高知の廃校になったあの小中学校は今!!

大月町・芳ノ沢小学校の校舎(昭和58年廃校・昭和27年築)

2016年01月

歴史
明治 7年 設立
昭和31年 西分、馬ノ上小学校と合併し芸西小学校となる

昔は芸西村のこの地区の目と鼻の先程の距離に小学校が3つもあったそうだ。
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石碑が残っている
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和食小学校の跡地に芸西小学校が建築され、昭和50年に現在の場所に移転したそうだ。
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そしてその場所に当時の小学校の面影を残した建物がある
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設立時に土地を提供し、廃校後はその土地の所有者が利用しているというパターンだろうか!!
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今では想像が付きませんが、当初は、お寺や民家を利用した小学校がかなり多かったそうですし!!

1910年の和食小学校(芸西村の資料より)
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歴史 
創立時期未詳
明治20年以前、簡易小学校として発足
明治29年 和食小学校白髪分校(その後、芸西小学校白髪分校)
昭和46年8月31日 白髪部落総移住に伴い廃校
   (芸西村史より)
住人全員が小松さん、という歴史の長い集落だったそうだ。

国道から入りここを右に
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しばらく本格的な山道を進む。

もうすぐだ。
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舗装が僅かに残っている

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そして左に
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少し上り坂
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の先に
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竹藪があって
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分校跡地がある
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実は最初は跡地だと分からず、その先を探していたが、集落も終わり、もう一度この場所を確認してみたら・・
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ここがそうだった!!!!
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濡れない場所に移動させた。
和食小学校とあるから、芸西小学校になる前の古いものだろうか。
だとすると60年以上前の表札になるのだが・・・
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校舎の中はかなり荒れている。
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ここで給食を作っていたようだ!!
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隣の教員宿舎らしき建物もほぼ崩壊している
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トイレの跡
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奥にも建物があり完全に崩壊、基礎だけが残っている
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フェンスが
イメージ 18校庭のフェンスの跡
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ドッジボールが出来そうな大きさの運動場だったと感じる
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鉄棒を探してみたけど、発見出来なかった。
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校庭の南側の出入り口
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白髪の集落の民家跡
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校舎跡は近い将来、完全に崩壊しそうだが、この民家跡はまだまだその形を留めていきそうだ。
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ヤッシーパークを北上していくと、国光分校跡がある。
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現在は集会所になっている。
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大きな石碑がある。
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歴史
明治 5年 国光小学校として開設
明治25年 国光分教場となる
昭和47年 夜須小学校へ統合 100年の歴史を閉じる
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南側にはフェンスの跡が残っている。
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北側からの跡地
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ありし日の国光分校
緑の屋根の倉庫は当時からのもののようだ。
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道路反対側にも学校の校舎っぽい作りの建物があるのが気になる・・!!
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跡地にあった国旗掲揚台
舞川には日清日露の戦役碑があった。見落としていただけで、国旗掲揚台もあったと思う。
撫川にも愛国の塔と国旗掲揚台があった。
仲木屋にも日露戦役碑がと国旗掲揚台があった。
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戦前の学校は、当たり前のように国旗を揚げてようだ。
八ノ谷小学校跡地では、地元の方が学校は8時の教育勅語から始まってたという話を思い出した。

現在は大釜荘になっています。
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学校跡地の石碑
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「夜須風土記」には明治30年の久重小学校の分教場からの歴史となっている。
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が、石碑の裏には、「明治7年、1874年2月、行遠学舎を廃して、第三大学区、第四番中学校区、第144番小学校区、羽尾小学校として設立とある。

そして昭和51年(1976年)夜須小学校に統合。 卒業生573名。
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石碑の周りは
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フェンスがあった頃
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ありし日の羽尾小学校
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上の二枚の写真は
「追憶・わが母校・過疎 廃村写真集 井上正臣」より転載させていただいています。

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そしてその中の資料
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そして平成27年の高知県教育委員会・小中学課の資料
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続き
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ちょっと信じられないが、高知県の現在の小中学校数は昭和46年の半分以下になっているようだ!!

