津賀才小学校

番外編・日比原

高知県ランキング

イメージ 1

平成23年吾北小学へ統合

とはいえ、現在休校中のこの小学校
となりには中学校があり生徒の元気な声が聞こえてくる。
イメージ 2

突然児童が表れてきても全くおかしくない雰囲気
イメージ 3

また開校にならないかなぁ~と!!!
イメージ 4


イメージ 5

イメージ 6

隣には高校もあるし!!
イメージ 7

高知県ランキング

イメージ 1


昭和47年下八川小学校に統合



地元の方に話を聞くと「マンションの場所に学校があった!」との事。
イメージ 2

いろいろと山道を走ったが、ここだったのか!!!!!!!
イメージ 3

在りし日の津賀才小学校
イメージ 7


(いの町史より)
イメージ 8



石碑もある
イメージ 4

さすがに地元の人に、これは撤去出来ないだろう!!!
イメージ 5

学校横の商店
私が小学校に入る前、そう丁度この小学校が統合される頃、ファンタを飲んで、子供心に超美味しい!!!思った事をはっきりと覚えていいる。
イメージ 6

高知県ランキング

イメージ 1
・大川村
昭和52年(1977年)早明浦ダムの完成により村役場を含め、村の大部分が水没。
ピーク時4000人いた人口は白滝鉱山の閉鎖、ダムの完成による集落の水没などで、約500人にまで落ち込んだ。平成17年、日本の離島以外の市町村で最も人口の少ない村となった。

・人口の推移
イメージ 2
平成28年6月1日 386人        (以上ウイキより)

大北川分校
白滝小中学校
川口小中学校
大藪小学校
船戸小学校

番外編・17号線の旧道

高知県ランキング

イメージ 1

・土佐町
昭和30年(1955年)地蔵寺村、森村、田井村が合併し土佐村となる。
昭和36年(1961年)大河内地区などが土佐村に編入合併する。
昭和45年(1970年)町制施工され土佐町となる。

・人口の推移など。
イメージ 2
平成28年6月1日の人口は3980人。
大豊町は半世紀で人口が1/3になったが、土佐町は1/2で、大豊より人口が多い状況になっている。


溜井小学校
松ヶ丘小学校
相川小学校
地蔵寺小学校
平石小学校
能地小学校
和田小学校
南川小学校
田井小学校
田井中学校
石原小学校
瀬戸小学校
森小学校
伊勢川小学校
西部小学校

番外編・能地 翠ヶ滝

高知県ランキング

イメージ 1
・大豊町
昭和30年(1955年)3月31日、東豊永村、西豊永村、大杉村、天坪村が合併し大豊村が発足。大杉の「大」と豊永の「豊」をとって「大豊」と名付けられる。

昭和31年(1956年)、9月1日、天坪村の一部が土佐山田町(現・香美市)に編入される。

昭和47年(1972年)4月1日、町制が施工され大豊町となる。

平成21年 大豊中学校と大杉中学校を統合し大豊町中学校を大杉中学校の位置に新設。

平成25年(2013年)大杉小学校、大田口小学校、大豊小学校を統合し「おおとよ小学校」が開校。


・人口の推移
イメージ 2

平成28年6月1日の人口は3826人。
この半世紀ほどで人口が1/3以下になっている。
平成21年(2009年)四国地方で唯一65歳以上比率が50%を超える。
         以上{ウイキ}大豊町より。

大杉小学校

久寿軒小学校

天坪小学校

佐賀山分校

豊永小学校

西豊永小学校

奥大田分校

大田口小学校

大砂子小学校

岩原小学校

穴内小学校

東豊永小学校


仁尾ヶ内分校

立川小学校

川口小学校

西峯小中学校




高知県ランキング


土佐山村は明治22年(1889年)町村制施行に伴い、土佐郡①土佐山村②高川村③桑尾村④弘瀬村⑤東川村⑥中切村⑦梶谷村⑧西川村⑨菖蒲村⑩都網村が合併、土佐山村が成立。

イメージ 1
【土佐山地域まちづくり構想より転載】

都網村以外は土佐山村になる以前からその村の名を冠する小学校があったようだ。


平成17年(2005年)1月1日、鏡村と共に高知市へ編入合併

・人口の推移
1873年3890人、1955年2508人、1960年2285人
1975年頃1500人台、2005年1227人、2010年1083人

イメージ 2

桑尾小学校・土佐山東小学校・土佐山小学校

西川小学校

土佐山西小学校・土佐山中学校

弘瀬小学校

中切小学校

高知県ランキング

イメージ 1

土佐山村の学校統合の流れ
菖蒲小学校と明治初期の土佐山小学校が「土佐山村史」にも出てこない。
イメージ 2


学校の歴史
桑尾小学校

明治11年 桑尾尋常小学校創立
      土佐山村字桑尾13番地
昭和 4年 電灯設備ができる
昭和42年 完全給食開始・運動場外周金網完成

土佐山東小学校
昭和50年 桑尾・西川を名目統合し桑尾13番地に 
      土佐山東小学校

土佐山小学校
昭和54年 土佐山東、土佐山西、を統合し土佐山小学校
昭和56年 旧土佐山中学校跡に鉄筋3階建て校舎が完成
      9月1日プール完成

平成28年 土佐山小学校、土佐山中学校を統合し
      土佐山学舎となる。


桑尾13番地とは、現在の土佐山学舎の場所である
イメージ 3


在りし日の桑尾小学校
イメージ 4

イメージ 5


土佐山東小学校
イメージ 6


バス停
イメージ 7

この場所には明治時代からずっと学校がある!!
これは逆に稀なケースかもしれない。
現存する小学校の中にも、その歴史の中で移転を繰返している学校も多い。
イメージ 8

道路は拡張され、近代化された土木技術が導入されている。
イメージ 9

今年、平成28年、土佐山小学校と土佐山中学校が統合され土佐山学舎となる。
イメージ 10

因みに、土佐山中学校跡から土佐山学舎までの鏡川沿いは、絶好の川遊びスポットだらけ。特に大穴狭はおすすめ!!!