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歴史 
明治41年4月 私立の仲木屋教育所を羽根尋常小学校の分教場とした。
        通学区は沢谷の上文、仲木屋、上倉で児童数十数名
昭和36年4月 廃校 最後は児童一人、先生一人だったそうだ。
                (夜須町史より)

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平成30年10月23日追記

が、実際は当時の新聞によると分校の歴史は明治5年の私塾からと明治29年の公立校としての扱いからとなっている。

また仲木屋の歴史は源平合戦後の平家800年の歴史そのものでもある。

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また「夜須風土記」では
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昭和35年廃止となっている。
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仲木屋小学校跡地周辺の概要。
5つの沢を挟んで、陽当たりの良い場所に6つの地区が確認出来た。
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今回は前回の帰りに見つけた717地点の一つ西の杣道からアプローチ
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すぐに前回行った集落跡に到着
途中に何かあると思っていたが、特に何も無かった。
そして前回の帰り道のさらに先に進む。
そのまま西の集落に着くと思っていたが、道は高度を上げ、上に行く道と下に行く道の分岐点に。
このまま上にに行けば林道に着きそうだし、下に行けば跡地に着きそうだ。
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帰りは、ここから林道に戻ろう。多分すぐそこだ。
そして山道を下に進む。
半世紀前の山道とは思えない雰囲気がある
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到着した。
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国旗掲揚台と石碑がある
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校舎の基礎はこの大きな石
もしかして分校まえの教育所時代からのものだろうか。
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国旗掲揚台
これは撫川小学校跡地にも国光小学校跡地にもある同じ作りのものだ。
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事前にこの日露戦役の石碑が分校跡地の目印との情報をもらっていた。
これと同じく、日清日露の戦役を刻んだ石碑が舞川小学校跡地にもあった。
国旗掲揚台といい石碑といい、この地域の教育は戦前の教育の色が非常に濃いものだったのだろうか。
というより、戦前の教育の形を残したまま、戦後も存続していたという事だろうか。
それとも、殆どの学校で戦後の改築、移転等で戦前のものは次々と破棄されていったのだろうか。
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電気の部品
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学校敷地の下にある風呂釜
この場所からして、民家跡というより教員宿舎跡だと思う。
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学校跡地の下
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お墓
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まるで等高線を描くかのように石垣が築かれている
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西に行ってみる事に
道なりに進み、沢を渡るが、どうやらここも当時からの道で石橋がその後の雨で崩壊したようだ。
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奥にかろうじて人工的に積まれた石積みの跡が残っている。
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電柱と、電柱を切った跡発見!!
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電柱の日付を確認したかったが完全に消えていた
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そしてここにも極めて整然と整備された石垣跡が残っている。
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ここは山奥の集落だが、学校が出来る以前から地域の教育場があり、少人数ながらも極めて高い知識と技術を持った人達が住んでいたのでは!!という印象を受ける。
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民家の基礎跡
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茶碗、もしかしてかなり価値の高いものだったりして・・・
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民家の風呂釜
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さらにその下の段に当時の建物がそのまま
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そして蔵がある
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そして、そこからも西に道が続いている
沢を渡るが、ここも当時からの道の雰囲気が僅かに残っている。
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瓦や食器とかいろんな物が落ちていて、その先に、耕作地があり、ここからアンテナ塔が見える。
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そしてその上の段には民家跡が
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そして送電の部品が
ここも、その集落の長い歴史の最後の数十年、電気のある生活を経て幕を閉じる事になったらしい。
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この先も道は続いている
ここまで来ると、下の羽根まで行ってみたい気もするが・・・

引き返して学校跡地の上の分岐に着く
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そして緩やかな道を登り林道に着く
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林道を挟んで対角線上に「100m下に仲木屋分校跡地の石碑」が見える。

あの場所でも確かに100m下ではあると思うが・・・
もしかして、これって担当の人が、少しだけ間違って50m程西の反対側に設置してしまったとか。
それとも誰かが、ここにあった石碑を、引っこ抜いて、わざわざあっちに埋めたとか・・・


一世紀前、この地から5人の男達が未曽有の国難に立ち向かっていった!!

伊尾木森林鉄道の調査も一段落し、再び学校跡地訪問へ!!

①という事は、つまりまだ到達していないという事である・・・・・・・・


現状はこんな感じのようだ。
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夜須、羽尾小学校仲木屋分校は半世紀以上前に廃校になった学校で、集落自体も同時期に無人になっているようで、林道脇にある跡地の石碑を目印にその下100mの山の中にあるそうだ。
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ヤッシーパークから51号線り羽尾の集落のまだその先の林道入り口
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その先 4キロ程に石碑がある。
舗装があるのは最初だけ。
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ここから下へ100mとあるから、素直に林道の北側を降りる。
鉛筆を持つ手でノートに影が出来ないように黒板は西向き!!の法則からして??と思いながら100m以上歩き、撫川へ続く川沿いもしばらく歩くが、耕作地と、炭焼きの窯跡と、川を渡る小橋の土台数か所しか発見出来なかった。
そして、その反対側(南側)にも降りてみるが、耕作地跡の石垣しか発見できなかった。
全く、何処を起点に、どちらに100m下かが分からない・・・!!

その日は時間もなく、帰って地理院地図を見て次回の作戦を考える事に!!
とりあえず、状況が分かったから、よし!としよう!!
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そして後日

その後に林道が出来、当時の地理院地図と状況が変わっているので、石碑を起点に考えるのではなく、少し先の717地点の尾根から集落を探す事にする。

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そして、717地点から入る!!

この等高線から尾根が歩きやすい事は想像がついていたが、しっかりと杣道があった。
ブルーのテープで目印を付けながら、尾根の東側への道を探す!
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下り過ぎないように気を付けながら、そろそろという感じの地点に道があり、すぐに民家跡があった!!
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まだこんな状態で残っているとは・・・・
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民家の中には当時の生活を偲ばせるこんなものが・・・・
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これは・・・・・・
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この家の玄関の石段!!
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同じ敷地の隣の建物は完全に崩壊している
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立派な石垣の上に、その民家跡はあった
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そして、等高線から分かるように、その西側が広くなっている訳だが、そこは石垣でしっかりと仕切られていた!!
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そこから西に向かうと、石垣、民家跡、耕作地跡があったが、歩くのが大変なほどで、写真を撮っていない・・・

そしてその先にさらに大きな集落跡が
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ここが仲木屋の繁華街かも
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当時は整然と整備された綺麗な集落だったのでと想像出来る!!!
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杜があり、小松さんのお墓があった。
杜はまだ手入れがされているようだ!!
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ここにも民家跡が残っている
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がしかし、漠然と仲木屋の集落跡を発見出来たが、目的の学校跡が見当たらない。
というか、一体何処を、何を根拠に、何を目印に学校跡地を特定すればいいのか、
ここに来て初めて疑問に思ってしまった。
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まあ、この日は安芸でのサッカーの試合の後、現地到着三時半で、ここまで来れたから、よし!としよう。

帰りは、ブルーのテープを辿りながら帰ろうと思っていたが、この集落をさらに西に歩くと、上に林道に辿りつけそうな場所があったので、そこから登って帰る事に。

実際に林道に出るまでは、ドキドキしながらも、結果的には、さらに仲木屋への近道を発見出来たので、これも、よし!としよう!!

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このすぐ下に、仲木屋への道がある!!
下り2分。登り5分ぐらいだろうか!
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石碑から、少しく下りになり、そこから再び717地点に登る坂の手前のこの看板が目印だ
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時間は5時を過ぎ、辺りは暗くなり始めている。
そして、なにやらポケットが騒がしい!!
どうやら携帯が鳴っているらしい!!
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本部からだ!!!
今日は疲れたから、晩飯を買ってこいとの伝令!!!