高知県ランキング

イメージ 1

土佐山村学校統合の流れ
イメージ 2

西川小学校の歴史

明治17年 梶谷小学校で西川、梶谷、両尋常小学校の開業式を行う。
明治20年 4月、菖蒲、西川、梶谷の合併案
      12月、三校舎を取り壊し、それを利用して西川字須和崎に西川尋常小学校設立
明治41年 4月、小学校令改正に伴い義務教育が6年制となる。
      卒業生が第5年生に進級したため、単級を二学級に編成
明治42年 校舎落成、総工費3835円
      校下、菖蒲57戸、西川34戸、梶谷22戸
      人口557人 不就学児童なし
大正11年 学校柵完成
昭和 4年 電灯設備できる
昭和50年 桑尾・西川を名目統合し、桑尾13番地に土佐山東小学校


全景
イメージ 3

石碑がある
イメージ 4

石碑の歴史は明治20年から
イメージ 5

校庭
イメージ 6

奥に橋がある
イメージ 7

すわさき橋
イメージ 8

昭和39年
イメージ 9

ここの地名のついた名前の橋だから、当時はこの橋がメインだったのかもしれない。

バス停は「西川」、学校前ではないのが少し寂しい。
イメージ 10

在りし日の西川小学校

イメージ 11

鏡村の小学校のように、僻地集会所などはなかったようだ。

高知県ランキング

イメージ 1

土佐山村学校統合の流れ
イメージ 2

学校の歴史

昭和40年 9月1日、中切小学校と弘瀬小学校が名目統合し土佐山西小学校開設
昭和41年 5月3日、奈路405番地に鉄筋コンクリート二階建ての校舎完成
昭和42年 鏡、土佐山二村学校給食センターを設立。
      給食センターで共同調理方式により両村小学校の完全給食実施。
昭和51年 9月1日、すみれ寮を廃止してスクールバス通学
      9月12日、台風12号で床上68cm浸水
昭和54年 土佐山西小学校、土佐山東小学校を統合し土佐山小学校となる。

・土佐山中学校は昭和22年5月1日、桑尾小学校に設置
・土佐山小学校の新校舎は土佐山中学校跡に昭和56年鉄筋3階建てを建設


土佐山西小学校の奈路405番地は平成28年に廃校になった土佐山中学校
イメージ 3

全景
イメージ 4

昭和51年の台風12号で床上浸水したそうだ
イメージ 5

土佐山西小学校として完成した校舎は昭和54年から土佐山中学校となり、
小学校は東小学校と統合し、土佐山小学校となる。
イメージ 6

当時の写真
イメージ 7

で、
なんなんだ
イメージ 8

これは??
ハングルは必要ないだろう!!
イメージ 9

土佐山村には朝鮮人が潜んでいるのか??

放火と防火が同じ表記のハングルは日本に不要
イメージ 10

因みに日韓併合で、日本が朝鮮人にハングルを禁止したというのは大嘘。

学校の無かった朝鮮半島に日本人は、朝鮮人のために朝鮮語で朝鮮人に教育をする普通学校を開設した。
そして、日本語は必須科目だった。
教科書は朝鮮総督府が監修

また朝鮮半島の日本人のために、日本と同じ小学校も開設された。
それは日本人のために日本語で教育をする学校で、普通学校で日本語が必須科目だった事と同じ理由で、ハングルが必須だった。
こちらの教科書は日本の文部省が監修

そして、地理的な理由で、普通学校に通う日本人もいたし
小学校に通う朝鮮人もいた。


そう・・・日韓併合前の朝鮮には学校が無かったのだ。
学校が無かったという事は、教育が無かったという事。
というか教育という概念すら無かったのだ。

教育が無かったという事は、識字率も極めて低かった訳で、文字を学んで医学を学び、医者になろうとする者、いや、その発想さえ存在していなかったのだ。

だから医学が存在しないから病気という概念、症状に対する病名さえなかったのです。

実際に併合前の朝鮮に病院はありませんでした。

正確に言うと病院そのものは存在していましたが、それは外国人が朝鮮半島の自国民のために建てた病院で、朝鮮人のための病院はありませんでした。

だって、病気という概念さえなかったのですから。
必要ないでしょう。

そして日韓併合の5年前、日露戦争に勝利した日本軍がソウルに駐留した際、その世界最強のロシア軍を打ち破ったその日本軍の前に立ちはだかり、日本軍を恐怖のどん底に陥れた集団がいました。

病気という概念を持たない朝鮮民族の売春婦たちです。
性病まみれの、風呂に入る習慣のない売春婦たちです。

そんな不潔な売春婦たちを、いや関われば命の危険さえ脅かされる売春婦たちを日本人が強制連行する訳ないでしょ。



高知県ランキング

↑このページのトップヘ