このペースで帰ると、丁度、野市の半額タイムに間に合う事になる。

夜須の仲木屋のこのヤッシーパークの見渡せる周辺は、携帯の電波も良好らしい!
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高知県安芸市の伊尾木川沿いに、明治43年から昭和40年頃まで存在した森林軌道。
廃線後は、市道に転用されたり、レールを撤去し、地元の生活道として利用されたり、そのままの状態で残っていたりします。

・全体図
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別役と久々場の営林署跡を出発!!
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1.  別役と久々場の営林署
http://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34353485.html
2.  別役橋
3.  影野と周辺集落
3・1.影野の集落から桑ノ木橋へ
3・2.スドウの集落跡 天ノ郷への道
3・3.杉ヶ峯の集落跡
3・4.天ノ郷へ
3・5.天ノ郷
3・6.天ノ郷と竹ヶ峯 新たな支線の可能性と横荒製材所
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4.  島から古井へ
4・1.横荒線 小谷と茗荷の集落跡
4・2.営林署跡と終点付近
5.  伊尾木川ダム
5・1.仙谷線と八ヶ谷襖線
6.  西川線
6・1.西川線 六つの橋
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7.  伊尾木川ダムの営林署跡
8.  トンネルと橋
9.  障子藪へ
10. 障子藪の集落とメガネトンネル
11. 障子藪から大井へ

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12. 大井から黒瀬へ
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13. 西坂本橋
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14. 奈比賀から、あの有名な花の鉄橋へ
15. 小川線 一つ目の隧道
16. 小川線沿いの集落跡
17. 小川線 二つ目の隧道
18. 小川線 営林署跡
19. 小川線の終点??その先の橋
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20.伊尾木へ!!



●伊尾木森林鉄道・当時の写真

花の集落から伊尾木へ向かう!!
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軌道跡は県道207号の左上を走る!!
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これくらいの高さ!
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状態はこんな感じ!
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その先にコンクリの橋桁がある。これは道路からも見える!!
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街が近づいてきた。軌道はずっと左上のまま。
そしてまた、軌道は県道沿いから逸れ、
民家への道に合流する。
イメージ 6犬がこっちだと言うので!!!
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こうなってるそうだ!!
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そしてぐるーと廻ってきて
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再び県道に向かうが
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まだ合流せず、左上を走りながら少しづつ県道に近づいていく。
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もしかしてここで合流していたのかな?
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そして県道の東側を走る!
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アスファルトの継ぎ目は、軌道跡を県道に吸収した時の名残りだろう。
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そしてここなへんから右に逸れる
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こんな感じかな!!
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田んぼの真ん中にあったこれは、軌道跡の名残りだと思う。
丁度それっぽい所にあった。
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そして農地を抜けて、製材所前を通り
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国道を渡り、踏切を渡り
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伊尾木の貯木場に到着!!
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ここでも軌道のレールが使われている。
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花の鉄橋跡から、西坂本橋まで20分
西坂本橋から大井の橋まで15分
大井から障子藪のつり橋まで10分
てところだろうか!!
(勿論、車かバイクで・・)
吊り橋を渡り左に行けばすぐにメガネトンネルがあります!!

そして、そこを右に行けば、またすぐに枕木、トンネル、崩壊した橋がありますが、こちら側は地図にも記載のない、なかなか険しい道のりになっています。

仙谷線と、別役橋付近からのもう一つの支線の事が分からないので・・・・・

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仙谷線は本線の分岐からの先が私道になっている
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でも、最初の頃は道を間違えてしまい、坂を下って川を渡る橋の先まで行ってしまった事もある訳で。
ただ、その道は森林軌道ではありえない勾配の上り坂と下り坂のある道で、この私道は軌道跡に重なっている訳ではないようだ!!

詳しい方の資料によると、仙谷線はこのような路線だったようだ。


詳細図より
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確かにあの道のように、どんどん高度を上げていく道が森林軌道跡である筈はない。
でも、大回りしながら高度を上げていく線だったとしたら納得できる!!
7キロ程の支線だが、この先も凄い事になっているのだろう!!

で、大久保の集落から仙谷線のほうに行けば何か分かると思い行ってみたが・・。

大久保の集落から山越えの道

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山を越え
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その上に仁井田神社がある
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大久保の集落は、もう無人だが手入れはしっかりとされている。
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その奥に、周りをしっかりと囲み、雨風で傷みにくく施されている。
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で、山越えで仙谷線を調べてみたが、下に私道が見えるだけで、軌道跡らしきものは無かった。昭和26年に廃止になった線だから、もうその跡を探すのは難しいかと・・・

と、思いつつ、軌道跡は詳細図にあるように分岐から右に逸れていく訳で、もしかしてまだ残っている可能性も高いと思う。

また、別役橋付近にある、もう一つの支線は八ヶ谷襖線という1889mの線との事だ。
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(実際の現地)
(別役線から分岐した先の別役橋の袂)
この掘割はこの先を右回りに進み、その先で左に曲がり川沿いに向かっているのだが、その辺りから地形が崩れて分からなくなっている
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ここの地形からして、この先をそのまま川沿いを走るのではなく、右に左に大回りしながら高度を上げていたとなると納得できる話だ。
また、この掘割の少し先で岩盤の地肌が見えていた事から、この掘割を埋めたというより、この市道を掘り下げて作ったんじゃないかと思う。
そして、この上の民家跡を含む場所に積まれている土とレール1本は、その時に発生した残土とレールという事になるのだろうか!!
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そしてその先に見えていた石積みはやはり森林軌道のものだったようだ!!
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古井にある自販機
ここから先は(もちろん別役方面)自販機はない
だから、ここで飲むコーヒーは一味違う!!w
何度かホットが売り切れだった事も・・!!
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そこで、気付いた!!
これが中屋商店だったのか!!!
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営林署があった頃
古井小中学校に児童生徒の声が溢れていた頃
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またまたその小中学校の前に保育園があった頃
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さぞかし賑わっていた事だろう!!

茗荷の集落を出て、終点に向かう!!
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もしやこの水槽は!!
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この3.5キロ地点を過ぎて急に軌道跡の出現が多くなった。
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小川線の営林署跡と同じ雰囲気だ。
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このノリは完全に営林署だ!
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営林署跡全景!!
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そして橋。軌道跡は対岸に向かう。
渡れそうにないので、そのまま歩く。
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そして小川線には全く出てこなかった、久しぶりのコンクリの橋桁!!

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横荒線は、昭和27年からの線だが、やはり森林軌道の橋桁の基本はコンクリなのか!!
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そして、対岸の軌道跡は、再び橋を渡ってこちらに戻ってくる。
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真ん中の支柱跡
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そして林道側の受けの部分
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この部分にはまだ枕木が残っている。
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川を渡り対岸の状態を!!!
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営林署跡のような雰囲気もあるが、ここにはなにかの施設があったようだ!
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先ほど林道側から見えたコンクリの橋桁!!
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どうやら、ここの場所は線路が複線になっているらしい。
終点ではないが、終点付近の重要な場所だったのだろう!!
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林道に戻り、もう少し進んでみる。
横荒線の廃線は昭和38年との事だが、この営林署の建物は、その後のものだろう。
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道は崩壊しているが、人口の石積みが、負けずに頑張っている。
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もう少し続いているみたいだ!
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4キロは過ぎたが、4.5キロはもう少し先
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ここで、4.5キロ地点
4.8キロの支線だからあと300mか!!
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小屋が崩壊
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そろそろ体感で300m程はあるいた感じだ。
そして崩壊して林道の下からレールが。
終点はこの付近だが、埋められたこの下という事になる。
またこの辺りから勾配がきつくなり、軌道の終点を過ぎた感じになる。
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せっかくなので、完全に終点を通過よう。
吊り橋が崩壊している。
踏み板の骨組みにレールを利用している。

軌道廃止後に、レールを使って吊り橋を掛け、その後、林道を作るにあたって、吊り橋のメインワイヤーの部分まで盛土をした!という事だろうか。
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そしてここは、島の分岐から5キロの地点であり
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横荒川の起点でもある!
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横荒川も横荒線も、伊尾木川と伊尾木線に向かって仲良く5キロ並走している!!

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